サイバー探偵 染五郎

そめごろう

第1話 アコースティック•キティー

月明かりだけが刺す部屋。

グラスを片手に、煙草をくゆらせる男。

俺の名は染五郎。33歳、独身。しがない私立探偵だ。

グラスの中で鳴るステンレスの氷と、換気扇の唸る音だけが響く、この古びた雑居ビルの一室は、俺の事務所兼自宅だ。

剥げた革のソファーは、荒野で野垂れ死んだ獣より惨めで、デスクの無数の煙草の焦げ痕は、過ぎ去った時間を表している。

探偵を名乗るには粗末な身の上だが、この部屋が俺の全てだ。

そして、こんな場所にも客はやってくる。

不安、妬み、恨み、後悔。背に何かを抱えた者の足音が、ドアへと近づく。


「—キティがしばらく帰ってこないのよ。私の唯一の家族よ。お願い、探してきてくれないかしら」


煙草の煙が、俺のため息と共に換気扇へと吸い込まれていく。


「あのね...、大家さん、俺は何でも屋ではないんですよ。猫探しはこれで三度目じゃないですか」


俺の反応のよそに、大家はいつも以上に落ち着かない様子だった。


「帰ってこなくなって丸一日経つわ、心配よ。お願い、また見つけてきてくれるかしら。今日もお客さん来てないんでしょう?」


客が来ていないのは事実だ。そうじゃなければ、こんな所で酒を飲んで、一人でにポエムなど語っていない。


「企業兵がうろつく夜の街で、猫一匹のために命張ります...?。前回猫を探しに行って捕まった時なんて、あいつらときたら上と下の口の区別もつかずで、俺はラテックスの手袋と会話させられて—」


