永い悪夢の後日談
宵宮祀花
緞帳はまだ下りない
二人、帰路につく
一晩寝て、朝が来て。
何事もなく夜が明けたことに安堵した。
約束したわけでもないのに、自然と探偵事務所に集まる顔ぶれはあの日と同じ。
誰一人欠けることなく、悪夢から"生還"したのだと実感する。
馨子は、父親が瀬戸内の農家から買い取った檸檬で作った檸檬ケーキを持ってきていた。夜遅くまで連れ回したことで、なにかしらのお咎めがあるのではと思っていた者も、馨子から話を聞いてどうやら大事にはなっていないことを知る。
家柄を考えれば謹慎処分くらいは覚悟するべき事態だったにも関わらず、だ。
とはいえ、根掘り葉掘りお家の事情を聞くほど野暮でもない一同は、ただ微笑って「良かったね」と言った。
「――――で、結局二階でなにがあったんです?」
「別に……大したことではありませんよ」
探偵
「大したことじゃないなら話してくれてもいいじゃないですか」
「ここで……彼女の前で話すようなことではないです」
尚も詰め寄る住吉に、相馬は桜屋敷馨子を一瞥して溜息を零した。
それに反応したのは、カフェーで女給をしている浅井節子だ。
「あら、私は良いんですか?」
悪戯そうに笑って言えば、相馬の眉間に皺が刻まれる。
「あなたは共にいた側じゃないですか……」
「仕方ない、じゃあ、あとで聞かせてくださいね」
ようやっとこの場では諦めてくれたことに安堵し、相馬は再び溜息を一つ。
他愛ない会話をする面々を眺めながら、月彦は筆を走らせていた。
記憶が、情熱が、恐怖が色褪せないうちにと、白紙を埋めていく。
ちら、と。マスクの内側で隣に視線を送る。
傍らには馨子が座しており、雑談に興じる皆を楽しげに眺めている。
共に過ごしたのはほんの数日だが、何年も前からそうであったかのような騒がしい日常がそこにある。
しかし、月彦は――――月彦だけは、日常の裏を知っていた。
* * *
――――尋常ならざる惨劇を生き延びた、あの夜のこと。
「どうか、父の小瓶を渡してはもらえないだろうか」
膝をついて、目線を合わせて告げた願いは、そうすることが当然であるかのように叶えられた。恐らく彼女も最初からそのつもりだったのだろう。古い写真立ても共に手渡された。月彦とは似ても似つかない優しげな面差しをした、父の写真だ。
小瓶は手に、写真は懐に。
そうして馨子の手配で足を得た奇妙な一団は、夜明け前の海へとやってきた。
ユカから聞いた、母の逝き先へと父を送るために。
「……海の底で、幸せに暮らせよ」
囚われていた魂は波に乗り、ゆるやかに水底へと還っていく。
水平線が光を帯び、東の空が白んでいく様子を暫し眺めた一行は、誰からともなく踵を返した。
皆、それぞれに帰る場所がある。
一言二言かわして、帰路につく。
月彦も、ひとり化物横町へ帰るつもりで歩いていたが、傍らにもう一つ足音があることに気付いて足を止めた。
「どうした、家はこっちじゃないだろう」
立ったままでは合わない視線を、軽く屈むことで合わせて問う。
少女は真っ直ぐに月彦を見据えたまま、震える唇を開いた。
「……約束、しましたから」
「約束……?」
「ええ、お父様との約束です。お守りすると、約束しました。ですから、私は……」
そこまで言って、不意に馨子の様子が不穏な色を帯び始めた。
「わ……私は、お側でお守りしないといけないのです。だ……だって、また、ああ、あのような、あのようなことが、もし、また月彦さんに起きたら、わ、私は、約束、約束したのに……私、私は……ああ、どうして、どうして……約束、ですから、お、お守りしなければ、だって、私は……」
罅の入った小さな薙刀を震える両手で握り締めながら、懺悔の言葉を諳んじるかのように呟く。
マスク越しに見つめる少女の黒い瞳は、月彦を見ているようで見ていない。眼球が揺れ、涙の膜が滲み始める。か細く震える声も、白い指先も、全てが馨子の心に深い恐怖が根付いていることを表している。
