第3話籠のエニー・みんなのエニー
「…………」
起きたあとも、ずっとあの赤い靴が頭から離れなかった。普通なら、赤い靴なんてどこにでもある履物だろう。だがそこにマグロレッドがデザインされたとなると……疑惑が一気に深まった。
仮に木陰から見ていた人物がエニーとして、一体幼い頃の籠は誰と一緒に祭りを楽しんでいるのだろう。もし今の自分があの場所に乗り込むことができたとしたら、力の限りどぎつい一撃をお見舞いしてやりたいところだ。
エニーという特別な存在がありながら、ほかの女と不純異性交遊なんて言語道断! 恥知らず! 愚の骨頂じゃないか。
ほかの女の正体はと考えたその時――ズキリと昨日と同様に脳に直接五寸釘を打ち込まれたときのような激痛が襲ってきた。やはりその先は考えるなと身体全体の指示なのだろうか。まだ思い出す材料が足りないので、今のところは辞めておこう。
「あれ……エニー、もう起きたのか……」
ベッドをみたところ、そこにはすでに乱れたシーツと枕しかなかった。自然と手が伸びる。触ってみると、まだわずかに体温を感じた。
あぁ、やっぱり夢じゃないんだなと改めて思う。しばらくはこんなことが続きそうだと思った。籠はうっかりシーツにしみたエニーの匂いをかごうとしたところを、ギリギリ理性で押しとどめる。誰も見てないからって問題じゃない。男として、人間として自粛しなければ。
エニーは一階にいるのだろうか……とまだ寝ぼけ眼になりながら考えていると、部屋のドアの向こうから、なにやらドタドタと騒がしさの化身のようなものが近づいてくる。それは階段を上り……廊下を走り……部屋のドアを……
ガチャン!
「必殺! マグロきりもみキイイイィィィッッッーーーーク!!!!!!」
お腹に凄まじい衝撃を感じた。今まで想像だけでまかなっていた痛みとは比較にもならないほどに鈍く、重たい。
「グハァッ!!」
エニーのキックと言いながらのお腹にダイブ攻撃は、見事なまでに籠にクリーンヒットした。
「フッフッフ、エニーが現実に存在したとしても、相変わらず脇が甘いね。そんなんだから肉たらしい軍団の幹部最弱って言われるんだよ? 食らえ! ダイナマイト鉄火巻パーンチ!」
「させるか! 牛タン鉄塊バリアー!」
籠は朝に出せる全身全霊の声量で叫ぶ。その後は顔を見合わせると、しばらく互いの存在を確認するようにして二人して笑い合った。痛いはずなのに、この上なく楽しかった。誰かと一緒に遊ぶという行為が、これほど幸福感をもたらすのかと驚きさえした。
普通に友達や恋人がいる人は、こんな幸せを毎日手に持っているのだろうか。うらやましいと思う半面、少し悲しい気がした。だって幸せが大きすぎて、多少手からこぼれたとしてもきっと気づかないだろうから。そこにこそ大切なことが含まれているのに。
「……コモちゃんの身体って」
「?」
「コモちゃんの身体って、意外と柔らかいんだね。女の子みたい」
「い、一応男なんですがそれは……」
確かにこれといった筋トレはしておらず、たくさん食べているわけでもないので体重は平均より軽いだろう。だが直球で年ごろの女の子に言われるというのは、結構くるものがある。
「やっぱり幹部最弱の名は伊達じゃないね。ところでコモちゃん、エニーの身体の感触、どうだった?」
「!? ど、どうだったって……」
ニヤニヤと小悪魔めいた笑みを浮かべるエニー。答えを言いづらいことに分かっていて聞いてくるのはズルいと思う。籠をセクハラ犯に仕立てたいのだろうか。
言い淀んでいると、下の階から母の「ご飯できたわよー!」と元気な呼び声が聞こえた。助かった。助かったが、やっぱりまだちょっと慣れない。大げさかもしれないが、耳がキーンとなった気がした。
ありがたいと思う気持ちが二割で、残りがすべて狂気を感じた。普通じゃないのに慣れすぎたぶん、普通に戻ったときのギャップにまだ籠は追いついていなかった。一般的な家庭では、いつもこんなことが普通なのか……?
