第2話 見えざる喫茶店 フレンズ

「え…………」


 ガヤガヤと周りの声が響く中、マスターの声はまるで女神様が奏でるハープのようにして一言一句はっきりと聞き取る事ができた。 


 ――最後の時を過ごす場所。


 異様に耳に残る言葉だ。それについて訊こうとしたその時、ようやく席が空いたのか、最初に見かけた魔法少女風の衣装を着たクマのぬいぐるみがカウンター席まで案内してくれた。

 夜の時間に配慮したのか、ホットミルクが目の前に置かれる。一瞬毒でも入ってるんじゃないかと警戒したが、相手がおばあさんのこともあって肩の力を抜いた。

 まずは一口。誇張抜きで、人生で一番おいしいホットミルクだった。濃厚だが口当たりがよく、滑らかな舌触りのよい飲み心地。ただミルクを温めて出せるような美味しさではないと思った。


「どうです? お味の方は。この町で採れた特注の牛乳を使いましたから、間違いないと思いますよ」

 マスターが頬杖をつきながら、得意顔で聞いてきた。相当に自信があるらしい。

「おいしかったです。でもその……なんだろう。少し、和菓子っぽい感じがして……」

「ふふっ。それはですね、砂糖のかわりにきな粉をいれることで甘さを出してるんですよ。意外でしょう? 北海道で採れる大豆は甘みとうま味があってね、ここで扱っている大体のメニューは北海道産のを使うようにしてるんですよ」


 マスター曰く、他にも蜂蜜やシナモンなどもいれると色んな味を楽しめるのだそうだ。それらも気になったが、なかでも黒蜜をいれるとさらに和菓子感が上がっておいしくなるという言葉に引っ張られて、籠はついもう一杯注文してしまった。

 味の感想としては、確かにより一層味に深みが出た。だが自分には少し甘すぎたように感じた。チョコはどちらかというとカカオ多めの方が好きなので、それが背景にあると思った。


「籠さんの質問に答えたいところ……ですが、少しばかり待ってくれませんか? 今だと……ほら、色々と会話しにくいでしょう?」


 マスターがホールの空間を、やれやれと言わんばかりの目つきで見つめている。おもちゃたちは胸焼けするくらいの個性で氾濫していた。

 宝塚で見かけるような美形の顔をした人形に、中から綿が飛び出してしまっているワニのぬいぐるみ。なぜか三本足があるリ◯ちゃん風の人形に、全身がズル剥けで藁胴の裸体を露わにしている日本人形。いちいち姿にツッコんでいたらきりがなかった。

 今でもガヤガヤと子供特有の動物園のような騒音が、いい意味でも、悪い意味でもこの喫茶店を盛り上げている。実際会話するのにも一苦労なコンディションだった。


「でも、わざわざ足を運んでくれたお客様をこれ以上待たせるのは、私自身非常に心苦しいと思います」

「あ、いえいえ、お構いなく……」

 本当は、身を乗り出してでも聞きたいことは山程ある。だがその相手が自分よりずっと年上の、なおかつおばあちゃんが出てきてしまった。かみつく牙を折られた気分。

「というわけですから、しばしの待ち時間の間、ぜひともうちの創作メニューを食べていきませんか?」

 マスターがそう言うと、籠の了解を取ることなくバックヤードの暖簾をくぐり、何やら勝手に調理を始めてしまった。

「創作メニュー?」


 料理名は『伊和韓パスタ』。イタリアの伊、和風の和、韓国の韓とそれぞれの国のおいしさを一つにしたとある日マスターのインスピレーションが働いたことにより思いついた一品なのだという。

 まずフライパンに水550ミリリットルを入れ、そこに白だし、めんつゆを大さじ一杯ずつ入れる。次に料理酒大さじ一杯とみりんは小さじ一杯入れたら火にかけて沸騰させる。その間に具材として鶏もも肉を食べやすい大きさに切って入れていく。

 沸騰したらそこにお好みでキムチと、パスタも投入してフタをする。太さは別に問わないけど、個人的には1.6から9ミリがおすすめなのだとか。このタイミングでより韓国感を出すためにチーズを入れてもいいが、さすがに夜の九時過ぎになので丁重に断っておいた。

 パスタはフライパン内の汁気がなくなるまで基本は放置。時折パスタに汁を吸わせるイメージで動かしてやるといい。適度にフタを開けつつ、目視で十分汁気がなくなったら皿に盛り、その上に細かく砕いた韓国海苔、もしくは鰹節を振りかければ完成。今回は韓国海苔をチョイスした。


「じゃあ、いただきます」


 まずは一口。ほんのりキムチの辛味が、舌をいい具合に刺激する。白菜のシャキシャキ感と、鶏肉のプリッとした食感が心地よい。韓国海苔が入ったことでちょうどいい塩味になっており、チーズが入った際の味も気になった。きっとより濃厚な味になっただろう。

 最初に入れた白だしとめんつゆが、ほとんどの味を決めている。そこにキムチや韓国海苔がいいアクセントになって、互いを高め合っている。それはきっと、パスタという最高のベースがあってこそ実現したのだろう。

 朝はほとんど食べず、昼を食べなかったことが原因か、籠はあっという間に完食してしまった。材料的な観点から、家でも手軽に作ることができそうだ。今度自分で試してみようと思った。


