第35話 コンサート

吉田深雪さんの作った『光の輪』という曲は八小節までしかない未完成だった。サビのパートもなければ二番の歌詞もない。


 「この曲さぁ、このままのほうがいいんじゃあないかな。あえてサビは無し、歌詞も繰り返しでいい。ただ楽器の構成をエンディングに向けて徐々に増やしていこうよ」


 これは僕の提案だ。サビを作曲してしまうと合作になってしまう。歌詞を付け足してしまうと詩の中にいる“ぼく“は幸せを得るのか、それとも願いは叶わずに寂しい人生を歌うバラードに徹するのか、深雪さんはそのどちらを望んでいるのだろうか。

 

 「うん、そうだね。ハッピー・エンドでもなく、でも不幸のどん底じゃあ嫌だしね。深雪さんの想いだけを転調させていこうよ」


 ドラマーがここぞとばかりに今日初めて、自分の意見を言葉にした。僕もギタリストもドラマーの提案に同意した。吉田深雪作詞、作曲のままで僕たちのバンド唯一のオリジナル曲となったんだ。


 「吉田さんてピアノの演奏が上手なんだね、なのになぜバンドではベースを選んだんだろう」


 僕はテープレコーダーに残されていた吉田深雪というピアニストの演奏が素人の域を超えている事を口にした。


 「区切りを付けたかったんだと思うよ」


 ドラマーが応えた。さらにギタリストが彼女から聞いたという僅かばかりの過去を教えてくれた。


 「吉田さんは小学生の時にはピアノの発表会で入賞者の常連だったらしい」


 ー 海を見に行こうよ・・・ 三浦半島なら海に来た!って感じられる・・・ 一度だけ優勝したことがあるの、うれしかったなぁ・・・ー


 僕はあの時、深雪さんから聞いた言葉を思い出していた。彼女と話をした最後の言葉ひとつひとつを思い出していたんだ。


 「発表会で優勝したことがあるって言っていた。彼女はピアノを続けるべきだったんだ」


 僕がそう言うとギタリストはひとつだけ息を吐いて話しを続けた。


 「ある年から入賞できなくなったんだ。それから徐々に視力が落ちていって、発表会での演奏者選抜からも名前が消えていったんだ」


 「彼女、それでピアノを諦めたの? 指は長いし感覚だって鋭い、目が見えなくなっても演奏はできたはずだ」


 「村尾、それはちがう。演奏者から外される事がわかっている会場に行き続けることが出来なかったんだよ」


 「戦わなければ負ける事無しか、僕もそう思っていた頃があったよ」


 あの頃の僕と同じだ。吉田深雪という女性と出会う前の僕はすべてを放り出して“無“を選ぼうとしていた。


 「ピアノの演奏会って親の財力がモノをいう世界なんだ。裕福な家庭に生まれなければ、英才教育なんて受けられないだろう。だから親は子に結果を求める。どんな手段を使ってでもね」


 ギタリストの話によれば吉田家はごくごく普通のサラリーマンの家庭であった。彼女に英才教育を勧めたのは母親の夢だったらしい。


 「吉田さんがね、ピアノを奏でたいメンバーはきっと現れる。でもベースを担当したい人を見つけるのは難しいよって言っていた」


 そこに僕が現れたということなのか。


 「神奈川で開催されたピアノの演奏会で彼女、優勝したことがあるんだ」


 ギタリストが語ったことは僕も深雪さんから聞いて知っていた。


 「コンクールで優勝した翌日、両親と一緒に三浦半島をエンジン付きの小船に乗って、一周してきたって、うれしそうに話していた。。あの海は私にとって特別な場所になったってね。好きな人ができたら、見せてあげたいなぁって吉田さん、照れくさそうな声で言っていた」


 深雪さんと電話で話したあの夜を僕は永遠に忘れることはない。


 僕たちの練習場所であるリハビリセンターには盲ろう者のための職業訓練学校が併設されているので学生という身分の者たちが多く在籍している。毎年、秋には文化祭が催されていて肢体不自由者が製作した展示物や日頃のリハビリの様子を公開している。


 この文化祭のイベント会場を借りて、僕たち三人はコンサートをおこなう事になった。バンド活動を始めれば、いつの日か人前に立って、演奏を聴いてもらう事が目標になる。たとえ、おぼつかない演奏であっても、コンサートという発表の場を設定してバンド練習するものだ。それに僕たちは吉田深雪作詞、作曲の『光の輪』をできるだけ多くの人に聴いてもらわなくてはならない使命感を持っていた。

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