「あなたのその左腕だって立派じゃない、何かあってもその腕で引っ叩いてやればいいでしょう」


「これはただの義手で、ロケットパンチが出せるわけじゃないの。かといってね、やれ空調の修理だとか、やれタンスを動かして欲しいだとか、そういう事に使うものでも—」


「わかったわ...そうよね、しょうがないわね。そうしたら、ここの家賃の四ヶ月分を今払って頂こうかしらね...」


「わかりました。猫は大好きですよ、キティは良い子です。やや、そのお召し物、今日も素敵ですね」


「ありがとうね...。ああ、これを持って行って、あの子の好きなおやつ」


ソファーから鉛のような腰を上げ、大家から派手なパッケージをした猫の交渉材料を受け取る。

吸いたての煙草の先端を、義手の指で引き千切り、くたびれて色褪せたグレーのトレンチコートを羽織る。


「...もし、丸一日経って帰って来なかったら、次は他の探偵に俺を探すよう頼んでくれ」


「あなたは戻ってくるわ。気をつけて行ってらっしゃいね」


俺は立て付けの悪い玄関ドアをこじ開け、ひび割れた階段を降りていった。



——表へ出ると、狭い路地を流れる冷たい風が素肌を伝う。

雨が降る前に帰りたいところだ。俺はコートの襟を立てて歩き出す。

この一帯は薄暗く、人の気は無いが、俺にとってはそれが心地良い。


あの猫を拾ってきたのは大家の息子だ。

息子は優秀な刑事だった。

そして、かつての俺の上司でもある。

正義を信じ、この街の数少ない善玉菌のような男。

この探偵事務所を借りる事が出来たのも、彼と大家のおかげだ。この場所は悪くない。


そして、ひとたびこの路地を抜けると、今度は一気に俗世の喧騒が俺を包み込む。


空を覆い尽くす勢いのビルが立ち並び、煌びやかなネオンが目を突き刺す繁華街が顔を出す。

見上げれば、不気味な音を立て、コンクリートの谷間を縫うように巨大な広告船が飛び交っている。


この街に鳥はいない。

巨大企業、東王コーポレーションが新東京を掌握し、宅配ドローンに制空権を奪われた野生の鳥達は、皆撃ち落とされた。


しかし、そんな世界でも相変わらず猫だけはいる。

どんな時代でも生き延び、あらゆるイデオロギーとも無縁の存在。

腹が減ったら鳴き、ビルの隙間から溢れる陽だまりの中で眠り、そして夜を駆ける。

この街で売られている辞書で、自由という言葉を引いたならば、そこには四足歩行のふわふわした生き物だと書かれているだろう。


それにしても、なんだかまた増えたんじゃないか。

どれも同じ猫に見えてくる。砂漠で針を見つけるようなものだ。


まあ何も闇雲に探そうとしている訳じゃない。

こんな事もあろうかと、前回とっ捕まえた時首輪に探知機をつけておいたのだ。


俺は意気揚々と、左目に装着したウェラブルデバイスを起動する。こいつは俺が警察時代に使っていたものを少しばかり弄ったものだ。

スイッチを押すと、視界にワイヤーフレームのマップが映し出される。

これで大まかな位置は掴めるはずだが。


...信号が弱い。


数時間前の反応まで遡って辿ると、はっきりとしている信号があった。


「ここは、前回逃げ出した時にいた場所だな」


一発で現在地がわかると思っていたが、そう簡単にはいかないようだ。

仕方なく俺は信号をなぞるように辿っていく事にした。


——まず手初めに辿り着いた先は、繁華街の路地。ここはよく猫の溜まり場になっているが...

とっくに移動した後のようで、肝心のキティはいないようだった。

何か手かがりの一つでもあれば良いのだが...。俺は左目のデバイスの暗視装置をオンにして、薄暗い路地を見渡した。

すると、何やら壁に緑白く光るものが見えた。


「なんだ...これは?」


鳥のようなクチバシに、球体のような体、そこから突き出た2本の足...キーウィか?


いや待て、そんな事よりも、このマーキングは近赤外蛍光塗料で塗られたものだ。

そしてこの不可視性のマーキングは、俺のこの旧式の警察デバイスでしか見る事が出来ない...。一体何故こんな物が、一体誰が...。


もう一度辺りを見回すと、離れた場所でまた光るマークがあった。

そしてそれは、ある程度の間隔を空けながらも点々と続いており、奇妙な事に、その方向はキティの反応の軌跡と一致していた。


「何かはわからないが、同時に辿ってみるか...」


違和感を覚えつつも、俺は再び歩み始めた。



——キティの反応とマーキングを辿ってしばらく歩いていると、無数の飲食店が立ち並ぶ屋台村まで来ていた。


「ごろーちゃんじゃないの!一杯やっていくかい!?」


喉を焼ききった店主の声が俺を呼び止める。


「あいにく今仕事中でな。おじさん、山原さんところのあの猫、最近見かけてたりしないか?」


「ああー山原さんところの...仕事って!また猫探し!」


客と共に笑いが湧き起こる。

これだから酔っ払いは嫌いなんだ。

こちとら歴とした仕事を承っているんだ。家賃四ヶ月分を掛けた大仕事をな...。


「ああすまないすまない!あの猫なら数時間前だがウチの飯あげた後、向こうへ行ったよ!」


「すまない、ありがとう。またそのうち俺も来るよ」


屋台村から少し外れ、店主の言った場所へ向かうと、そこにもマークがあった。だが何かが違う。

これは...、ペンギンか。

このマークに一体何の意味があるのだろうか。キティを追うヒントとなっている以上、考えざるを得ないが、このファンシーなマークに踊らされている自分も滑稽に思えてくる。


「地下鉄入口まで500メートル...」


マークの横にある看板が目に入る。

やはりキティは最終的にこの先の地下へと向かったのだろう。

この調子で早いところ見つけよう、そう思いながら足を早めたところ—


路地の奥からスピーカー越しの話し声が聞こえてきた。


「おい、ルートから離れすぎだぞ」


「いいだろたまには。前にここの路地でカップルがヤッてたんだぜ、銃を向けたら男のほうなんか丸出しで逃げていってよ—」


まずい、企業の巡回兵だ!

数は...二人か。


俺は後退りしながら迂回しようとした。

しかし、すぐ後ろ上空から、巡回ドローンの耳障りなプロペラ音が聞こえてくる。

挟まれた...。完全に油断していた。


どうする...。一度俺は既に捕まって逃げ出している。ここで再び奴らの目に入ったならば、その瞬間、奴らの視界のインターフェースにはデカデカと要注意人物という文字が浮かび上がるだろう。

