第26話



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**『京都祇-園四条大橋心中』より**


**作者:志乃原 七海**


「児童相談所…?」

和子の唇が、初めて意味のある言葉を紡いだ。しかし、その声は自信を失い、か細く震えている。虚勢の鎧が剥がれ落ちたその顔に浮かぶのは、焦りと、信じられないというような狼狽の色だった。


「な、なんの証拠があって…! 口からでまかせ言わんといて!」

最後の抵抗とばかりに、和子が金切り声をあげる。だが、その声にはもう、先程までの相手を威圧するような力は残っていなかった。


田中は、そんな和子の姿を冷え切った目で見下ろした。

その瞳には、もはや哀れみさえ浮かんでいない。ただ、汚れたものを処分するような、無機質な光が宿っているだけだった。


「証拠なら、ここにある」

田中は、自分の隣で固く手を握る菜々美の、骨張った小さな肩に視線を落とす。その視線だけで、この子の痩せ細った身体そのものが、何よりの証拠だと物語っていた。


そして、再び和子へと向き直る。

静かに、諭すように、しかし一言一句に氷の刃を込めて、彼は言った。


「わかるか?」


その問いかけは、静かであるほどに、和子の心臓を直接掴むような凄みがあった。


「実の娘に、これだけ殴る蹴る! 食事も与えない! 学校へも行かせない!」


淡々と、事実だけが紡がれていく。

一つ言葉が発せられるたびに、和子の顔から血の気が引いていく。それは、今まで目を背け続けてきた自らの罪を、他人から一つひとつ突きつけられる苦痛だった。


田中は、最後の言葉を、まるで判決を言い渡す裁判官のように、冷ややかに告げた。


「母親と言えど、犯罪やな!」


犯罪。

その二文字が、部屋の淀んだ空気に重く、重く響き渡った。

和子は「あ…」と小さく喘ぐと、言葉を失い、崩れるようにその場にへたり込んだ。もう、何も言い返せない。何も取り繕えない。真実という名の、鋭利な刃に貫かれてしまったのだ。


菜々美は、自分のために戦ってくれる男の、広い背中をただじっと見つめていた。

握られた手から伝わってくる、確かな温もり。

今まで、誰にも守ってもらえなかった。世界でたった一人きりだと思っていた。

けれど、今、この人は、自分の盾となり、剣となって、自分を虐げてきたすべてのものと戦ってくれている。


じんわりと、目の奥が熱くなる。

それは、悲しみの涙ではなかった。

生まれて初めて知る、安堵と、そして今まで感じたことのない種類の、甘いときめきに似た感情が、凍てついた心を溶かしてゆく。


この人を、信じよう。

この人に、ついていこう。


少女の心に灯ったその小さな光が、やがて二人を逃れられない運命の渦へと巻き込んでいくことを、まだ誰も知らなかった。

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【京都祇󠄀園心中】教師編 志乃原七海 @09093495732p

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