「フフッ。感想を訊く必要は、なさそうですね」

 マスターは満足そうな笑みを浮かべていた。それは籠の口角が意図せずして上がっていたからだった。

「あ、その、えっと……」


 籠は急に見られていることが恥ずかしくなり、急いでいつもの顔つきに戻して俯いた。またホットミルクのようにおかわりの誘惑がつきまとってきたが、何とか根性でこらえた。

 その頃になると、ホールの方では「ごちそうさまでした!!」と元気な声が聞こえた。上半身だけ振り返ってみると、ぞろぞろと店をあとにするおもちゃたち。しかしなかには、


「いーやーだー! もっとたくさんたべたいのー!」

「ワガママハ行ッテハイケマセン。トテモThriller! ナゾンビガ出テキマスポゥ」

 駄々をこねるおもちゃもいれば、

「あぁ、麗しき姫君。今夜ふたりきりで、夜の海を眺めながらアバンチュールな恋の炎、燃やしませんか?」

 ナンパしているおもちゃもいる。思考が難破しているのだろうか。

「誘ってくれてありがとうございます。でもごめんなさい。これから私は、みんなが大好きなこの店の為に、お掃除をしないといけないんです」


 クマのぬいぐるみは、対応が慣れているのかきれいにあしらった。

 それに対しナンパした宝塚風の人形はめげずに、「また参ります。恋というのは、障害という名の薪が多いほうがよく燃える」とシュールストレミング並に臭い発言を残して店をあとにしていった。できればもう来ないでほしい。


「あの子、店で一番人気なんですよ。いわば、看板娘って言ったところでしょうか」

「は、はぁ」


 果たして娘とカウントしていいのだろうかと考えているとき、籠はふと窓の外の景色を見やった。おもちゃたちが外で談笑している。

 しかしその中のうち数体だけ、わずかながら身体から微弱な光を発している物が目に入った。カウボーイ姿のおもちゃに、トロンボーンを吹いていた異国姿のおもちゃ。両手が欠損していたおもちゃなど他にも三体ほどのおもちゃたちは、


「っ!?」


 刹那、輝きが増したかと思えば――跡形もなく消えた。まるで最初からいなかったかのように、本当に、かけらすら残さず、あっけなく。

 マスターの言葉が蘇る。|見えざる友達イマジナリーフレンドが最後の時を過ごす場所。最後、とは一体なんだろうか。ここにはもう来ないということなのだろうか。いや、ただ自分を想像してくれた人の家にでも帰るかもしれない。まだ何も分からないことだらけだ。


「ハァ〜ホンマ疲れたわ。なんか三月からこの時期にかけて、客増えとらんか?」

「まぁ四月は人間で言うところの心機一転! 出会いの春! なんて呼ばれているくらいだから、その過程で……」

「もうええもうええ、とりあえず人間ってクソってことがわかったわ」


 重苦しいドアの音とともに、関西弁をしゃべる猿が店内に入ってきた。その次に入ってきたのは、マイケル・ジャクソンのコスプレをしたブリキのロボット。

 そして最後に入って来たのは、魔法少女風の服を着たクマのぬいぐるみだった。


「スィー、スィー、スィー。フッ、今日ノムーンウォークモ上出来デス。自分ノ才能二、チビッテシマイソウデスポゥ」  

 相変わらず見るのも忍びないムーンウォークで移動している。ただ後ろ歩きをしているだけだ。

「いやどこからちびるねん。それに池崎、ちびるとしたらオイルやん」

「ワタクシノ名前ハマイケルデス。ソンナ名前ハ知ラナイデス、ハイ」

 一体誰が池崎なんて名前をつけたんだ。空前絶後超絶怒涛にダサいな。

「モンちゃん! そういうこと言っちゃダメでしょ! お客さんの中には元人間がたくさんいるんだし、何より私たちが働いているおかげで喫茶店の呪いや、人払いの噂が成り立ってるんだから」

 フリフリの服を着たクマの人形が、まるで子どもをしかりつける親ような口調で言った。

「もうその説教耳タコやねん。それに人払いの噂があるにもかかわらず、この前窓ガラス割って入ろうとしてきたやつおったやん。とりまそいつは半殺しにしたけど、今後そないなことが起こらんように効力強くしたらええんやないの?」

 籠はクラスメイトの想馬と斎藤の話思い出した。窓ガラスを割って侵入しようとした人のその後は、あのモンちゃん? とか言うおもちゃによってどつく、つまり殴られたということなのだろうか。その話を聞いて、クマの人形があきれた表情をした。

「それができたら苦労しないよ。あと私のようなか弱い乙女が、そんな力持ってるわけないじゃん」

「か弱い乙女って自分でいうか? 普通。そんな奴には……これでどうや!!」

 モンちゃんは、懐からよくある般若の怖いお面をつけた。ただそれだけなのだが、その顔をみた

「ギャアアアアアアアア!!!! オバケエエエエッッッ!!!!!!!!」

 と事件性を疑うような叫び声を出しながら喫茶店内を縦横無尽に走り回った。というより、いたるところに跳ね返っては飛び回っていると言い換えたほうが正しい。

「今日モポチサンハ、とてもBad! とてもThriller! ナ悲鳴デスネ、ハイ」


 話のやりとりをみているうちに、籠はなんとなく三人、いや三体の位置関係がわかってきた。まずモンちゃんと呼ばれていた猿は、学校で言うところの不良。池崎と呼ばれていたロボットは、登校拒否のような存在。その二体の面倒を任された気苦労が絶えない先生が、ポチだと思えた。

 ふと今さらながら、店員の一人であろうモンちゃんと目が合った。しばらくほうけたように見つめてきたが、いきなりただでさえ怖かった顔がさらに目を血走らせ狂気をはらんだかと思うと、


「…………へ?」


 次の瞬間――籠は空中にいた。

 いた、としか言いようがない。猿特有の身軽なフットワークでこちらへ近づいたかと思うと、死角から突き出るようにアッパーカットが顎にめり込んできた。おもちゃが出していい威力じゃなかった。まるでプロボクサーだ。