「おっさき〜!」
とエニーは俊敏なスピードで籠の脇を通り過ぎると、そのまま一階へと降りていった。別にご飯は逃げないだろ……と心のなかでツッコミながら、やれやれと同じく一階へ降りていった。食堂へ近づけば近づくほど、嗅いだことのないいい匂いが鼻を幸福で包んできた。
上に掛けられたのれんをくぐると、目に飛び込んできたのは、日本人ならまず最初に思い浮かべるであろうTHE・朝食のラインナップだった。
まずホカホカと湯気の立つ炊きたてのご飯。一粒一粒が光沢を放ち、白い宝石という言葉が似合うとさえ思った。次にみそ汁。具材はワカメと豆腐という王道にして頂点! こういうのでいいんだよ。こういうので。最後に鮭の塩焼き。香ばしくグリルで焼かれたオレンジ色の身は、縦格子状の魅惑の焼き目がついている。
「母さん、今日ってなんかの記念日だっけ?」
籠は思わず母に訊いてしまっていた。今までカップラーメンや菓子パンなどの食べ物ばかりを支給されてきたのだから、正直なところ困惑の気持ちが勝っていた。
「? 何を言ってるの? 普通の朝食じゃない。いただきますしてから食べなさい。
それとエニーちゃんには特別に……じゃじゃーん!」
「ワァーッ! 旗が五本も立ってるーッ!! エニー感激!」
エニーのご飯だけ、まるでチャーハンの盛り付けのようにドーム状に盛られていた。すでに目の前並べられた食事に手を付けている。というよりむさぼっている。母の心配をよそに、ご飯や味噌汁をかきこみ、時折のどを詰まらせてしまうほどに。
籠も左手に茶碗を持ち、右手に箸を持つ。こんな当たり前のことさえ、ちょっとだけ感動してしまっていた。右手の箸で白粒の大群へと突っ込み、一口サイズのそれを口へと放り込む。歯で優しく噛みつつ、唾液とまんべんなく絡ませ、舌の上でじっくりと味を堪能する。
うまい。うまいという言葉を久しぶりに使った気がする。ゴクリと惜しみつつも喉の奥へと送り込み、食道へとバトンタッチする。
籠はこの時点で少しだけ泣いていた。バレたらいろいろと言われた面倒なので、さりげなく目をこすったり、まばたきの回数を増やしたりしてごまかした。
エニーという人間問わず、近くで自分以外の誰かが食べていること。母がちゃんと料理作っていること。普通、きっとこれが普通の食卓なのだろう。しかしそれを長らく体験してこなかった籠にとっては、幸せ以外に言葉が見つからなかった。
きっとこんな日々が続いてしまったら、幸せだと感じることはなくなってしまうだろう。だからせめて今は、このありきたりで、さりげなくて、最高の時間を楽しむことにしよう。
「ごちそうさまデジタル!!」
「なんだそりゃ」
「エニーが考えた最大限の感謝を伝える言葉だよ。一回の使用料につき、千円ね」
「クソつまらねぇ上に金まで取るのか。ヒーローというより怪人なんじゃねぇのか?」
「か、怪人じゃないもん! マグロレッドだもん! これは、その……チョハッケン? ってヤツだよ!」
「猪八戒みたいに言うなよ。あとそれを言うなら著作権な」
籠とエニーのやりとりをみて、母が口元を隠しながら笑っていた。ちゃんと「ごちそうさまでした」をしたあと、学校の準備をしようと自分の部屋へ入ろうとしたら、
「あ、まだ部屋には入んないで」
とエニーに止められてしまった。籠は頭に?マークを浮かべながら扉の前で棒立ちになっていた。登校時間まであまり余裕はないので、早くしてほしい。中から布同士がこすれるような音が聞こえる。着替えているのだろうか。なら致し方ない。
一体何に……と考えいると、エニーの「いいよ〜」と呼ぶ声が聞こえ、やっとかとドアノブをひねって中へ入ると……
「おぉ……」