なんとしてでも避けたい。


これが映画ならば、すかさず奴らの前に飛び出して撃ち合いを始めるだろう。

だが俺のこのブルドッグの.44スペシャル弾は、あいつらの装甲の前では蚊が刺すようなものだ。


...これを使う時だな。

俺はコートのポケットをまさぐり、玩具の銃のような、手のひらサイズのガジェットを取り出す。

染五郎探偵の七珍万宝のひとつ、ジャマーの出番だ。


まず背後のドローンを照準を合わせ、中継ポイントを結ぶ、そして兵に照準を合わせ...再度スイッチを押す。


頼む、上手くいってくれよ。


「...ん、なんだこれ、うわ!!」


「「1ドルで楽しむべー!!!」」


突然、巡回兵の1人の視界一杯に、美女をはべらせた髭づらの親父の顔が映し出され、さらには男女の喘ぎ声が延々と鳴り響く。


「なんだお前、いきなりどうした」


「画面に!視界に、ポルノサイトのCMやらバナー広告が大量に、なんだこれ!クソ、消せない!!」


「やかましいな、お前がそういうサイトばかり見ているからだろ。いつもサボることしか考えてないな...、良い加減上に報告するからな」


「いや、おいちょっと待ってくれよ!、そりゃないだろ!」


うまく掛かった。

もう一人の兵はブロッカー持ちだったようだが、何やら二人して揉め出し始めたので十分だ。

俺は既に動いていた。兵の死角をつき、腰を折り曲げ、何とも惨めな姿勢でその場を通り抜けた。



——すっかり繁華街からは離れ、すこし歩いた先に古びた地下鉄の入り口がある。反応はこの下を示している。


キティはここにいる。


東コの経済特区開発に伴って、ここら一帯の鉄道は廃止され、この地下鉄も今は閉鎖されている。この街の膿んだ傷口の一つだ。


時折ジャンキーや若者の溜まり場となっていたが、近頃はこの辺も企業兵が巡回するようになり、見たところ今日ももぬけの殻だ。

しかし、閉鎖しているなら何故企業はここを埋めないんだ?、再利用するつもりでもあるのだろうか。


「いや...、今はそんなことはどうでも良い。誰も居ない内に入るか」


中へ入ると、埃とカビ、薬品の匂いが鼻をつく。ひび割れたコンクリートに覆われた、少し広い空間。今にも崩れ落ちそうな天井。


当然だが電気など通っておらず、この先はもう差し込む月明かりだけでは進めない。

俺は左目のデバイスの暗視装置をオンにした。

すると、奥にまた緑のマークが浮かび上がった。

今度は、ダチョウか...。まあ何だって良い。

これが正解なのか何なのかともかく、キティの反応もこの先を示しているのだから進むしかない。俺は先を急いだ。


外の喧騒とは裏腹に、しんとした空気が不気味さを駆り立てる。

壁を伝わせている義手の金属音を微かに響かせ、慎重に階段を下りていく。

廃線となってからは、ここまで降りた事はない。そろそろホームに出るはずだが—


足元で何かがキラリと光った。

目を凝らしながらそれを拾い上げる。


「9ミリの空薬莢...、いやこれは—」


9ミリ自体はありふれた弾薬だ。

しかし、真鍮製の薬莢についたこの黒い縞模様の痕が、俺をざわつかせた。

この特徴的な薬莢の痕は、かつて俺がいた時代の、警察で使われていた銃によるもの。

それも一つだけではない、何発も転がっている。


何故こんな所に...。


疑問が疑問を生んでいく。

キティの信号とマーキングを頼りに、ホームから廃線へ降りていき、右へ左へと突き進んでいった。


歩きながら、俺はある事を思い出していた。かつて、反企業組織が地下鉄をレジスタンス基地にしていたという噂を。

そしてその組織の大部分こそが、元警察の集まりだった事を。


いくつかの分岐を辿って、徐々にキティの反応も強くなり、もはや目前といったところだった。しかし、どうやらそこは行き止まりだった。


「なあ、まさかここまで来て何もないって事はないだろうな」


キティの反応はこのすぐ先だ。どうやって入った...きっと何かがあるはずだ。


注意深く辺りを見回すと、またマークを見つけた。

よく見ると、マーク下の壁に埋め込まれた、埃まみれの端末が隠れているのを発見する。


「これは...」


俺はその端末に見覚えがあった。


懐から、ひび割れたケースに入った警察手帳を取り出し、端末に掲げる。

小さな電子音が鳴った後、静かに隠し扉がスライドしていく。

すると、扉の隙間から明かりが溢れだした。

誰かがいる...!