 後ろに飛ばされたことで、他にもテーブルや椅子などに身体をぶつけてしまい、身動きが取れなかった。唯一動く片目でモンちゃんの方向を見る。一目で分かるほどに憎悪にゆがんでおり、敵意がこれでもかとあふれ出していた。

 だが……その顔には見覚えがあった。エニーを失ったときに学校中を探した際、鏡やガラスに映り込んだ籠の顔に、そっくりだったのだ。


「……また、……れたんか」

「な、なんて……」

 頭がグラグラする。言わずもがな、さっきのアッパーカットのせいだろう。脳にダイレクトアタックをされたようで、片ひざを立てるのがやっとだった。

また忘れたんか・・・・・・・、己ァ!!」


 モンちゃんが拳を振り上げたその時、籠の前に立ち塞がるようにしてポチがやってきた。それに一瞬気を取られたのか、後ろから羽交い締めにしようと近づいてきた池崎に気が付かなかった。

 モンちゃんは「離せやボケナス!」と言いながら足元をバタバタさせながら抵抗するが、それもむなしく厨房の隣にある倉庫と札に書かれた部屋まで連行されていった。一部始終をみて呆気にとられているといると、マスターがハッとした表情で慌てながら、


「ごめんなさい! うちの店員がとんだ粗相を」

 と仰々しく頭を下げてきた。籠はやっとこさ二本足で立つと、なるべく相手を落ち着かせる声を意識しながら言葉を発した。

「……もういいです。大丈夫です」

「本当に、本当に平気なの?」


 ポチが心配そうに頬に手を当ててくれる。その感触は温かく、籠はホッとした。

 籠の脳裏には、モンちゃんの怒りの表情がまるで靴の裏の溝に入ったガムのようにして離れなかった。ひょっとしたらだが、自分と似た何かを経験しているからこその暴力だったかもしれない。そう考えてしまうと、許すまではいかなくても、これ以上は怒れなかった。 

 持ってこられた救急箱を遠慮したあと、ポチが「話すなら、今じゃないですか? 私達の紹介は、あとでいいんで」とマスターを促した。


「……それもそうね。箱崎さん。まずはこのニブンノイチの世界について。そしてこの喫茶店フレンズについて。話を聞く準備は、できましたか?」

 籠は身体についたホコリを軽く払ってから、改めてカウンター席に座った。表情筋が自ずと引き締まる。

「大丈夫です。元からそのつもりでしたから」


 マスターはゴホンと咳払いを一度してから、ゆっくりと語り部のように口を開いた。

 長かったので、要約するとこうだ。まずここに来ていたおもちゃやぬいぐるみたちについて。マスターが最初に話していた通り|見えざる友達イマジナリーフレンドで間違いないのだが、なぜおもちゃの姿をしているのか? 答えは主に二つのパターンがあるらしい。

 一つは、大切に扱っていたおもちゃやぬいぐるみに魂が宿った場合。これまた突拍子もない話だが、第二次性徴期前の子どもには一人きりの状況でのみ、|魂を創造する・・・・・・・があるとマスターは言った。その影響か、たまに幽霊やなど人ならざるものを視れたりもできる。

 二つ目のパターン、それは……エニーのように人などを想像したが、その創造主が想像を一定期間放置。そして内容を忘れた場合、この世界へ行くための仮の肉体として手頃なおもちゃやぬいぐるみに入り込むのだという。しかしエニーは、想いの強さや身体の大きさが理由で例外が発生した。

 ほとんどの人が成長するにつれて、魂を創造する力を使わなくなる。早い話が、一人でおもちゃやぬいぐるみと遊ぶのをやめて、現実を生きる同じ人間同士と、鬼ごっこやゲームをしたりして遊んでしまうのだ。

 二つ目のパターンも等しく、止められぬ身体の成長、精神の成長が、やがて|見えざる友達イマジナリーフレンドを作ることに対しての負い目や恥ずかしさへと変わり、結果として忘れることでこの世界に流れ着くのだという。

 魂を創造された場合も、忘れるという意味では同じだった。

 一人で箱に閉じ籠もることなく、自分から新たな世界へと足を踏み入れる。それはとても尊く、自然な成長だ。

 だがしかし、籠にはそれが眩しすぎた。だからエニーという存在を激しく求めた。欲した。たとえそれが人道から外れる行為と分かっていても、依存する以外の道を歩きたくなかったのだ。まるで赤子だ。母のぬくもりが、母乳がなければ生きられない赤子だと感じた。


「……二つに共通していることはもう一つあります。それはいずれも、創造主の心のスキマが元となって生まれてくることです。喫茶店にやってくるおもちゃたちは、忘れられたことにより皆孤独です。でもほとんどは、その孤独を知らないほどに幼く、胸を締め付ける痛みの正体に気づいていません。

 だからせめて、少しでも私の料理で癒してあげたいなと、そう思っているんです。ここまででしつも……箱崎さん?」

「…………え?」

 籠は自分の知らないところで、瞳から勝手に涙が溢れ出していたことに気づいた。ただでさえ整っていない顔がさらに崩れることを恐れて、強く手で涙をぬぐった。

「ごめんなさい。なんか、急にすごく、安心しちゃって……」

「安心?」

「|見えざる友達イマジナリーフレンドの意思は自分の意思だって、つまりはずっと一人芝居をしていたんだと思ってました。でも、話を聞く限り……まるでちゃんと存在みたいに、一つの生命体までとはいかなくても……一人じゃなかったんだなと思ったら……急に……」


 自分の操り人形なんかじゃなかった。ちゃんとエニーはエニーだったと、安心したら力が抜けてきた。

 リーロンに言われた、|見えざる友達イマジナリーフレンドという言葉が反芻される。まだ慣れない。自分が後生大事にしていた存在が、実はありませんでしたの一言で受け入れられるはずがない。受け入れてはいけない。それはエニーに対して失礼というものだ。

