だれでもよかった
澱傍織
ある男の話
「だれでもよかった」
男には夢がある。
この地に生まれ落ちた命、誰かの為に使おうと。
ある朝の駅、線路に視線を彷徨わせる女が踏み出すのを見かけて、男はその時が来たと確信した。
「……あっ」
代わりに死ぬつもりはなかった。
女をホームに手繰り寄せた腕を超え、つんのめる胴体。
数瞬の間に寸断される意識と、刹那の痛苦。
ただ、それだけ。
誰かの為に命を使おうと考えていた男の生涯は、こうして呆気なく散ってしまった。
その有様を見ていた神様は、彼の末期を不憫に思い、また一人の命を救った勇敢さを讃えて彼を天国の一員に迎え入れた。
男は神様の歓待に感謝し、自らの魂を天国でも誰かの為に使うと誓った。
彼の善良さは天国でもすぐに認められ、人々を導く天使の一柱として奉られた。
幸せだった。誰かの為に尽くせることが。
幸せだった。その行いを誰かに認めてもらえることが。
男はあしげく働いた。
人生を終え、天国と地獄。どちらにゆくか迷える魂を導く職務に。
ただ無心に励み、誇らしげな笑みを浮かべながら。
それから三〇年も経った頃だろうか。
男はその日も変わらず天国の案内人として仕事に励んでいた。
酷く澱んだ魂がやってくるのを見て、彼は悲しんだ。
あの魂はきっと天国へゆけないだろう。
導くだけの自分には救えないものだった。
魂がこちらの顔を覗くように見てくる。
酷く老いさらばえた老婆の姿をした魂。
彼女は男を見て言った。
「どうしてあの時、助けたの?」
男は気付いた。
その老婆が、かつて自分が駅で助けた女性だったと。
「私は死にたかっただけなのに」
老婆の魂が獄吏に引き連れられ、天へ続く階段を降りてゆく。
「どうして……?」
その視線は最後まで男を見据えていた。
老婆の背が見えなくなっても、男はただ立ち尽くして地獄へ続く階段を見下ろしていた。
だれでもよかった。
救えれば、誰でも。
天使は酷くお嘆きになり、自らの輪で首を括った。
だれでもよかった 澱傍織 @orinoori
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