第25話
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**『京都祇-園四条大橋心中』より**
**作者:志乃原 七海**
「親やけど? それが、どないしたん」
和子の言葉は、刃物よりも冷たく、田中の心を抉った。
ああ、駄目だ。この女には、もう人の心というものが残されていない。言葉を尽くしても、感情をぶつけても、まるで分厚い氷の壁に石を投げつけるようなものだ。何も響かない。何も届かない。
絶望が、黒い霧のように思考を覆い尽くす。
その霧の向こうで、ただ一点、菜々美の瞳だけが、救いを求めるように揺らめいていた。
そうだ。話すべき相手は、この女じゃない。
田中は、和子からすっと視線を外し、うずくまる少女へと向き直った。
そして、泥水の中に咲く一輪の蓮を扱うように、そっと、優しく手を差し伸べる。
「だめだ…。行こう、菜々美!」
その声は、もう怒鳴り声ではなかった。
懇願するような、すがるような、それでいて有無を言わせぬ響きを帯びていた。
行こう。ここじゃない、どこかへ。この地獄から、君を連れ出す。
菜々美の瞳が、大きく見開かれた。
差し出された、節くれだった大きな手。冬の陽光を浴びて、その手はまるで、暗闇の底に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように見えた。
その手を、取ってもいいのだろうか。
取ってしまったら、もう二度と――。
少女がためらった、その一瞬。
背後から、獣の唸り声のような声が飛んだ。
「なにしとんの!」
我に返った和子が、鬼のような形相で二人を睨みつけていた。
「人の子に手ぇ出して、どこへ連れてく気や! どろぼう!」
その言葉に、田中の表情からすうっと感情が消えた。
彼は、菜々美に向けた優しい眼差しのまま、しかし声色だけは氷点下の冷たさを帯びて、ゆっくりと和子に告げた。
「どろぼう…? 違うな。これは保護だ」
田中はポケットからスマートフォンを取り出すと、その画面を和子に見せつけるようにかざす。通話履歴の一番上には、「児童相談所」の文字がはっきりと表示されていた。
「ここへ来る前に、児童相談所へは連絡しています。あなたの娘さんが、学校にも来ず、食事も与えられていないようだと。…あんた、終わりな」
宣告だった。
それは、教師の言葉ではなかった。
一人の少女の運命を背負うと決めた男の、冷徹な最後通告。
「なっ……!」
和子の顔から、血の気が引いていくのがわかった。余裕を浮かべていた唇がわななき、虚勢の仮面が剥がれ落ちていく。
その隙に、田中はもう一度、菜々美に囁いた。
「行こう」
菜々美は、震える小さな手を、そっと田中の大きな手に重ねた。
初めて触れた大人の男の手は、ごつごつとして、驚くほど温かかった。その温もりが、凍りついていた心の芯を、じんわりと溶かしていく。
その手を固く握り返し、田中は少女をゆっくりと立ち上がらせた。
和子の金切り声が背中に突き刺さる。けれど、もう彼の耳には届いていなかった。
この小さな手を、決して離さない。
その誓いが、やがて自らを身も世もなく焦がす業火となり、二人を京都・四条大橋の欄干へと追いやることになる運命の始まりだと、まだ知る由もなく。
ただ、男は少女の手を引き、光の差す方へと、一歩を踏み出した。
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