 きっと今の自分は、おかしなことを言っていると思う。生きていない、かと言って死んでもいない人間に対して払う敬意なんてないはずだと。それは正論だ。ぐうの音も出ない正論だ。認めよう。

 だが籠には――物心がついたときからずっとエニーと仮初めでも過ごしてきた時間がある。思い出がある。これが幸せだと純粋に感じた感情がある。今、受け入れてしまったら、それらをすべて否定することになってしまうだろう。

 そんなことをするくらいなら、死んだほうがマシだ。

 どんなに嘘で塗り固めていても、エニーと本当の友達だった事実は、決して覆ることはないだろう。ないんだ。絶対。


「ここへ来るおもちゃのことはよく分かりました。だからこそ、訊きたいことがあるんです」

「なんでしょう?」

「エニーは、どこにいるんですか……?」

 ドクンと心臓が高鳴る。緊張の一瞬だ。マスターは少しだけ口を開けて驚きの表情をしつつも、やがていつものニコニコとした表情に戻り、

「安心してください。ちゃんと教えますよ。でもその前に、なぜ箱崎さんがここに来ることになったのか、教えて上げましょう」

「は、はい……」

 できればそんなことより、エニーに会えるかどうかのほうを先に教えてほしかった。だがまたさっきのように無礼を働くわけにもいかず、おとなしく話しを聞くことにした。

「それはズバリ……あなたが心のスキマ・・・・・を埋めたいと願ったからです」

「心のスキマ?」

「はい。正直な感想として、まだ箱崎さんはこの世界になじみきっていないと思います。だから遠慮はいりません。この店の常連になってください。どうせ誰もいない街であり世界なのですから、月が出ている時間帯はいつでもお待ちしてますよ。

 少々お騒がせな店員はいますが、ここから始まる時間が、記憶が、思い出が、必ずや箱崎さんにとってためになることを約束します」

「…………」 


 そう言うとマスターは、自身にはめた指輪へと視線を落とした。その姿は幾多の経験を積んだが故なのか、わずかな憂いを帯びているような気がした。相手は誰なのだろうか。当然今は分からない。

 籠はおもちゃたちが帰る際に見えた、身体から光の粒があふれ出したカウボーイ姿のおもちゃのことを思い出す。

 最後のときを過ごす場所から消えたら、次はどこへ行くのだろうか。訊きたかったが、ここで訊くタイミングではないような気がした。マスターの醸し出す雰囲気がそうさせたかもしれない。


「まぁ、話はこれくらいにして、一つ条件が」

「条件?」

「そのエニーさんとは旅行をしないこと。正確には町から出ないこと。それさえ守ってくだされば大丈夫です」

「わ、わかりました」

「ここでの飲み物や食べ物を口にしたその瞬間から、|もう会える状態・・・・・・・ですよ。ほら」


 マスターは籠にコーヒーカップを差し出した。瞬時に意図を理解し、リーロンに教えられた通りに時間を設定する。十時二十八分……と指を動かし終えると同時に、底からわき出るように焦げ茶色のホカホカと湯気を出している液体が出現する。挽いたコーヒー豆のいい匂い。

 引き寄せられるように指で液体を触ったその瞬間、意識が初めてこの世界に来たときと同様に闇へと飲み込まれていった。全身をコーヒーに浸からせたかのような、適温の温泉よりちょい熱めの空間。まるで重力が逆転したようだった。周囲の景色が歪み、光と影が交錯する。

 今度は下へ下へと落ちる感覚がないのが幸いだった。もう会える状態ということは……期待してもいいのだろうか。意識がこの世界と断絶される際、マスターの声が上から降ってくるようにして響く。


「ここにあなたを引き留めたのは、少しばかり話がしたかった私の身勝手ですから。ごめんなさいね、またお待ちしています。そのときは、当店自慢のコーヒーを淹れて」


 最後まで、マスターの声はおっとりとしていて優しげだった。喫茶店にいた時間は一時間とちょっと程度だが、それ以上に感じるほどに濃いひとときを過ごした気がする。

 これから自分はどうなってしまうのだろう。どんな出来事が待っているのだろう。分からない。でも……退屈はしなそうだと思った。

 エニーと交わしたずっと一緒にいるという約束は果たされるのかと、一抹の不安が頭をよぎる。いっそ行かなくてもいいかと思ったが、マスターに一つ大事なことを言わなければならない。そのために、もう一度来ることになりそうだ。

 箱崎籠は、コーヒーが苦手である――


    *


「……う、ん……」


 見慣れた場所だ。なぜなら籠が倒れていたところは、自分の家の玄関前だから。頬に石畳の冷たい感触がする。ムクリと立ち上がるとちょっとめまいがして、ドアのレバーに掴まった。鍵は持っているかとポケットを探りつつレバーをひねると、なぜか開いていた。

 ガチャリとドアを開けると、自分でも謎めいているのだが、知らない場所の感じがした。どうしてだろうと辺りを見渡してみると、答えは容易に見つかった。右手には、長方形の植木鉢。そこには細長くて薄紫色と、紫色をした名前のわからない花が生えていた。

 我が家に置物や飾りをする趣味はないので、いつの間にあったのだろうと距離を近づけてみると、食堂へ続く奥の扉付近から、「籠……?」と声が聞こえた。母だ。


「た、ただいま……」

「…………」

 

 いつの日か、今日みたいに帰りが遅くなったことがあったが、そのときは理由だけを訊かれて特別怒られはしなかった。だから大丈夫なはず……と分かってはいるのだが、さっきの植木鉢の件と言い、裏付けはないが、何かが違う気がする。