と籠は口から思わず感嘆の声を漏らしてしまっていた。今まではマグロレッドがプリントされた赤いTシャツに、デニムのショートパンツがエニーの定番(冬も同様に)だったのだが、服装が制服に変わっただけで周りの雰囲気を変えてしまったような気がした。
漆黒のブレザーにカラータイマーのように赤いリボン。膝をギリギリ隠す程度の灰色のスカートは、昨日まで丸出しになっていた生足があえて見えなくなったことで、逆に官能的な魅力を感じた。
「ドキドキするでしょ? エニー完全武装」
エニーはニヤニヤと勝ち誇ったかのような笑みを浮かべ、籠が見惚れていたことを完全に見抜いている。ここで百パーセント素直に肯定するのは癪だったので、
「ま、まぁ、それなりにイケてんじゃ、ないのか?」
少々濁しつつも、きちんと自分の気持ちを伝えることにした。別に天邪鬼に似合ってないとかいったわけじゃない。しかしエニーはお気に召さなかったのか、「ふ〜ん。そう。だったら……」と頬を膨らませつつ、明らかにご機嫌斜めな表情を向けてきた。
もしかして言葉が悪かったかと頭の中で他の言葉を熟考していたその時、何を思ったのかエニーはおもむろにスカートの裾をめくりあげ――その裏に隠されている白の布地を一瞬だけ見せてきた。厳密に言えば、籠が一瞬で目をそらしただけなのだが。
「な、何してんだ! 痴女か! 痴女怪人か!」
紅潮した頬にロックオンするようにして、グイグイとエニーが迫ってくる。
「やっぱりドキドキしてるでしょ! どれどれ〜?」
エニーは耳を籠の心臓のあたりに当てがうようにして抱きついてきた。その瞬間に両腕は、銃を突きつけられたかのようにバンザイをしてしまう。
「…………」
「…………」
二人の間に言葉はなく、ただ濃密に時間は流れ、次第に感じていた気恥ずかしさが薄れていく。シーツを触ったときとは比較にならないほどの、温かくて柔らかい体温を感知した。
「ずっと……ずっと憧れてたんだ。当たり前にコモちゃんと触れ合ったり、当たり前に朝食を一緒に食べたりするの……ずっと憧れてたんだ」
「え、エニー……」
「実はね、エニーが朝早く起きたときに、コモちゃんに『おはよう』って言ったんだよ? 気づかなかった?」
「す、すまん、寝てた……」
どっと後悔の念が押し寄せてくる。籠は目覚まし時計をもっと早くに設定しようと心に誓った。
「コモちゃんの寝顔、かわいかったよ。エニー眼福」
「お、男はかわいいって言われても、うれしくない生き物なんだよ」
そう言いつつも、自分の顔がだらしなくゆがんでいくのが分かった。恥ずかしさから慌ててエニーを剥がそうとした籠だが、しみじみとそんなセリフを言われてしまうと、これ以上は動けなくなってしまった。一分近くは先ほど説明した通りの奇妙な体勢が続いた気がする。
ゆっくりとエニーから耳が離されると、「ごめんね、付き合わせちゃって」と両手を合わせながら謝ってきた。しんみりとしたムードだったので、これ以上は何も言えなかった。ふと頭から熱が消える。そして気づく。制服と着るということは、必然的に……
「学校、行きたいんだよな……?」
「そりゃもちろん!」
きつい運動会のあとに弁当を食べる小学生のような満面の笑みをするエニー。それが逆に籠の心を締め付けた。いないもの扱いされてきた過去を思い起こす。出席で名前を呼ばないクソ先生、座っていた窓際を占領してくるクソクラスメイト。今思い出しても忌まわしい。
つい昨日までは病的なまでの思い込みのせいで気づけなかったが、事実に気づいた今、エニーの心の痛みはどれほどのものだったのだろう。でも学校に行きたいという発言は理解しがたい。まさか、許しているのだろうか。
「どうしたの? そんな暗い顔して」
「そ、そうか? いつも通り、だと思うが……」