咄嗟に俺は腰の銃に手を伸ばし、扉のサイドに背をつけた。


「...誰か、誰か中にいるのか?」


静寂の中、返ってくるのは己の心拍音だけだった。

慎重に顔を覗かせると、中に人の気配は感じられなかった。


一歩ずつ中へ入っていく。

そこには、時代遅れの電子機器、大量の銃と爆薬。新都奪還と書かれた布切れののぼり。

そして、中央の長机に置かれた鳥の剥製...模型だろうか。その下でうずくまってスヤスヤと寝ているキティがいた。


安堵と共に、この状況を飲み込めない自分がいる。

辿り着く先に何があるのか、薄々わかっていたはずだ。


「本当に...あったんだな、地下基地が」


ここには長らく誰も来ていないようだった。この猫を除いて。

何故キティがこの場所に辿り着けたのか、どうセキュリティを突破したのだろうか。

ともかく、まずはここから出る事が先決だろう。俺はゆっくりとキティに近づいた。


「ほら...迎えに来たぞ。お前の好きなおやつもある」


俺はおやつをちらつかせ、腕を伸ばす。


キティはパチリと目を開け、長いあくびをした後、何だこいつはと言いたげな顔をしている。それはこっちの台詞だ。


「墓荒らしは終わりだ。とっととここから出るぞ」


不機嫌そうな顔をしながらも、キティは大人しく腕に収まった。


奥にもう一つセキュリティ端末が見え、そこを同じく解除してやると、梯子があり、外へ通じる換気ダクトがあった。

一刻も早くここから出たかった俺は、キティを頭に乗せて駆け上がった。



——地上へ出ると、馴染みのある喧騒が聞こえてきた。

外の空気の方がいくらかマシに思えてくるが、タイミング悪く雨が降り出してきた。間に合わなかったか...。

キティを目を向けると、いつの間にかまた寝ていた。のんきな奴だ。



「連れ出した矢先に悪いが、雨宿りついでにすこし寄り道をさせても貰うからな」



——すっかり棒のようになった足で向かった先は、寂れた商店街。

どこもかしこも当然のようにシャッターが閉まっているが、戦前の残像が焼き付ついた、どこかノスタルジーを感じさせるここの空気は好きだ。


辿り着いた先は、楽園と描かれた、今にも崩れ落ちそうな看板が掲げられた、潰れた小さな電気屋。

店内に入ると、役目を終えた機械達、散乱した什器や山積みの段ボールが出迎える。

俺はそれらを掻い潜り、奥へと進むと、隠し扉の前に立つ。


「俺だ、開けてくれ」


「着けられていないよな?」


スピーカーからくぐもった声が聞こえる。


「数ブロック前からカメラで俺を見てたろ、早く開けてくれ。走ったりよじ登ったりで脇腹が痛ぇんだ...」


数え切れない金属の解錠音を奏でた後、戦車の装甲のようなドアが開く。


「...相変わらず、戦車にしては広いが、人が住むには狭いな」


「それで、何の用だ。猫なんか連れてきてやがってよ。毛...、落とすなよな」


この短髪の男は江田、俺の相棒であり、生粋のテックオタク。様々なガジェットを製作、売買している。

俺はその実験台として使われているモルモットでもあるが、この男の腕は確かだ。

探知機とジャマーを作ったのも彼だ。


「ジャマーはどうだった、面白いだろ」


「効果は抜群だ。何度も使える手では無いが、あいつらの慌てふためいた姿、生で見せてやりたかったよ」


「まあ、元はと言えば俺が広告船のスクリーンやその辺の連中のインターフェースに、推しの配信や画像をばら撒く手法の応用だったが、ここまでうまくいくとはな。」


江田がニヤニヤと笑う。


彼は、AIアイドル狂信者でもある。

10畳ほどの部屋に、電子パーツとガラクタがそこかしこに山積みになっているが、推しのホログラムフィギュアやらキーホルダーが大量に飾られた〝神棚〟だけは、綺麗に保たれている。


