3-6.邪魔をしてはならぬ
幼い頃に一度だけ出会った瑠璃色の竜。
川に流され、そのまま冷たい水底に沈むしかなかった自分を救ってくれた若い竜の姿が、ミルウスの脳裏をよぎる。
星を宿した夜空色の瞳。瑠璃色の鱗が美しいあの竜はどうしているのか。
今も悠然とセイレストの広い空を飛んでいるのだろうか。
あの竜は野生の竜。
秘境『空天の渓谷』を棲み処とし、この帝都にはいない……。
騎竜ではないので、この竜苑にいるはずもない。
ヒトとは交わらぬ孤高の竜だ。
それなのに、ミルウスはあの竜の姿を探してしまう。
続きを促すかのように、腰に絡められたルリーの腕がさらに力を増し、彼から漂う香りがいっそう深くなった。
「ミルウスは、賢くて、でも、勇敢ならば、どんな竜でもよいのか?」
深みを帯びたルリーの声が、ミルウスの耳元でそっと囁かれる。
彼が発した『どんな竜』という言葉が、ミルウスの心にツキンと音を立てて突き刺さった。
「いや……。もう、オレは選んでいるような立場じゃないな。どんな竜でもいい。そうだ、オレを選んでくれる竜なら……」
「ミルウス……」
ルリーの言葉が不意に途切れた。
柵によじ登っていたファルテイが、背伸びをして天に向かって両手を振り始めたのである。
「お――い! お――い! こっちだよ――!」
バランスの悪い柵の上で、小さな子どもが虚空に向かって懸命に手をパタパタと動かす。
「おい! こら! ファルテイ! 手を離すな。危ないぞ!」
流石にこれはやりすぎだ。
案内役の竜騎士が慌てて駆け寄り、「柵から降りてください」と注意する。
「ファルテイ! 柵の上でぴょんぴょん飛び跳ねるな! すぐに降りるんだ!」
「ミーウスにーたま! すんごく、すんごく……大きな竜がお空を飛んでいますよ! すごいです! 大きいですっ!」
目を輝かせながらさらに大きな声をだすファルテイ。
小さな子どもが見上げる先は……雲が浮かぶ夏の青い空。
「大きい竜さん! こっちで――す! みんなでいっしょに遊びましょう!」
「ファルテイ! やめろ!」
「ご子息様! 落ち着いてください。危険ですので、お手をお放しにならないでください。お願いですから、柵上には登らないでください!」
騎士団長の息子に対して注意することしかできない若い竜騎士が哀れだ。ミルウスがファルテイを柵から下そうと動けば、ぐいと腰に抵抗がかかる。
「る、ルリー? 放してくれ」
「邪魔をしてはならぬ」
「どういう意味だ?」
やんちゃな甥っ子を止められるのは自分だけなのに、ミルウスを引き止める腕の力は強く、これでは近づくことができない。
と、急に風が唸りをあげ、大きな影が夏の陽光を遮る。
「わぁぁぁっ! ミーウスにーたま! すごく大きな竜ですよ!」
今までなにもないと思っていた空から、巨大な影が急降下してくる。
竜苑にいた竜たちが「グルルルッ!」と鳴き、空気が震えた。
突然の嵐に竜苑だけでなく、営舎そのものが一気に騒がしくなる。
「あ、あれは!」
「空を見ろ!」
巻きあがる風圧と威圧は凄まじく、一瞬でも気を緩めたら吹き飛ばされてしまいそうだ。
小石や枝、葉や草が巻き上がる。
この場に居合わせた者たちは手で顔をかばながら、空を見上げた。
「大きな竜さん! こっちだよ――!」
強風に怯えることなく、幼い子どもは天に向かって声を張り上げる。
「ファルテイ! 柵に捕まれ! 飛ばされるぞ!」
甥に向かって呼びかけるが、竜たちの鳴き声にかき消されてしまう。
影がさらに濃くなり、ミルウスも空を見上げた。青い空が目にしみる。
(あ、あの形は!)
その巨大な姿にミルウスは息を呑む。
陽光を背に巨大な竜が猛スピードでこちらに近づいてくる。
角は四本。どれもが鋭いが、若い竜のつるりとした滑らかさはない。
太く重々しい表面には、年月の風が彫りつけたような深い溝が走り、古木の幹を思わせるごつごつとした重みがあった。
鱗の一枚、一枚にも、長い時を生きた竜だけが持つ魔力の深みが滲んでいる。
歳月に磨かれた岩肌のような重厚さと、年輪を思わせる波が刻まれていた。
薄暗くなる夕方の空色に似た
深みを帯びた黒光りする青色は、この竜が幾星霜を生き抜いた証そのもの。
(
ミルウスの全身に緊張が走った。
あの竜は……亡くなった父の騎竜だ。
大きな翼が羽ばたくたびに、風が巻きあがる。
騎竜たちの喜びの声に、竜苑は騒然となった。
「あ、あの竜は……あの騎竜は!」
「先代様の騎竜!」
「
「大変だ! 早く、団長に知らせろ!」
騎士たちの口から「
慌てるヒトを気にする風もなく、瞑色竜は竜苑へと降り立った。
着地の瞬間、風が暴れ、地面が揺れる。
竜の場所とヒトの場所を区分けする柵のギリギリ。
瞑色竜はミルウスが見守るファルテイのすぐ目の前で頭を垂れ、大きな羽をたたんだ。
間近に迫った騎竜に、ファルテイが手を叩いて喜ぶ。
[ふわあっ! おめめも、おくちも、おはなも、つばさも、つのも……ぜんぶ、ぜんぶ、大きいですね!]
「グルル――ルッ」
「ご子息様!」
「ファルテイ様!」
「それ以上、近寄ってはいけません!」
「離れてください!」
大人たちは慌てた。
飼い慣らされた騎竜とはいえ、今は主人がいない竜だ。
つまり、瞑色の巨大な竜に対して命令を発することができる竜騎士はいない。
しかも、この瞑色竜は帝国が認定している騎竜の中では最大級の大きさを誇り、セイレスト家の初代の頃から騎竜として生き続けている長命種だ。
ファルテイのような子どもなら、竜の鼻息ひとつで吹き飛び、爪の先が触れるだけで身体を切り裂かれてしまう。
穏やかな竜ではあるが、竜は竜だ。
ヒトにはわからぬ些細な刺激が竜を怒らせ、些細な反応でもヒトに被害をもたらす。
相手が子どもならひとたまりもないだろう。
田舎の竜は帝国の騎士に恋をする~ヒトに恋した竜の一途な想いは天空を駆ける~ のりのりの @morikurenorikure
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