相合傘

川北 詩歩

相合傘

 雨が降り始めたのは、午後の授業が終わったばかりの頃だった。校舎の軒下で、クラスメイトたちが慌ただしく傘を広げていく。黒い雲が空を覆い、細かな雨粒が地面を叩く音が、静かなざわめきに混じる。


 朱音あかねは鞄を肩にかけ、雨宿りをしながらため息をついた。傘を忘れたのだ。今日もまた、朝の眠気に負けて家を出た時、机の上に置いたままだった。


「ねえ、朱音。雨すごいよ。どうするの?」


 振り返ると、そこにみどりが立っていた。クラスで一番の人気者で、いつも明るい笑顔を振りまく彼女。長い黒髪をポニーテールにまとめ、制服のスカートが少し短めで、足元は白いスニーカー。彼女の声は、雨音を優しく溶かすようだった。


「うん、忘れちゃった。走って帰るよ」


 朱音はそう言って笑ってみせたが、心の中では少し焦っていた。家まで約20分。びしょ濡れになるのは目に見えていた。翠はくすっと笑い、鞄から折り畳み傘を取り出した。ピンクの小さな傘で、柄に小さな花の刺繍が入っている。


「じゃあ、一緒に入ろうよ。私の家、結構近いし」


「え、いいの? 狭くない?」


「狭い方がいいじゃん。相合傘みたいでさ」


 彼女の言葉に翠は頰が熱くなった。


――相合傘。


 恋人同士が共有する傘のイメージが頭に浮かぶ。女子高生同士でそんなこと、普通じゃない。でも、翠の目はまっすぐで、拒否する理由が見つからなかった。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 二人は傘を広げ、肩を寄せ合って歩き始めた。傘は本当に小さくて、二人が入ると自然と体が触れ合う。翠の肩が朱音の腕に当たり、温かさが伝わってくる。雨の匂いが混じり、翠のシャンプーの甘い香りがふわりと漂うたびに、心臓の音が雨のリズムに重なる。


 校門を出て、住宅街の細い道を進む。普段は友達と他愛ない話をするのに、今日は言葉が少ない。沈黙が心地いい。翠が時折、道端の花を指差して「かわいいね」とつぶやく声が耳に優しい。


「ねえ、知ってる? 相合傘の由来」


 翠が突然言った。彼女は文学部所属なだけあって物知りで、こんな話が好きだ。


「昔の恋人たちが雨の日に傘を共有して、密着する機会を作ったんだって。江戸時代とかにさ。今みたいに傘が安くなかった頃は、貴重だったんだよ」


 朱音は頷きながら、彼女の横顔を見る。雨粒が傘を叩く音が、まるで拍子を取っているよう。翠の瞳は、濡れたアスファルトのように輝いていた。


「へえ、そうなんだ。ロマンチックだね」


「うん。でも、私たちみたいに、女の子同士でもいいよね。友情の相合傘」



――友情…



 翠の言葉に、少し胸が疼いた。朱音にとって、翠はただのクラスメイトではない。入学以来、彼女の笑顔に何度も救われてきた。テストの前にノートを貸してくれたり、休み時間に一緒に弁当を食べたり。いつからか、翠の視線が気になり、夜に彼女のことを考えて眠れなくなる日が増えた。


――好きだ。この気持ちは、友情以上の何かだ。


 でも、言えない。女子高の空気は甘く、でも脆い。


 道中、大きな水溜まりに差し掛かった。翠が朱音の手を引いて飛び越えようとする。


「ほら、一緒に!」


 彼女の手は柔らかくて、温かい。飛び越えた瞬間、バランスを崩して、朱音は翠に寄りかかった。傘が傾き、雨が少し頰を濡らす。翠は笑いながら、朱音の頰をハンカチで拭いてくれた。


「ごめん、濡れちゃった?」


「ううん、大丈夫」


 その時、翠の指が朱音の頰に触れる。わずかな時間…でも永遠のように感じた。心臓が激しく鳴り、息が止まる。翠の目が、すぐ近くで朱音を見つめている。雨の音だけが、世界を満たす。


「肌、すべすべだね」


 翠の声は囁きに近い。朱音は言葉を失い、ただ頷くしかなかった。頰の熱さが、雨で冷やされるのを待つ。駅に着く頃、雨は小降りになっていた。改札の前で、翠が傘を畳む。


「今日はありがとう。楽しかったよ。また、傘忘れたら貸すね」


「うん、ありがとう。」


 朱音はそう言って、翠を抱きしめたい衝動を抑えた。代わりに軽く手を振る。電車が来て、彼女の姿がホームに消えるまで、朱音はその場に立っていた。


 手の中の雨の雫が、冷たく残る。家に帰り、濡れた制服を脱ぎながら、朱音は今日のことを思い返す。

 相合傘。あの狭い空間で感じた温もり。翠の香り、彼女の言葉。友情以上の何かを、きっと彼女も感じていたはずだ。明日、教室で会ったら何を話そう。傘の話? それとも、心の中の雨を二人で共有する?


 窓の外では、雨が止みかけていた。空に薄い虹がかかる。朱音は自分の心に、初めての色が差す気がした。



(終)

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