武蔵野での日常

 武蔵野の地は喧騒に塗れた浅草と違い、緩やかに時が流れている。

 小高い丘から見渡す限りどこまでも田園風景が続き、晩夏の風は耕した土の匂いを運んでくる。外に出るだけで蒸籠で蒸される饅頭の気分を味わえた夏の熱気は遠く、いまでは日陰に入ると涼しささえ覚える陽気となっていた。


 月彦は縁側に腰掛けながら、目の前の長閑な風景を描くべく筆を走らせていた。


「ねえ、月彦さん、向こうのお山ではもう紅葉が咲いているのですって」


 庭掃除を終えた馨子が、箒を薙刀に持ち替えて駆け寄りながら弾んだ声で言った。


「そうか。なら、この辺ももうすぐだな」

「はい、楽しみです」


 屈託のない笑顔で頷く彼女に、月彦は隣に座るよう促した。誰が咎めるでもない、田舎の縁側だというのに、「失礼致します」と丁寧な所作で腰を下ろす様は、育ちの良さを窺わせる。



 ――――あれから。


 月彦はユカに相談し、地面に額をめり込ませる勢いで馨子の両親に頭を下げ、全て包み隠さず事情を話して、月彦の実家である武蔵野に引っ越してきた。馨子の処遇が勘当ではなく『輿入れ』となったのは、ひとえに彼女の母にそういった事象の理解があったためだ。そして、そんな女性を妻に迎えている馨子の父も、頭ごなしに月彦の言葉を否定したりはしなかった。

 更には月彦の祖母も、全てを知った上で忌避することなく馨子を迎え入れた。

 奇跡のように、環境に恵まれていたと言えるだろう。


 あの日、月彦の父である陽太と交わしたとある約束に異様なほど固執している点を除けば、それ以前と変わりない気立ての良い少女だ。

 祖母もよく笑いよく働く彼女を気に入り、月彦同様孫のように可愛がっている。

 厠へ行くにも風呂へ行くにも心配してついて行きたがるところに関しても、あまり気にしていないようだ。

 いまばかりは、祖母の大らか過ぎる性格に感謝するほかない。


「あら、夕立ですわ。中へ入りましょう」

「そうだな」


 数日前までは、夕立が訪れても蒸すばかりだったというのに、一雨で一気に空気が冷えた。

 僅かだった夏の名残も間もなく夕立と共に流れ、武蔵野にも秋が訪れるだろう。


「そうだ。そろそろ紙芝居の新作が上演される頃だな」

「本当ですか? 先月まで、描いていらしたものですよね」

「ああ。……なんだ、その、良かったら、見に行くか。おばあちゃんも一緒に」

「ええ、ええ、ぜひ! 探偵さんたちにもお声がけしましょうか」

「そう、だな。探偵事務所なら電話があったはずだから、あそこにかければほうっておいても全員に話が行くだろう」


 楽しみですね、と屈託無く笑う馨子と共に、月彦は祖母に声をかけに行く。祖母は「あらあら、お若いふたりきりのおでかけじゃなくて良いのかしら」と笑いながらもうれしそうに快諾した。


「飴を買って、紙芝居を見て、それからどうしましょう」

「行ってから考えればいい。帝都には娯楽なんて腐るほどあるからな」

「そうですね。月彦さんと一緒なら、何でも楽しいですもの」


 横からの「本当に二人きりじゃなくて良いのかしら」という微笑ましげに冷やかす声に、月彦は心の中で仮面の存在に感謝していた。

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永い悪夢の後日談 宵宮祀花 @ambrosiaxxx

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