「なあ、いつも思うんだが、そんな事をして公式だとかファンとかに怒られないのか...?」


江田は鼻で笑う。


「おいおい何言ってんだよ、今や他のライバルアイドルのファンとも制空権を争ってる。資本主義という言葉を知らないのか、売れる為ならなんでもするんだよ」


この話をしだすと奴は石炭を目一杯入れた機関車のように止まらない。


「まあともかく...本題なんだが—」


やや興奮ぎみになりつつ江田を横目に、俺は話を切り出す。


「実は、キティ...いやこの猫の首輪には、古い警察のICチップが付けられていた。誰のものか照会出来るか?」


「猫に?」


江田は怪訝な顔をしながらタグを受け取り、解析する。



「─出たぞ。登録はかなり前だな。最終更新日は11年前。名前は、山原みずき」


「...大家の息子だ。誰のものかはもうわかっていたが」


かつての俺の上司、山原みずきは刑事だ。

だが同時に、反企業組織の幹部でもあった。


東王コーポレーションが、都の司法や警察権さえも掌握し、警察は奴らの子会社となった。

この街の治安維持も、奴らの私兵団に座を奪われ、一斉にお払い箱にされた大多数の警察官達は市民と共に蜂起、企業兵と血で血を洗うような紛争が起きた。


その渦中で、彼は死んだ。


「大家はまだ知らないんだろ、息子が何をやっていたのか」


江田が俺に尋ねる。


「知らない。いつか俺の口から言おうと思っていた。...そう思って何年も経ってしまったが」


「それで良いだろう。知らなくて良い事もある。しかし、なんで猫なんかに付けたんだろうな」


「さあな。ああ、それと...、お前が最後に見た鳥の剥製だが、これはおそらくヤンバルクイナだな」


「ヤンバルクイナ?」


「沖縄に生息している鳥だな。所謂飛べない鳥の一種だが、他の鳥に比べて脳が大きく、認知能力も高いらしい。開発に追われて数を減らしたみたいだがな」


「飛べない鳥か。そうか...。キーウィ、ペンギン、ダチョウ。俺がキティを追う中で見てきたマークもみなそうだった」


「このキティも、あの人が拾ってきたんだ。自由の権化みたいなこいつに、何かを託したのかもな」


俺は退屈そうにしていたキティを抱え、ドアへ向かう。


「おう、帰るのか。このチップはどうする。お前の上司の形見みたいなものだろ」


「そいつはやるよ。形見なら、この猫だけで十分だ」



——外へ出ると、すっかりと雨雲は消え、空が赤い断末魔を上げ始めていた。


家路を辿りながら、ふと、あの上司と朝まで飲み明かしていた頃を思い出す。


「鳥インフルエンザの蔓延防止だとよ...。皆撃ち殺された、鳥も、人も。どんどんこの街はおかしくなっていく。染五郎、俺は」


─俺は、鳥が空を飛ぶ街を取り戻したい。

あんたは酔うといつも口癖のように言っていた。いつものバーで、いつものウィスキーを片手に。


あの時、俺も皆と同じく職を追われ、ストライキにも参加した。

当然、治安は悪化の一途を辿り、同盟が地元ヤクザと手を組み始めてからは、もはや手段を選ばなくなっていった。

爆発と乾いた銃声、泣き叫ぶ子供、火薬と人の焼ける臭い。

いつしか俺はあの人からも離れていった。

俺は逃げたんだ。


空を飛べない鳥は、退化ではない。地上を選び、順応した姿だ。

山原はそんな鳥達のように、地を這ってでも抵抗し続けていたのだろう。

しかし、それでも彼らは企業に敗れた。


腕の中でフゴフゴとキティが鳴く。


「付き合わせてごめんな。もう帰ろう」


この猫は、飛ばずとも這わずとも、ただそこにいるだけで、この世界の一筋に隙間を作って生きている。

これは、山原が俺に伝えたかった事なのだろうか。


「お前はせめてもの救いなのか?。それとも、俺達みたいな逃げた奴が、まだ諦めきれずに抱きしめられる、最後の自由か?」


キティは答えない。



——事務所へ戻ると、大家が椅子に座っていた。


「ただいま。随分と早いな...」


「年寄りは早起きなのよ。おかえり探偵さん。キティ...、もうあなた何処に行っていたのよ」


キティは俺の腕からそそくさと離れ、大家の腕にくるまった。気ままなやつだ。


「見つけてくれてありがとうね。...あら?この子首輪が無いわね」


「ああ...そうだな、どこかで落としてきたんじゃないか...」


「まあ良いわ、少し窮屈そうだったしね」


「...じゃあ俺はこれから寝るから—」


俺は椅子座った大家の横を通り、よろつきながらソファーへ向かう。


「知っているのよ。あの子が何をやっていたのかはね」


思わず体が止まる。

振り返ると、大家がこちらを見ていた。


「...知っていたのか」


「自分の子供の事ぐらい、わかるわ。どんな最後だったのかまではわからないけれどもね。馬鹿だよ、あの子は。でもあの子らしいといえばそうね」


哀しみとも、誇りとも取れる口調で、大家は話す。

その目は、窓から刺す日の出の陽光で照らされ、輝いていた。


「俺は...、あの時—」


後悔と罪悪感、自身の愚かさ、それら全てが俺の全身を覆う。


俺が言葉を詰まらせていると、大家は、おもむろに手に持っていた紙袋から瓶を取り出した。


「報酬と言っては何だけども、お酒を持ってきたわ。悪いけれど、もうすこし付き合ってくれないかしら。」


「はは...朝から元気だな。酒はやめたんじゃなかったのか、...そのウィスキーは—」


「やめろと言った医者はこの前撃たれたわ。さて、グラスはあるかしら?」


この時代に年寄りを見たら、生き残りと思えとはよく言ったものだ。この人には叶わない。


——俺は戸棚を開け、デスクにグラスを三つ置いた。

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サイバー探偵 染五郎 そめごろう @somegoro0357

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