安心させるように笑顔をつくろうとしたが、そもそも籠はそれが下手だったと思い出した。かえってエニーを心配させてしまう。
だからさりげなくドアのほうへ身を翻し、後ろ手でエニーの腕をつかんだ。われながら大胆な行動をしたと思う。暗に一緒に学校へ行こうという合図だ。
顔が曇ったのもつかの間、エニーの表情はパッと明るくなり、手から喜びの感情がこちらへと伝わってきた。無意識に力んでしまう。足取りが重い――
*
「…………はぁ」
学校に来るまでいやに時間がかかった。真っすぐ行けばだいたい二十分ほどで着くのだが、いかんせんエニーが隙あらば寄り道ばかりするのでそれを止めては歩く、止めては歩くの繰り返しだった。まるで年端もいかない子どもの面倒をみる親の気分だった。
道端に落ちている石を触ったり、電柱を触ったり、両腕を広げて全身で風を浴びたり、とにかく全力で人間になれたことへの恩恵を受けていた。エニーは一度歩くのめんどくさいという理由で三メートルほど宙に飛んだところを、籠は早急に引き留めた。
そして約束させた。その力は一目につくようなところでは絶対に使ってはいけないと。籠はまだ登校前なのに疲労困憊だった。だがエニーの最大限に驚いたり、最大限に身体全体で笑顔を浮かべているのを見ると、いくらか疲労感を拭うことができた。
二人分の足音を鳴らしながら昇降口へと入る。下駄箱に入った上靴へと変え、自分らの教室へと入っていく。廊下の途中、いつもなら死神のような凍える目つきで見てくる生徒が誰もいなかったことに籠は驚いた。これもエニーが存在したことによる作用だろうか。
あと今更だが、エニーは同じクラスなのだろうかと考えた。ここまでは順調にことを運べたが、果たして教室でも同じだと言い切れるのだろうか。そんな不安がよぎると同時に、すんでのところで引き戸に手をかけるのを躊躇している自分がいた。
「どうしたの? エニーが開けるよ?」
引き戸の前でロボットのように静止している籠のかわりに開けようとするエニー。ガラッ……と中の景色が五センチほどかすかに見えたその時、
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
と止めてしまっていた。額に冷や汗を感じる。ただの杞憂で終わるかもしれない。でも、簡単に切り替えることができないのは、己自身の弱さ故だ。
「本当に、開けてもいいのか?」
「どういうこと?」
「忘れたのかエニー。今までの扱いを。確かに存在したことで、現実世界にいくつか変更点が……」
籠の言葉を全て聞くことは無駄と判断したのか、エニーは引き戸をガラリと勢いよくすべて開け放った。それと同時だったと思う。
「「「おはよーう!!!!」」」
と今まで聞いたことないほどに明るく、それでいて快活でエネルギーに溢れている挨拶が耳に飛び込んできた。教室内の景色を一通り見渡してみると、ぞろぞろとエニーの周りにクラスメイトが集まってくる。
「ずっと風邪だったけど治ったの?」や「来なかったのずっと心配してたんだよ!」や「エニーisマイエンジェェェエエエェェェルッッッ!!」などなぜ休んでいるのかという設定は置いておいて、状況から察するにかなりみんなから慕われているらしい。
「? どうしたの? 箱崎くんも入りなよ」
「は、箱崎くん!?」
その呼び方に籠はかなり動揺していた。今までは威圧した目を向けながら「おい」と苗字すら言われなかったのに、急にあたかも親しいかのような振る舞いに理解が追いつかなかった。
呼び方もそうなのだが、何よりもまずはエニーだ。昨日まではずっと籠がみんなのかわりに関わってきたのに、今日は、今日からは違う。
