第34話 灯り
僕は七年前のあの日、深雪さんがさみしい気持ちや切なさを胸に抱いていたとは気付いていなかったけれど、確かに彼女が作ったバラードは美しく、当時の心情を表現しているものだった。
「音符をなぞってみようか。変調コードがほとんどないし即興でもコピーできそうだよ」
ギタリストは言葉と一緒にギターの弦を探ってFメジャーのコードからアルペジオを奏で始めた。
ー 幼いあの日 僕の瞳は 輝く光を見つめていた ー
「村尾さぁ、この曲はリードギターをメインにするじゃあなくてピアノのソロで4フレーズまでは演奏した方がいい」
ギタリストのいう通りだ。この『光の輪』と名付けられたスローテンポの曲調は高音のピアノから始めるべきだ、そして歌もソロパートがいい。
「ピアノのソロ曲だったら、歌も村尾で決まりだね」
ギタリストの提案だったけれど実は僕自身も歌ってみたかった。もちろん僕らのバンドに決まったボーカリストは存在してはいないけれども、この曲は僕が歌うって決めたんだ。理由はあの時、雑木の山で父と一緒にカブト虫を放った時の光景が思い出されたからだ。
ツノの曲がったカブト虫はクヌギの隙間から差し込んでくる光の輪の中を力強く飛び立ち消えていった。あの時の父と僕の思いと同じように、吉田深雪という今は亡き女性も光なき未来に灯りを差し込ませようとしていたんだ。
ー どこかを彷徨ってしまったときでも
歩いて行く道を光は教えてくれた ー
もしそうでないとするなら、こんな詩を彼女が書くはずがない。僕たちと一緒にいる時には常に気丈だった。辛いとか悲しいとか、まして悔しさなんて深雪さんは微塵も口にしたことがない。
ー どんなに人生が寂しくなっても
どんなにこころが暗闇に落ちていっても ー
彼女は僕たちと生きていたかったんだ。同じ道を同じ速度でゆっくり歩いて生きていきたかったんだ。それなのにあの日、駅のホームへ降りていく階段にペットボトルがあった。
彼女は叫び声を上げながら、
頭を何度も打ち付けながら、
真っ赤な血をコンクリートに染め付けながら絶命したんだ。
ー 僕は君と歩いていく
それが僕と君のふたりで
生きていく道なのだから
それが光の輪の中ならば ー
吉田深雪さんが残したのは八小節だけだ。
僕たちは即興でコード進行を探り当て、演奏をして歌った。歌い終わると誰も声を出さない時間が過ぎていった。僕たち三人、深雪さんのお父さん、リハビリの先生もいるはずだから五人がこの同じ空間にいるはずだ。でも誰の気配も感じ取ることができない時間が続いた。
僕はこの場所にひとりでいるのだろうか、いいや違う。誰もがこの空間から出て行ってはいない。僕たちは時空を超えてゆらぎを消し去り、人の鼓動さえも伝達させることを許さなかったのだ。
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