彼女にとっては、あの悍ましく常軌を逸した、常識の埒外にある存在がいまも実のある脅威として其処に存在しているのだと察した。
人は、自身のうちにある常識から外れた物事に遭遇した際、無意識下で防衛本能が働くという。これは現実ではない、つまらない絡繰だ、ただの夢だ、こんなものあるはずがないと自分を誤魔化す。
しかし、それが苦手な者もいる。真っ直ぐであるがゆえに、自らに嘘をつくことが出来ず、異常を正しく理解してしまう者がいる。
(――――そういえば、あのとき軍人さんも様子がおかしかったな)
月彦は、震えながら己に言い聞かせ続けている馨子の細い肩に両手を置き、努めて優しい声を作ってゆっくりと語りかけた。
「そうか。わかった。わかったよ、傍にいような。父さんと約束したんだから、な」
どこにも行かない、大丈夫だからと悪夢に怯える幼子を諭すような口調で、呼吸を合わせ、視線を合わせ、同じ場所に立っていると伝え聞かせる。
果たしてどれほどそうしていただろうか。
馨子は糸が切れたようにその場に倒れた。
「家に送り届けたいところだが、起きて俺がいなかったら騒ぐだろうな……」
よりにもよっていいところのお嬢さんだ。
男のところ、しかも化物横町などに寝泊まりしたなどと知れたらどうなることか、考えるだに恐ろしいが、それでも。
それでも置いて行くことは出来ず、月彦は馨子を背負い、ユカの待つ家に帰った。
* * *
ふと、喧騒に我に返る。
いつの間にか皆の視線が自分に集まっていて、それが好奇の色に満ちていることに気付いた。
「なんだ」
「なにを書いてるんです?」
「……次回作だ。見るなよ」
「見るなと言われると見たくなりますねえ」
「そうですね」
他愛ない雑談だ。
彼らにとっては、超常に遭遇する依然と何ら変わりないやりとり。
だが、月彦は僅かな変化を見逃さなかった。
そしてそれを、悟らせるわけにもいかなかった。
「完成したら、一番に見せてやってもいい、から」
頼むからこれ以上はと、マスクの内で願う。
「まあ、それなら楽しみにしていますね」
「完成したら、私たちで宣伝しましょうか」
「それはいいですね」
やれやれと、隠れて安堵の息を漏らす。
いまほど自分の容姿とそれに伴うこのマスク姿に感謝したことはなかった。
しかし安堵したのもつかの間。
「そうだ、子供向けに紙芝居を作るなら、その大仏も子供受けするものにしてみてはどうでしょう?」
どうしてそうなったのか。
自分は紙芝居を書くだけであって、演じるのではないのだが。という至極真っ当な反論は、ああでもないこうでもないという賑やかな声にかき消されていた。
「ねえ、馨子さんはどう思う?」
馬やら熊やらの案が出尽くして、静観していた馨子に話が振られた。
どんな突飛なマスクを求められるのかと見守る月彦の他、周囲からも期待の視線が集まる。
「私は、素のままの月彦さんが一番素敵だと思います」
無音が、室内を通過した。
咥え煙草の灰を膝に取り落としたらしい杏の「あっつ!?」という声を皮切りに、周囲からも声が上がりだした。
いつの間にそんな仲になっていたんだという冷やかしを遠くに聞きながら、月彦は隣を見た。視線を感じた馨子が月彦を見上げて微笑む。その笑みは一見するとなにも変わらないように見えた。
だがその瞳の奥を覗けば、彼女がまだ日常に正しく還っていないことがわかる。
その片鱗を感じる度に心臓が跳ねる心地がして、その分寿命が縮む気さえする。
カフェー店員である節子がそろそろ仕事の時間だからと席を立ち、杏もまだ原稿があるといい、まばらに解散し始める。
流れのままに月彦も席を立つと、当然のように馨子も席を立った。
探偵事務所を出てからも、並んで同じ方向へと歩いて行く。
変わってしまった世界で、崩れてしまった常識の欠片を抱えながら。最早一人では立っていられないほどに、どうしようもなく歪な体と心を引きずりながら。
そうして二人、帰路につく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます