第2話 獣のプライド


 朝日が、白い壁を淡く染めていた。

 部屋には窓が一つしかなく、その細い光だけが静かに漂う空間だった。昨夜、獣は少女の指を喰った。こゆびのふっくらとした肉を、細く硬い骨ごと噛み砕き、血の生温かさを舌の上に感じながら、飢えを満たした。だが、今はただ、静寂があった。


 おれはゆっくりと目を開けた。昨日の悪夢の名残が、まだ喉元に絡みついている。カラスミを食べたあとのようなねっとりとした唾液と胃から這い上がってくる生臭さ……おれは、ごくりと唾を飲んだ。


 家はとても静かだった。少女の金切り声と獣の唸り声が乱交していた昨夜とはまるで別世界のよう……昂ぶっていた獣性も一旦は収まっているようだった。


 おれは、恐る恐る逃げ込んだ隣の部屋から、少女のいた部屋へ戻った。


「…………」


 血の飛び散った部屋には唯一の窓から光が差し込んで、簡素な部屋を明暗二つに切り分けていた。少女は部屋の隅で壁にもたれ掛かり眠っていた。箱に入っていた時のように頭を肩の方へコクリと折り曲げ、手足はだらんと脱力したままになっていた。まるで、子どもが遊び終えて放置した愛玩人形のようだった。


 そして不思議なことに、こゆびの断面に流れる血は見えず、断面は滑らかで、まるで最初からその指が存在しなかったかのように整っていた。


 罪を突きつけるようだったグロテスクな断面に対して、こゆびのあった筈の付け根は、柔らかい肉が覆い一転誘惑の匂いを放っていた……おれはいつの間に少女のそばで、寝息と心拍を合わせるように落ち着いた心持ちで、その断面を眺めていた。


 しかし、次の瞬間飛び込んで来たのは、春一番のような柔らかな強風だった──


「──おはようございます、獣さん」


 予想外の明るい声が、静寂なおれの世界を裂いた。断面から顔を上げると、快活な少女がそこにいた。陽だまりの中で、柔らかく微笑んでいた。まるでここが普通の朝のように、おれに笑いかけていた。


「な、なぜだ……?」


 呆然と呟くしかなかった。それは母や恋人、やがては、自らの子に見せるような健全な笑みだった……


「ふふ、驚きましたか? 昨日はとっても美味しそうに食べてくれましたものね」


 少女は嬉しそうに、胸の前で手を組んだ。まるで、愛されることを願う少女そのものの仕草だった。まっしろな指と指を絡ませ……当然左手のこゆびは無いものの……病的な色の肌は瞬間にして、血色の良い赤みがかったものになった……日差しがいっぺんに差し込んで、この部屋を照らしたのだった……


「おかしいぞ、それはオカシイ。おれは、おまえを喰ったんだぞ!」


 おれは前脚を振り上げるように立ち上がっていた。これでは警官に現行犯を見過ごされたようなものだった……しかし、許されたという喜びは一切無かった……むしろ、獣としてのプライドを傷つけられたような……


「わたしを、食べたいんですよね?」


 少女は、首を傾げて小さく笑った。

 大きなおれの胴体によって影になった少女の場所からは、逆光でおれのからだの大きさや、獣性もイヤというほど見えるはずだった……けれど、少女は子どもをあやすような声音を変えなかった。


「た、食べたいわけあるか!」反射的に叫んだ。「おれは人間だったんだぞ!!」


 しかし、否定の言葉とは裏腹に、おれの腹は鈍い音を立てて鳴った。喉が、渇くように何かを求めている。


「ほら、やっぱり」


 少女は、無邪気な顔のまま、ふわりと身体を傾けた。その笑みは、まるで何かを確信しているかのようだった。「食用」としての少女は、既に自らの運命を認めているというのか……おれはひたすらに抗っていたというのに……


「ねぇ、知ってる?」


 少女は、細い指を唇に当て、秘密を囁くように言った。


「カマキリさんはね、えっちをしたあと、メスがオスを食べちゃうの」


 少女の赤い唇が食欲を煽る……再びからだを熱が駆け回っていく。


「獣さんもわたしを食べるのよね。それって……とってもロマンチックだわ」


 彼女の声は甘く、それでいてどこか湿り気を帯びていた。まるで、深く沈んだ沼に誘い込むように。


「ロマン……チック……? おまえは何を言っているんだ!?」


 その言葉が脳に焼きつく。否応なく、おれの身体は反応する。喉が鳴り、指先が震える。自分が今、何を求めているのか──分かってしまっている……


「ふふふ、」


「くそ……!」


 おれは、震える手で少女の腕を掴んだ。


「……いいさ……喰ってやるよ……」


 理性は叫んでいた。やめろ、と。しかし、獣の本能は、すでに目の前の獲物を逃すつもりはなかった。少女は、その瞬間だけ、ほんのわずかに目を伏せた。だが、口元には微かな微笑みが浮かんでいた。


「うん、どうぞ」


 そして——おれは、前腕ごと食らいついた。


 喰らい付く瞬間になって少女の瞳が震えたのが分かった。恐怖の色……人間であれば当たり前の恐怖……勝手に自らの欲望のため見ないフリをした当たり前の……痛み、苦しみ、喪失……でも、気づいた頃には止まらなかった、おれは少女の腕に齧りついた……


 皮膚が裂け、肉が歯の間で軋んだ。少女の悲鳴が、白い部屋に響き渡る。先端を窄めたホースから飛び散る水のように、少女の赤黒い血があたり一面に放たれた。加えて昨日よりも、ずっと激しい泣き声だった。


 食いしばったことで、歯茎から大量の血が滲み、涙も大量に溢れていた。皺一つ無かった陶器のような肌はクシャクシャになって老婆のようだった。鼻を突き刺す匂いを撒き散らしながら飛散した血は雨のように降り注ぎ、その何倍も濃縮したような塊が、鋭い歯と強靭な顎で咀嚼され、ぬるぬるとした肉片となって食道を通り、胃へ向かって行った。


 通り道が鮮明に分かるほどだった……おれはひたすらモグモグと少女の腕を食べた。自然とゆび、てのひら、前腕、硬い健康な骨から、軟骨まで、舌で転がしながら一つ一つ確認するように食べていた。


 泣き声が小さくなることは無かった。むしろ、どんどんとその痛みや喪失の大きさに気づいていくように、大きさを増していく。


「お、お前が食べていいって言ったんだろうがっ!」


 おれは必死に言い訳を吐き出したが、その声は少女の泣き声に掻き消された。血の匂いが、鼻腔を満たしていく。継続的に温かい液体が、喉を滑り落ちていく。


 一分、二分……十分、三十分……いちじかん……果てしなく長い時間、おれは責任を果たすように少女の泣き声を聴いた。


 しかし——しばらくすると、少女は泣き止んだ。少女の声が枯れて腹からドスのきいた嘔吐のような音になった頃だった。耳を塞ぎ蹲っていたおれは顔を上げて少女を確認した。


 そこには再び人形然とした均整の取れた顔を付けた少女がいた……いつの間にか、傷口は再び塞がり、元の滑らかな肌に戻っていた。部屋は相変わらず血が飛び散っているものの、それはそういう模様のようだった……もう、部屋からは血の気配すら消え去っていた。


「ふふ、美味しかったかしら?」


 少女は笑う……さっきまで泣き喚いていたのに……おれが罪を背負った筈だった……しかし、これはまるでおれが施しを受けたような……おれの体に苛立ちが生まれ始めた──一口で食べられてしまうほど小さい存在の癖に!!


「……もう、お前など食べるものかっ!」


 おれは吐き捨てるように言った。「おれは……元々……人間だ……」


 その言葉は、虚空に消えた。少女は、再び穏やかに笑っていた。


「もうわたしを食べてくれないの? ……それは少し寂しいわ」


 その声は、まるで恋人の別れ話のように優しく、しかし確実におれの心を締め付けた。


「……なぜだ……あんなに痛がっていたくせに……」


 おれは呟いた……やり直しを望んだ男のように。喉は再び渇いていた。飢えは、まだ終わっていなかった。


「痛いから嫌なんて、人間はそんな単純にできていないのよ?」


 少女の声は、今度は少しだけ冷たかった。「嬉しい痛みだってあるの」


 その言葉に、おれは喉を鳴らした。


「そ、そんなもの……」


 おれの言葉は、あまりに弱々しかった。

 少女は、ただ静かに微笑んでいた。その笑みは、甘く、恐ろしく、おれをさらに深い闇へと引き込んでいくものだった。

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