『消しゴムマジック』
志乃原七海
第1話「人だらけ。消えてくんねーかな?(笑)」
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### **第一話 消しゴムマジック**
無数の排気ガスと、他人いきの香水が混じり合ったむせ返るような空気。俺、佐藤健人(さとうけんと)は、東京という巨大なコンクリートの森で、完全に迷子になっていた。
「都会は生き苦しいな…」
誰に言うでもなく呟く。スクランブル交差点の真ん中で、青信号の点滅が俺を急かす。右も左も、前も後ろも、人、人、人。誰も俺のことなど見ていない。俺は風景の一部。いや、風景にすらなれていない、ただのノイズだ。
「人だらけ。消えてくんねーかな?(笑)」
自嘲気味に笑い、ポケットからスマートフォンを取り出した。せめてこの忌々しい風景を写真に撮って、後で愚痴の肴にでもしてやろう。カメラを起動し、雑踏にレンズを向ける。だが、ファインダー越しに見る景色は、現実以上にゴチャゴチャしていて、シャッターを押す気にもなれなかった。
その時、画面の隅にある編集機能のアイコンが目に入った。
『消しゴムマジック』
ああ、そうだ。最近のスマホは、写真に写り込んだ不要なものを指でなぞるだけで消してくれるらしい。テレビのCMで見たことがある。くだらない、と思っていた機能が、今は少しだけ魅力的に見えた。
「やってみよ」
近くの公園のベンチに座り、さっき撮ったどうでもいい写真を開く。手始めに、写真の隅に写り込んだ自動販売機。これを消してみよう。
えい、と指で対象をぐるりと囲む。
一瞬、スマホが微かに震え、処理中のマークがくるくると回る。
そして、
「…あ?」
思わず声が漏れた。
写真から自動販売機が消えたのは当然だ。だが、それだけじゃなかった。顔を上げ、現実の風景に目をやった俺は、息を呑んだ。
さっきまでそこにあったはずの、赤い自動販売機が、影も形もなく消え失せている。
「…は?…え?」
幻覚か? 俺は疲れているのか?
もう一度、スマホの画面に目を落とす。今度は、無粋にそびえ立つ電柱を囲んでみる。
えい。
処理中のマーク。そして、ゴトリ、と何かが地面に落ちる鈍い音がした。見れば、電柱に繋がっていた電線が、だらしなく地面に垂れ下がっている。そして、電柱そのものが、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗さっぱり消えていた。
「は、はは…」
乾いた笑いがこみ上げる。なんだこれ。なんだこれ!
恐怖よりも先に、とてつもない高揚感が全身を駆け巡った。
これは、ただの画像編集アプリじゃない。
世界を、俺の意のままに「編集」できる魔法だ。
調子に乗った俺は、手当たり次第に試した。
公園の時計、ゴミ箱、空に浮かぶ広告飛行船。
指で囲み、確定するたびに、現実の世界からモノが一つずつ消えていく。まるで神にでもなった気分だ。この息苦しい世界から、不要なノイズを消去していく全能感。
「…じゃあ、これはどうだ?」
俺の目に、ベンチで楽しそうに談笑するカップルが映った。男の自慢げな腕時計、女が持つブランド物のバッグ。俺が逆立ちしても手に入れられないモノたちが、やけにキラキラして見えた。
人間を丸で囲む。
…『対象外です』という無機質なエラーメッセージ。
ちっ、やっぱり人間はダメか。
だが、俺の頭に、悪魔的なアイデアが閃いた。
「んじゃ、バッグとかなら…?」
女が膝に置いているバッグを、指でそっと囲む。
えい。
次の瞬間、女が「えっ?」と素っ頓狂な声を上げた。彼女の膝の上から、忽然とバッグが消えていた。何が起きたか分からず、きょろきょろと周りを見回している。
「ははは!消えた!」
最高だ!
次は男の靴だ。帽子だ。手当たり次第に、彼らの所有物を指で囲んでいく。そのたびに、彼らの世界からモノが消え、混乱が広がっていく様は、何より痛快な見世物だった。
ようし、最後だ。
俺は、男が着ている、いかにも高そうなジャケットに狙いを定めた。
震える指で、慎重に、服の輪郭だけをなぞるように囲んでやる。
えい。
スマホの画面の中で、男の姿からジャケットの部分だけが綺麗に切り取られ、背景の景色が透けて見えた。
そして、現実では。
「きゃあああああ!」
女の悲鳴が公園に響き渡った。
男の体から、ジャケットが消えた。だが、そこには裸の上半身が現れたわけではなかった。
ジャケットがあった部分だけが、ぽっかりと空洞になっている。
向こう側の景色が透けて見える、人間のかたちをした、空っぽの穴。
男は自分の体に空いた「無」を見て、声もなく立ち尽くしている。
その光景は、あまりにもグロテスクで、非現実的で、そして、どうしようもなく滑稽だった。
俺は笑えなかった。
さっきまでの万能感は、冷や汗と共にどこかへ消え失せていた。
人間にぽっかりと空いた、歪な穴。
それを見つめる俺の心にも、同じように冷たくて暗い穴が、ぽっかりと空いてしまった気がした。
(つづく)
『消しゴムマジック』 志乃原七海 @09093495732p
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