 自分の家なのに居心地が悪くなり、目線を下に下ろす。そこで気づいた。いつもなら籠と母のしか置いてない靴に、もう一足知らない靴が置いてあることに。

 自分のより少し小さく、母と同じくらいの大きさ。赤を基調としたデザインに、何やら薄く、ヒーローのようなデザインが見えて……


「籠ゥ!!!!」

 

 細かい部分を見ようとしたその時、キッチンからドタドタと慌ただしい足音がしたと思ったら、半泣き状態になった母が勢いをつけて籠を抱きしめてきた。手の感触、母の体温がダイレクトに伝わる。なんだ? 自分は何をされたんだと必死で頭を使う。答えは出なかった。

 抱きしめられているということは……母は、自分のことを心配していたのかと言語化を図ってみる。意味が分からなかった。そんなことをする人じゃないことは、小学五年生から現在までの約三年間で学習済みだからだ。とはいえ、今はこの現実を受け止めないといけない。

 心配する気持ちはわかるが、それにも限度があるだろう。籠はいい加減邪魔でどけようとしたが、「死んじゃったかと思ったぁ〜!」と子供の前でみっともなく泣きべそをかく姿をみていると、何も言えなくなってしまった。


「籠、どこに行ってたのよ……母さん、心配したんだよ……?」

「シン、パイ?」

 

 初めて言葉を覚えた子どもみたいに、母の口から滑り出た事実を疑う。普段無口なクラスメイトがいきなり大声で下ネタを叫んだようなダイナミズムがあった。

 そういえば思い出した。母は昔、いきすぎなほどに過保護なところがあったと。ある日下校途中で転んで擦りむいただけなのに、傷をみるやいなや、まるで自分の家が火事にでもなったかのようにあわてふためいていた。

 すでに過去の遺物となったはずの母の姿が、そこにあった。


「当たり前でしょ。世界でたった一人の、大切な息子なんだから。で? どこに行ってたの?」 


 そんな臭いセリフを、おくびもなく、恥ずかしがらず、堂々と言ってくる。昔はそんな母のことが嫌いだった。共感性羞恥というやつだろう。

 でも、久しぶりに鼓膜をたたいたその音は、籠の心にわずかな揺らぎをもたらした。その正体を知ることが直感的に恥ずかしいと感じ、のどから言葉を絞り出した。


「ちょっと……学校に。家よりも、勉強がはかどるから」


 この言い訳は、そのいつの日か帰りが遅くなった際に使ったものだ。実際はエニーと一緒に灯台から町や海を見おろしていた。あ、正しくは一緒に見おろしていた気分だった。

 籠は少々心が痛んだが、仮に変な世界に行っていたことや喫茶店で動くおもちゃたちに会ったと言っても信じてもらえないだろう。だからこれが一番正しい答えな気がした。


「……そう。次は、ちゃんと母さんに連絡してからにしなさいよ? いいわね?」


 まるで普通の母みたいな言葉を喋る。目の前にいる人は、本当に自分を産んだ人なのかと追求したくなる。面持ちからして、籠の発言に納得がいっていないことは一目瞭然だった。けれどもそれ以上の詮索をやめてくれたことはありがたい。これが母なりの優しさってやつだろうか。

 リーロンに無理やり見せられた夫婦喧嘩のことを思い出す。父と言い争って鬼気迫った表情をしていた人とは、とても思えないほどに優しく、慈愛に満ちた笑みを向けてきた。


「は、はい……」

 まさか姿形を借りただけのまったくの別人ではないのだろうか。その漠とした恐怖から、籠は了承せざるを得なかった。

「……そうだ。母、さん。この花って……」

 籠は母に聞いたつもりだった。しかし答えてくれたのは、ここにいるはずのない――もっというと、この世にいるはずのない存在だった。

「それはね――リナリアの花って言うんだよ。フフン、エニー物知り!」

「はいはい、エニーは物知……」


 言い終える前に、言葉は止まっていた。

 懐かしい響き、幼く明るい声、まだ離れてからそれほどたっていないのに、まるで初めて声を聞いたような心地だった。


「あ……あ……」


 今までの特別な存在の声は、どこか空虚で、血が通ってなくて、生気を感じられなかった。それを分かっていて自分は、あえて目をそらしたのだ。

 そうしなければいけなかった。そうせざるを得なかった。

 だからこそ、眼前の光景が信じられなかった。もう一度確認する。二本に束ねたツインテールの髪。縦に伸びた大きなえくぼ。中学生らしくない発育した身体。どこを整合しても、それは籠が今までずっと見てきた『形』と瓜二つだ。

 今目の前にいる『存在』は……足元についている『生ある黒き証』は……間違えなく、疑いようのなく、百パーセントの……!!


