美女とほんとうの野獣たち
小早川葉介/五面楚歌
第1話 獣と少女
薄闇が部屋の隅々まで塗り潰す。壁紙は色褪せ、ところどころ剥がれかけたその風景に、かつての温もりはどこへやらと、重い空気だけが漂っている。クリーム色だったはずのカーテンは今や黄ばんだ記憶と化し、湿気を孕んで窓枠にしがみついていた。
おれは、簡素な部屋の中央で膝を抱えて座り込んでいた。手足に這い寄る灰色の毛、長く異様に伸びた指先、そして獣そのものへと変わり果てた爪。かすかに覗く乾いた皮膚は、あたかもいつかの人間の面影を嘆くかのようだ。吐息は鈍い獣の唸りに重なり、空腹が常に胸の奥で蠢いている。
どれだけ食を求めても、その虚空は埋まることはなく、ただ永遠に耐え難い渇きを突きつけてくる……おれは獣になってしまったのだ。
老婆を演ずる魔女に呪いをかけられた訳ではない……ただある日からおれは獣で、とは言えいつから獣なのか、詳しくは知らない。確かに言えることは、かつて人間だったはずが、今となって全身毛に覆われた獣に姿を変え、とても腹が空いていて飢えそうということだけだった。
頭に血が上って、からだ中痺れ、奥の奥からニョキニョキと内に収めていられないほどの熱が生えていく……がるるる、がるるる、苦シイ、苦シイ……
──ぴんぽーんっ!
そんな瞬間、部屋に割り込むような電子の音が響き、長い沈黙を破った。おれは、重い足取りで玄関へと向かった。
「オトドケニマイリマシタ、オトドケニマイリマシタ──」
その電子の音に何故か連動して、期待の滲む熱が足裏を蒸らした。フローリングの冷たい床に、獣の爪がかすかな音を立て、それに続いて、最近は硬く乾燥していた肉球が、まるで赤子の泣き声のようにきゅっきゅっと、柔らかい音を鳴らす。
おれは仕方無しに扉を開けた。
「オトドケニマイリマシタ、オトドケニマイリマシタ……」
扉の向こうに現れたのは、無機質な輝きを放つ小さなロボットだった。銀色の装甲に覆われたその姿は、まるで計算された冷徹な機械の如く、二つの赤い目が不気味に瞬いている。
コンパスの針のように細い腕でキャリーケースほど箱を持っていた。箱には「食用」とだけプリントされていた。
「誰だ、貴様。喰われたいのか、このおれに」
「オトドケニマイリマシタ!」
ロボットはこちらの意思に関係なく同じことを繰り返すばかりだった。
「……話にならん!」
ひっかきたい衝動を抑え、箱をぶんどると扉を早々に閉じた。
箱はずっしりと手にのしかかり、ほんのりと生ぬるい感触が指先を駆け抜ける。
何かが──いや、誰かが、箱の中で静かに息を潜め、生を宿している……
おれは、箱を黒い爪で破くように開けると白い半透明な布地の向こうにぼんやりと肌色が光っていた──それは一人の少女だった。
「……なんなのだ、こいつは!」
少女は、まるで人形のような均整の取れた美しさを纏っていた。箱に収まるよう手足をオカシナ方向へ曲げて詰め込まれ、緩衝材のような白いヴェールが一枚、からだを覆っていた。
繊細な布地が微かに揺れ、夜の静寂の中にひそむかのような儚い輝きを放つ。黒髪は夜の闇のようにしなやかで、青白い頬に映る長い睫毛が、どこか切なさを秘めている。
じっとりと湿度の高い部屋……オスの匂いの饐えた空気から、切り取られたように静謐な空気を纏っていた。
おれは、破り捨てた箱の上側面を見る……食用、ショクヨウ──からだに血が沸き立つような快楽のような激流が流れた──
「──お、おいっ!」
おれは、ガシガシ爪を鳴らして来た道を返し、扉を再び勢い良く開く……が、既にロボットは姿を消していた……
おれは振り返って箱の中の少女を見る。爪の先端をつかって、ヴェールを剥がした。
「…………」
首はカクンと右肩に向かって折れ、箱の縁に合わせて弓なりにからだは収納され、手足は余ったスペースに押し入れるように雑に折れ曲がっていた。
そして……その少女は生きていた……かなり衰弱している、けれど、箱をぎしぎしと歪ませながら肋骨が大きく膨らんだり、腹がべっこりと凹んだりを繰り返していた……眠りながらも、からだは懸命に肺を動かし必死に生きようとしているようだった。
彼女の寝息は、静かに、規則正しく部屋に広がる。遠い記憶を蘇らせる、ノスタルジックな調べだった……
手癖でむしった人形の髪の毛、360度回した関節、剥ぎ取った衣服、白く変色したソフトビニールのボディ……色褪せた懐かしき子供時代の記憶と薄い膜を隔てて隠された性の萌芽……ノスタルジーと密着した原初の欲求……
「うががががっ」
喉の奥から、どうにも収まらぬ激しい空腹が、野獣の本能を呼び覚ます。だが、同時におれの内側では、何か大切なものを失ってしまうのではないかという、計り知れぬ罪悪感が、冷たく突き刺してくる。
おれは、どうにか爪を引こうとする。だが、理性はどろどろに溶け始め、かすかな衝動はからだを覆う熱に成長していった……気づけば少女の腕を分厚い獣の手が掴んでいた。
脈打つ血管のぬくもりが、儚くも切実な生命の証として、ひそかに訴えかける。渇きを一層煽る瑞々しい肉感……ぶらん、と力の抜けた腕は一転してドールのよう……おれはその腕を野獣の口に近づけ──迷い、迷い、迷った挙句、三十秒経って、少女の左手の小指を前歯で千切るように食べた……
冷たく、そして鉄のような血の匂いが、鼻孔を突く。獣の鼻は一層敏感で、少女の血は脳を撫でるような官能的な湿度を持っていた。おれは、喉を通る少女の小指を感じながら更なる獣が内から沸き立ちそうになった。
しかし、当たり前のことで、小指の喪失で鋭い痛みが走ったのか、少女の瞼がはね上がり、声にならない悲鳴が部屋に響いた。素人がヴァイオリンを滅茶苦茶に鳴らしたような突き刺すような音……高貴な音色が野蛮に荒らされる様は背徳的にすら感じられた。
穏やかだった寝顔は恐ろしい程に歪み、少女は血の吹き出る小指の切断点をぶんぶんと振り回した。血は白い壁縦横に赤い線を描き、おれと少女の足元に大きな赤い水たまりをつくった。
やがて少し落ち着いたのか、右手で左手首をきつく握り神に祈るようにうずくまり、ふぅふぅと声を我慢するような荒い息遣いになった。
「お、おれは……食べるつもりなんかじゃ……」
我に返ったおれは途端に自らの行為のおぞましさにゾッとして、気絶しそうになった。「違うんだ! すまないこんなつもりではないんだ! おれは──!!」
足をフローリングに滑らせながら、おれは必死に隣の部屋に逃げた。これ以上、自らの犯した罪を見ることに耐えられなかった。再び大きくなり始めた少女の泣き叫ぶ声を背におれは逃げた。
でも、小さなその家は少女の声から逃れるにはあまりにも小さかった。耳を塞ぎ目を瞑っても、嗅覚が鼻にこべりついた血の匂いを送り続ける……おれは絶望し、人間としての在りし日を思い返しながら、体じゅうの毛を毟った。
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