いい方が悪いかもしれないが、自分だけのものだけでなく、みんなのものになった。推しの売れなかったアイドルが、急に人気になって日の目を浴びたときのような心境だ。うれしいけどうれしくない。見られてほしけど見られてほしくない。
「何考えてんだ、オレは……」
自分でも謎めいた感情に頭を支配されかけていた頃、どこからか走ってくるような風を切る音が聞こえる。床が微力ながら振動しているのを感じる。
目線を上げると、籠の教室の方へと向かって一人の男子生徒が向かってくる。最初は不鮮明だった顔つきも、徐々にはっきりと視界から情報が入ってくる。
「……ぇ」
籠は目を疑った。ボサボサだったはずの『ヤツ』の髪形は、まるで整髪剤でも使ったかのようにキレイに整えられている。肌も女の子のように手入れがされており、見た目だけなら俳優をやっていてもおかしくないような姿をしていた。
「来てくれたのか心の友よォォォ!!!!」
というどこぞのガキ大将のような言葉を放ちながら、籠に勢いよく抱きついてきた。鍛えれた筋肉を全身で感じて、同時に嫌悪感と吐き気が押し寄せてきた。
一応言っておくが、男に抱擁されて歓喜する趣味はない。むしろ全身の肌がすべて鳥肌に塗り替えられたかのような恐怖と衝撃が走った。
「そ、そそ、想馬、さん……人、人が、見て……」
と籠は周りを見渡すものの、廊下を歩く生徒たちは「またアイツら抱きついてるよ」や、「きっと友達以上の関係なんじゃねーの?」などまるで日常の一場面をみているかのように平然としていた。
違う。そういうのじゃないと声に出したくても、普通の人としゃべり慣れてない弊害で、うまく声が出せない。どうしてだ。母とはちゃんと言葉を交わすことができたのに、ただ人が変わっただけで、まるで逆ビフォーアフターだ。
「突然だがコモルー。一生のお願いだ!」
「こ、コモルー? それって……」
今なんだか、とんでもなくセンスの欠片もない名前が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにしよう。
籠はとりあえず、さっきから靴の裏のガムよりも引っ付いてくる親一朗を剥がそうとしたその時、
「待ちなさいッ! この全身生殖器男がァァァ!」
と遠くから月に十回も強盗に入られたコンビニの店長のような野蛮な声が聞こえたと思ったら、その頃には距離にして約五メートルほどの位置に一人の女子生徒がいた。
特徴的な部分として、顎に大きなほくろがある。まさかとは思ったが、親一朗を先に見ているのでそれほど仰天はしなかった。それでも以前は前髪で隠されていたはずの目があらわになり、憤怒の念が十分すぎるほどに伝わってきた。
背中に垂らしていたはずの髪の毛がポニーテールに変わっており、巻かれたそれがブンブンと揺れる。今までの無機質の権化とは考えられないほどに、感情を表面に出した顔に気圧されてしまう。
「ホックロ……じゃなくて、友坂!? お前、本当にあの
あたかも驚いたように籠がしゃべった理由は、このまま黙ってたら喉にでも噛みついてきそうなほどに危険性が高そうだと見極めたからだ。
「どきなさい箱崎くん。でなかったらあなたごといくわよ」
「あなたごとって……ヒッ!」
空音さんは「ハァァァァァァ……!!」と大地を揺るがすような低く重い唸り声を上げたと思ったら、その瞬間に空気が微細な震えを開始し、周辺が蜃気楼のようにボヤけ始めた。
空音さんを囲む気が、戦闘力が大幅に上昇していくのが手に取るようにわかる。今なら勢いで髪の毛の色も金に変わりそうだ。
空音? さんは両手にギュッと力を込め、ファイティングポーズを作ってきた。籠は実力を知らないはずなのに、構えている所作や周りの雰囲気から、動物の本能的に危険なニオイを嗅ぎ取った。
幸いにも相手は自分と同じ人間。虎やライオンなどの動物とは違う。ここは脳内にあるすべての語彙力を総動員してコミュニケーションをすれば、きっと収まってくれるだろう。
「お、おちつ、おちつて、は、はなそ……」
籠は一つ大事なことを忘れていた。自身が極度のディスコミュニケーションだということを。
今まで人と話さなかったことによる弊害が、まさかここにきて出しゃばってくるとは思いよらなかった。命の危機だというのに、火事場の馬鹿力なんて言葉は大嘘だと思った。
「ちょ……離し、離してください!」
あくまで空想の中ではそれなりに戦えたり動けたりするだけだったので、現実では完全に親一朗によって抑え込まれていた。
「頼むコモルー! 一生のお願いだ。俺様の身代わりになって死んでくれ!」
「嫌に決まってるだろうが!!」
「そこをなんとか! あとで一万円あげるからァ!」
「あの世に金は持ってけないだろうが! それにオレの命の価値は、一万円で済むかァ!!」
親一朗はすっかり籠の後ろへと身を隠してしまっている。このままでは近い将来、自分の身体がちゃんと原型をとどめることができるかどうかが危うくなってしまう。
その時、空音さんが「そろそろ……」と再び地の底から響くような恐ろしい声を出した。親一朗は見苦しく肩をビクンと震わせ「ヒィ!」と情けない声を出した。
「そろそろ、この世に別れの言葉は済ませただろうな。それとも、これから元カノたちに連絡するのか? 想馬くん」
「お、おおおお許しください! 神様仏様空音様ァ!!」
親一朗は何度も何度も床に頭を擦り付けながら土下座した。昨日までなら絶対にあり得ない景色。それにくぎ付けになってしまった籠は、うっかり逃げることを忘れていた。そのせいでまたしても後ろから抱き込むように捕まってしまった。
「元はと言えば、文字通りあんたが蒔いた種でしょうが! 一組の佐藤さん、三組の田中さん、一つ上の加藤先輩と三股しといて、今になって許されると思ってるわけ? 去勢されないだけありがたく思いなさい!」
「わ、わかったから友坂! あとで三人には一番高いと言われている、ミックスフライAランチセットの学食をおごるぜ!
地元で捕れた新鮮な甘エビのフライに、フワッフワな白身魚のフライ、そしてジューシーな牡蠣フライがそれぞれ二個ずつ食べられる至高の一品だ!
間違いない。これできっと彼女たちも……!」
「許されるかアアアアアアァァァーーーッッッ!!!!」
その言葉が親一朗、および籠の死刑宣告のようだった。空音さんは二、三歩ほど後ろへ下がると、助走をつけるようにしてこちらへと閃光のごとく駆け寄ってきた。その様はまるで獲物を狙う猛禽のように目を鋭くし、より一層恐怖のどん底へと叩き落とす。
一瞬の間に空音さんの身体は籠の目の前に到達し、そのまま勢いよく飛び上がる。空中で体をひねりながら、彼女の足は鋭く伸びていた。自分は寸前のところで火事場の馬鹿力を発揮し、何とか親一朗と前後の位置を逆転させることに成功する。
これで大丈夫だろうと思った次の瞬間――背中のあたりへ貫くようにして伝わる衝撃が、籠の意識を惜しみなく奪ってきた。「うぐっ!」と呻き声を上げる間もなく、まるで切った爪が誤って遠くへ飛んでいくが如く、二人とも廊下を吹っ飛んだ。
周りの生徒の目を釘付けにしている。空気が一瞬静止したような、その瞬間の緊張感は、まるで戦場の一コマのようだった。
「大丈夫籠くん!? しっかりして!!」
遠くから足音を響かせてやってきたのはエニーだった。グラグラと籠の身体を揺らし、身の安否を心配している。ありがたいと心のなかで思っていると、頬を触れられた瞬間、ビリッと頭に電撃が駆け巡った予感がした。
――ちがう。だれ、だ?