「エ、二ー……?」

 今度こそは、正真正銘のナマの景色だ。

「そうだよ。ちゃんと生きてる方の、ね?」


 そう言うとエニーは、そっと籠の手を取ると、それを自分の頬に当ててきた。

 その瞬間、じんわりと沈み込むようにして、柔らかな触感、ほのかに温かな体温が伝わってくる。

 気づくと視界はぼやけていた。まるで雨の日のフロントガラスみたいに。

 その雨の正体が、自分の涙であることは遅れて分かった。


「ど、どうしたの籠! どこかケガでもした!?」


 籠の身体を触り、ケガの有無を確認する母。だがそんなことはどうでもよかった。

 ずっと求めていた感触、

 ずっと求めていた温もり、

 どんなに強く想像しても、決してたどり着けないであろう本物の存在。それが……すごく……

 たまらず籠は、エニーに抱きついた。あふれんばかりの喜びやうれしさを表現にするには、言葉では不足していて、野暮な気がして、もう行動しかないと思った。

 驚いた表情をしたものの、すぐに意図を理解し頭を撫でてくれる。まるで赤ん坊だ。いつもなら籠がエニーの面倒をみているのに、すっかり立場が逆転している。

 だがそれも、たまにはいいじゃないか。せめて……今日、だけ、は…………


「ウワアアアアアアアアアアアアアアアアン!!!!!」


 籠は赤ん坊以来、声が張り裂けるほどの大きな声で泣いた。みっともなく、年甲斐もなく、ただ、感情に身を委ねるがままに。

 深く、深く、あまりにも深く眠っていた『愛』という感情に、初めて強く触れることができたような気がした。

 同時に分かった。これが、これこそが『幸せ』なのだと。お金や快楽などでは決して得ることのできない、『本物』であるということを。

 そして……これから言うセリフは、籠がいつか来るこんな日のために、ずっと大切にとっておいたもの……かもしれない。


「エニー」

「……なに、コモちゃん」

「おかえり」

 ポカンとした表情を見せたあと、すぐにニカッとこちらに笑いかけてくる。エニーは家中どこでも聞こえるような大きな声で、

「ただいまっ!!」


    *


「……エニー、話してくれるよな? どうして人間になれた? どうして母さんは、当たり前にお前を受け入れている?」

 籠は思いのほか多かったペペロンチーノを何とか胃に流し込んだあと、ほのかに重くなった身体を引きずりながら部屋に戻った。

「…………エニーも正直、混乱してるんだ。うまく、言葉にできるか分かんないけど、頑張ってみるね」

 

 エニーはらしくない神妙な面持ちで、背筋がピシッと伸ばしている。それにつられて、籠はゴクリとツバを飲む。張り詰めた空気が、こっちにまで移ってしまった。

 話しの内容は、あえてかっこいい言い方をするならば驚天動地だった。エニーによると、自分はほんの一週間前にこの家に引き取られた従兄妹なんだと言う。存在するはずのない両親が事故で亡くなってしまったことで、それをみかねた母が里親になる決意をしたらしいとのこと。

 それだけでも驚きなのに、さらに耳を疑うような事実が飛び込んできた。なんとエニーは、籠と同じく喫茶店のフレンズに行ったらしいのだ。時間帯を聞くと六時半から七時の間らしく、ちょうどその時はリーロンと名乗る謎の少女と話していた頃だ。

 信じられないことだが、どうやらエニーがこの世に存在したことで、世界にいくつか変更点が生まれたらしい。

 コーヒーを砂糖とミルクたっぷり入れて飲んだら美味しかったとか、パンケーキの生地がすごくフワフワたなどと話しているが、籠にはそれが信じられなかった。なぜなら喫茶店に来た以上、マスターがここがどういう場所かと説明するはずなのだ。ということは……


「……でねでね、そのクマのぬいぐるみ、ポチって言うんだけどね、他にもかわいい衣装たくさん持ってたんだよ! なんかフリフリしてるのがたくさんついてて、おっきなリボンもアクセサリーもあったんだよ! あとはね……」

「ちょ、ちょっと待てよ。エニー」

 籠の声は震えていた。エニーは気づいていないのだろうか。自分が……自分が……

「え? キ〇タクのモノマネするならもうちょっと整形したほうが……」

「モノマネするタイミングがおかしいだろ……ってそうじゃない! なんとも思わないのか? 自分が、今まで、人じゃなかったんだぞ……?」

 核心に触れるはずの質問なのだが、エニーは困ったように視線をそらしつつ、ポリポリと鼻をかく。えへへ……と乾いた笑いを出しながら、

「え~と、その……それ、のこともちゃんと教えなきゃいけないよね……うんうん、そうだ、そうだよね……」


 一人でブツブツとつぶやいているエニー、だがやがて決心したような目つきに変化し、スゥーと深呼吸をした。

 部屋の空気が張り詰めていくのを感じる。部屋の掛け時計がチクチクと動いている音が聞こえる。エニーの真剣さが籠にも伝染して、正座をしながら太ももに置いた拳の内側には汗がにじんでいた。


「コモちゃん、実はね……わかってたの・・・・・・

「……? わかってたって……」

 このときの籠は、内容を大方察していた。だからこそ、重大な事実を確認するようにして聞き返していた。

「わかってたの。自分が――|見えざる友達イマジナリーフレンドだってこと」

「……!!」


 しばらく放心状態になっていた。籠はてっきり、自身の正体を知り、これから自殺でもしそうな悪い予感が渦巻いていたから。

 でも、もしわかっていたとしたら、一つ気になることがあった。


「え、エニー」

「なに?」

「い……いつからだ」

「いつから?」

「いつから、自分が|見えざる友達イマジナリーフレンドだって気づいたんだ?」

「最初からだよ。ずーっと、エニーは自分が人間じゃないってことはわかってた。だってそうでしょ? 羽もないのに空を飛べるわけないじゃん」

「それは、そうだが……」

 思えばどうして、エニーが空を飛んだ時点でおかしいと気がつけなかったのだろう。改めて自分は、孤独の塊のような存在だと自覚した。

「……本当は、離れるべきだと思ってた。だってそうでしょ? コモちゃんには見えていても、それ以外の人たちから見れば空気に話しかけてるようなものなんだよ? そんなの、頭がおかしいよ。

 空気に毎朝必殺技を出させて、空気にご飯を食べさせて、空気と一緒に学校に登校する。エニーは、コモちゃんから一人で自立する機会を奪ったんだ」

「それはちが……!」

「違わないよ!!!! 現にさっき、エニーのこと抱きしめてワンワン泣いたくせに!!」


 耳をつんざくようなエニーので大声に、籠は固まってしまった。さっき放とうとした言葉が今も口の中をさまよっている。

 それは違う。だってエニーは優しいから、籠が一人じゃ心配だからこそ声をかけてくれたと。そう信じていているから。だから、自分を責めるような真似はしてほしくなかった。その気持ちのどこに、間違いがあるのだろうか。


「ときどき、考えるんだ。もしコモちゃんが、本当にこの世に存在している人たちと友達関係を築いていたらって。その時は今よりずっと笑っているかもしれないし、充実した日々を送ってるかもしれない。

 でも……そんなこと考えるたびに、心臓ここがまるで水におぼれるみたいに苦しくなって、グチャグチャになって、そんなの嫌だって思ってたら……いつの間にか今日まで関係を続けてたの。本当に、ごめん……」


 深々と頭を下げたその身体は、肩は、震えていた。籠は考えていた。エニーが自身を|見えざる友達イマジナリーフレンドと分かっていて接していた時の心境は、どんなものだったのかと。

 籠が充実した日々を送っていると思っていたその影で、もしかしたら怯えていたのかもしれない。自分の正体がバレることを、恐れていたかもしれない。いつか自分の元から去ってしまうのではないかという不安と、いつも戦っていたかもしれない。

 もちろん去るなんて考えは一度も持ったことはない。だがそれを伝える手段、そして信じてもらう手段というのは、まだ人生を今年で十四年しか生きていないガキである籠は、持ち合わせていなかった。

 そんなことを考えていると、籠はエニーを無性に抱きしめたくなった。


「…………コモちゃん?」

 灯台にいた時とは違って、今度は籠からゆっくりと包み込むように抱擁した。自分のされたことが分からず、エニーはとぼけたような表情をしている。

「大丈夫だから。オレは」

「大丈夫って?」

「約束したじゃないか。いつかオレが泣いてた日、夜の灯台で。ずっと一緒だって、味方だって。有効期限切れには、まだ早いんじゃないか?」

 

 治まっていた肩の震えが再発し、耳元で嗚咽が聞こえ始めた。女の子を泣かせるなんて、我ながら最低な野郎だと思う。でも問題ない。これから、これからの日々で、取り返していけばいいんだ。

 その言葉のあと、恥ずかしさや申し訳なさなんて思いは一切なく、気づけばエニーの頭を撫でていた。|見えざる友達イマジナリーフレンドの時代は、無意識に避けていた自分からの接触。指一つ一つに絡みつく、まるで高級な布団の毛皮のような滑らかな感触にうっとりしてしまった。

 これが、これが生きてるって感触なんだ。


「ありがとうエニー。オレを、ひとりぼっちにしないでくれて」

 

 思い上がりかもしれないが、籠はエニーとの心の距離がグッと狭まったような気がした。もともと一つしかないと思っていた心も、こうして二つある。そのおかげで分かり合えなかったり、けんかしたり、泣いたり怒ったりすることもあるかもしれない。

 だがそれ以上に、誰かと本気で向かい合うということは、とても尊い行為なんだと改めて思う。だって今の籠の心は、まるで穏やかな春の昼下がりに、風に吹かれる草原よりも伸びやかで、心地よくて、自由を感じている。安心すると一気に眠たくなってきた。そろそろ寝てしまおう。

 ベッドに向かおうとした際、とても重大なことを忘れていた。エニーの寝床についてだ。一応部屋はある。一つは隣の物置部屋。だがそこは普段使われない物や、もう廃棄寸前の物がところせましと置かれているため、とても埃っぽい。寝かせるのは忍びない。

 もうひとつの候補として浮かび上がってきたのは……廊下だった。だが寝るのはエニーではない。自分だ。これなら文句はないだろう。そうと決まれば籠は、押し入れから予備の布団と敷布団を取り出す。そしてそのまま廊下へと行こうとしたが……

 

「何やってんの? コモちゃんもこの部屋で寝るんじゃないの?」


 ボトンと脇に抱えていた寝具一式が落ちる。エニーの純粋を地で行くような口調に、心臓はドキリと跳ね上がった。籠の脳内は、一瞬にしてピンク一色に染められてしまう。とても言語化できないような卑猥な妄想を実現したい欲望に駆られる。人間の、今なら……

 今になって、エニーの胸をモミまくったことを思い出してしまう。触った手に、じわりと熱が生まれたように感じる。モヤモヤ、ムラムラ、ドキドキ、ハラハラ。こんな状態で一緒の空間で寝てしまったら、『寝る』の意味が変わってしまうことは明白だった。


「い、いや、年頃の男女が、同じ部屋で寝るのは……」


 と籠が若干のかすれ声になった理由は、もちろん言葉の通りであるのと同時に、何か絶対的なチャンスを逃してしまったことによる後悔だった。

 床に落ちた寝具をまたぞろ拾うと、ドアノブに手をかける。しかしまたしてもエニーに邪魔されてしまう。今度は声をかけるだけなんて安易なものじゃない。よりによって脇に抱えていたほうの腕に抱きついてきたのだ。二の腕あたりに、二つのたわわが押しつけられる。

 

「え、エニーと一緒に寝るの、いや……?」


 その声は、耳を優しく綿で撫でられるような快楽を感じさせ、劣情がまるで噴水のように一気に噴き上がった。エニーの目が上目遣いなのも、非常にポイントが高い。こうなってしまったら最後、本能としてオスのとる行動は一つだった。

 籠は床下に敷布団を、エニーは普段自分が寝ているベッドを使わせてあげることにした。「友達なんだから、二人でくっついて寝ようよ」と不満げな表情で言われたが、最後の最後でひとかけらの理性が働いたおかげできっぱり断れた。意気地なしと笑いたきゃ笑え。