指のわずかな触感から、エニーだと思っていた人物像が一気に崩れ始める。見た目が全然違うはずなのに、どうしてそんな勘違いをしてしまったのだろうか。不明瞭な視界に映っているのは、どう見ても……
「衣、里……?」
はっきりと二つの眼光で姿を認知しようとした次の瞬間、突発的に映像が変わった。ビーチの景色だ。波の音もうっすらと聞こえる。随所にノイズや砂嵐のようなものが紛れており、まるで昔の白黒映像を見ているようだった。
視界の端に映り込む腕やおなかの大きさから、年齢はだいたい小学生。祭りで見た、夢の中の幼い頃の自分とさして変わらない。なぜか仰向きに倒れており、いつも隣にいた女の子が身体を揺らしている。「コモちゃん! コモちゃん! コモちゃん!」と。
悲壮感に満ちた声で何度も泣き叫んでいる。耳の奥ではずっと波の音が絶えず聞こえ、太陽の熱が肌をじりじりと焼いてくる感じがする。慌てふためいている大人たちの声。興味ありげに近づいてくる野次馬たち。
これは現実で起こった出来事なのだろうか。それとも脳が見せているただの幻覚なのだろうか。風前の灯火のような意識が途切れるまで、籠はそればっかり考えていた――
*
「…………ここ、は……」
ムクリを上半身を起き上がらせる。頭がスッキリしていた。まるで脳にたまったゴミをまとめて吸ってもらったかのように晴れ晴れとしている。
さっきはなんらかの映像が流れていたような気がするが……なんだったのだろう。きっとさっき言ったようにゴミだったのだろう。
「起きたか! My confidant(心の友よ)!!」
とやたらに発音のいい英語を言ったと同時に抱きついてきたのは、まことに信じがたいが想馬親一朗その人だ。その時、キーンコーンカーンコーンとチャイムの音が学校中に反響した。掛け時計の時間を確認する。時計の針は、一時間目の授業の時間を過ぎていた。
籠は特徴的なローマ数字の掛け時計から、ここが保健室だと今更理解した。空音さんとの一件のあと、自分は誰だかは知らないがここに運び込まれ……って、それより……
「あの……そ、そろそろ、離れてくれませんか……」
「何を言う! あの日、運命共同体と書いてズッ友だと星空の夕日の夜明けを観ながら誓い合った仲ではないか!」
「結局のところ何を見たんですか。て、ていうか、本当に離してください!」
籠は無理やり親一朗の両腕から逃れようとしたが、ほどこうとすればするほど逆に強く締め付けてくる。ヘビじゃあるまいし。
「想馬! 箱崎くんが痛がってるじゃないの。離しなさい!」
「ちょい待て。そもそも倒れる原因作ったお前が何いってん……痛デデデデデデ!」
急に顔の筋肉を苦痛にゆがめたと思ったら、さっきまで万力の力で抱きしめられてきた両腕がやっとほどかれた。
親一朗はまるでト◯とジェリーのトムが画鋲を踏んだときのリアクションみたいに足を持ち上げながら痛がっていた。空音さんが足を踏んづけたらしい。
「確かに正論だけどあんたに言われるのはムカつく」
吐き捨てるように言うと、空音さんは籠のほうへ向き直って、
「いっつもこのバカには振り回されてるでしょ? 何か困ったことがあったらいつでもあたしに言って? 今日みたいなのお見舞いしに飛んでくるからさ」
とにこやかな表情を浮かべながらグッドサインをしてきた。しかし籠の耳にはほとんど情報が入ってこなかった。さっき会話をするのもやっとだったのだ。
対人コミュニケーションの著しい不足に加えて、身に覚えのない人間関係。これで平静を保てという方が無理があった。だからまずどうしても聞きたいことがある、それは……
「あ、あの……」
「ん? 早速困りごと?」
「想馬さんたちにとって、オレってどういう関係?」
「…………は?」「…………え?」
二人は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているが、仕方ない。それなりの情報開示を求めないと、いよいよついていけなくなる。ここは変だと思われること承知で行くしかないだろうと籠は判断した。