 電気を消し、籠は布団を頭までかぶる。そうすると外界から一時的に遮断され、かわりに今日一日の不思議な出来事の記憶がなだれのようによみがえってくる。ホットミルクの味、パスタの味。また近いうちに絶対に行こうと思った。

 |見えざる友達イマジナリーフレンドのおもちゃたち。血気盛んな猿の店員。マイケル・ジャクソンみたいな服装に身を包んだロボットの店員。かわいい見た目をしてドジっ子なクマの店員。それぞれの顔ぶれが想起される。まるで現在進行形で夢を見ているようだ。

 そんなことを考えていたせいか、頭はすっかり冴え渡ってしまってしまい、なかなか寝付けなかった。それはエニーも同じだったのか、布団に入って十分ほどが経過した頃、


「ねぇ、まだ起きてる?」

 とベッドの上からエニーのくぐもった声が聞こえてきた。嘘をつく動機もないので、籠は真っ正直に、

「あぁ」


 と答えた。スリスリとエニーの身体と布団が擦れあう音がして、改めて現実での存在を確認する。今の今になって籠は涙ぐみ始めていた。

 まるで自分がずっと小さい頃からやってきた努力が実を結んだかのように、幸せの二文字を両腕で抱きしめている。抱きしめているんだ。人間幸せの絶頂を迎えたら死にたくなるという話を聞いたことがあるのだが、籠は逆だった。死ぬことなく永遠に今の幸せが続いてほしいと切に願った。


「今度は、二人で喫茶店行こうね」

「え、エニーも、考えてたのか?」

「コモちゃんも、でしょ? エニーなめないでよ?」

「なめてねぇよ」

「嘘だ。絶対なめてた。ソフトクリームくらいなめてた」

「最近何かしら例えることって流行ってるのか?」

「エニーのマイブーム!」

「なんか明日には終ってそうだな……」

「お、終わらないもん!…………たぶん……」

「お? なんかやけに間があったな。これについてエニー、例えを交えて教えてくれよ」

「あ、あーなめると言えば、エニーは喫茶店でアイスクリームがのったパンケーキを食べたんだけど……」


 もはやどうでもいいことを聞く。他愛ない会話が続く。内容はいちいち教えることでもないし、何の教養にもならない。本当にくだらない時間だったと思う。しかしその相手が大切で、特別となれば話は別だ。すべてが思い出に、すべてが宝物になる。

 やがて睡魔が瞼の上でタップダンスを踊ってきた。そろそろ時間らしい。籠はその直前、今ごろかよと思うかもしれないが、エニーに対する素朴な疑問を訊いてみた。


「なぁエニー。今日転校生で檻塚衣里さんっていたよな? どうしてあんとき、姿を見て逃げ……」


 エニーは、スゥ~スゥ~と可愛い寝息を立てて眠っていた。籠は布団から顔を出す。目が暗闇に慣れたことで、寝顔がバッチリ見える。ずっと見てられそうだ。これが幻じゃない。他でもない現実であることに、とめどない感謝の念があふれ出してくる。

 そして現実だからこそ、できることがある。それは、


「おやすみ、エニー」


 言葉を発したあと、籠の心はロウソクを灯したように温かい気持ちになった。誰かにおやすみを言うなんて、初めての体験だった。すごくくすぐったくて、すごく恥ずかしい。でも、言ってよかったなと思う。

 明日の朝は、絶対にエニーに「おはよう」と言おう。そして当たり前に朝食を食べて、当たり前に夕食を食べて、当たり前に一緒にゲームをしたり、久しぶりにヒーローごっこをしたり、やりたいことは山積みだ。

 そうやって、『忘れたくない』をたくさん増やしていこう。空白だったアルバムを、少しずつ埋めていくように。愛しい重さに怖くなることもあるかもしれないが、隣でエニーが笑ってくれるならへでもない。そう心の底から思えた。

 そんなことを考えていると、急にプツリと意識がなくなった。どうやら寝落ちしたらしい。

 夜が更ける。空に天高く咲く満月は、どこまでも優しく二人を照らした気がした――


    *


 ――夢を見るのことが、なんかすごく久しぶりな気がする。一日しか時間が経ってないはずなのに、その一日がどんなカルピスの原液よりも濃かった。そして、良くも悪くも成長したのだと籠は思った。

 さて、今日も夢の中だけど祭りを楽しもうとしたその時――違和感に気づいた。いつもなら幼い頃の籠を視点にして夢を見ることが多いのに、今回は幼い頃の籠を後ろから眺める構図になっている。今までこういうことはなかった。それに……なんか……心が締め付けられるような感じがして……


「ひどいよ……ひどいよ……●●●●●……」

 突然ノイズと一緒に、誰かの声が頭の中に流れ込んできた。正体は分からないが、言葉では形容しがたい悲しみと憎しみを感じる。

「●●●だけをずっと見るって言ったのに……●●、したのに……」


 目線の先にいる幼い頃の籠と夢の中の少女は、いつも通りに幸せそうな表情で手を繋ぎながら祭りを楽しんでいる。対して今の自分であって自分でない自分は、身体の内側で負のエネルギーを爆発的なスピードで溜め込みつつあるのを感じた。

 次第に、籠の意識は薄らぎ始めた。どうやらもういられないらしい。夢の中の景色がぼやけていき、声も遠くなり、色彩も次第に失われていく。一応まだ夢の中に留まろうと尽力するが、相変わらずの現実の重みには勝つことができずに引き戻されていく。

 完全にぼやけてしまうその刹那、籠は見た。幼い頃の籠と夢の中の少女を眺めていた謎の人物の手がかりになるものを。


「な…………!!」


 わけが、分からなかった。幻かと疑ってしまった。どうせただの夢だからと、簡単に片付けていいものかと悩んだ。

 謎の人物は、|マグロレッドがデザインされた赤い・・・・・・・・・・・・・・・・・を履いていた――

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