まずは自分と親一朗との関係だが、正真正銘の友達関係らしい。出会いはいつなのかと訊いてみると、高校の入学式で席が近かったからなんて安直、かつ単純な理由で意気投合したらしい。そんな陽キャになった覚えはないのだが。
ここで考えたのは、おそらく母の変貌と相似した世界の変更のせいなのかと籠は思った。たかが一人の人間を増やしただけで、まさかここまでやるとは想定外と思うと同時に、もう一つの可能性が出現した。
――
もしエニーという人間が存在していたらという、もしもの可能性の世界。籠は喫茶店に行ったあの日から、元いた世界とは別の世界へと迷い込んでしまったのだろうか。
そうだとしたら、元の世界にいま、箱崎籠という人間は留守なのだろうか。それともここにもともといた箱崎籠と入れ替わるようにしてかわりにいるのだろうか。答えは出ない。
考えてもきりがないので、最後は空音さんの話を聞いた。これまた信じられないことだが、メンバーは四人。籠と親一朗、空音さんとエニーでよく遊んだり勉強したりする仲だと聞かされた。
本来だったらうれしい状況かもしれないが、いきなり知っているという前提で友達として振る舞えと言われても無理な話だ。かといって今までどおりずっとエニーと二人きりでいるのも難しいだろう。
どうしたものか……
「なんか改めてやると、自己紹介ってちょっと恥ずかしいわね」
空音さんが鼻をポリポリかきながら、頬をわずかに赤らめている。これまで籠が見たことのない表情で、不覚にもかわいいと思ってしまった。
「恥ずかしいってよぉ、それって恥ずかしい人生ばっか送ってるからじゃ……ウグゥ!」
と口は災いの門ということわざを知らないのか、またしても親一朗は空音さんに今度は肘打ちを食らい、両手でお腹を押さえてうずくまった。
「そういえば……想馬さんって、ついさっき友坂さんから攻撃を受けたはずなのに、もう平気なんですか?」
籠は今頃になってピンピンしている親一朗に訊いてみた。自分は朝のホームルーム前から一時間目の終わりまで目を覚まさなかったというのに、不公平だと思った。
「認めたかねぇが、俺様とコイツは幼なじみってやつでな。昔から殺人キックやパンチは食らいすぎて、すっかり耐性がついちまったんだ。それより心の友、いや、コモルー!」
「こ、コモルー? ポ◯モンの?」
「あってるけどそうじゃねぇ! お前どうした? 俺様のことあだ名のイッシンって呼ばないし、友坂に対しても他人行儀だし、なんか悪いことでもしちまったか?」
「い、いや、その……」
それよりなんだよ。イッシンって。籠はあだ名のクオリティの低さに寒気すらした。
「なんか、
「……っ!」
親一朗の鋭い指摘に、籠は何も答えられなかった。ますます不審がる二人を何とか振り切ったあと、その後はエニーの元へ戻った。突然フッといなくなったことにえらく心配したのか、顔を見るや否や、人目も憚らず抱きついてきたので大騒ぎだった。
どこへ行っていたのかと訊かれ保健室と聞くとなおさら顔を青くして安否を気遣ってきた。籠は本当に自分の身が安心であることを、適当に手足を動かしておどけて見せた。エニーの顔は依然として晴れなかった。
二時間目からきちんと授業に参加し、四時間目までが終わったあと、母から持たされた弁当を食べようとした……だが、親一朗から四人一緒に昼食を食べようと誘いを受けた。籠は五分ほどの逡巡の末、教えられた中庭の席まで行ってみることにした。
「遅いぞコモルー。もう待ちきれないってエニーが食い始めてらぁ」
「グズグズしてると、あっという間に昼休みなくなっちゃうよー!」
「…………」
自分のために待っている人がいる。これはこれで喫茶店と同じくらいに違和感を感じずにはいられなかった。実は逡巡した理由は、親一朗と空音さんが二人がかりで自分をいじめてるんじゃないかという疑惑があったからだ。
保健室の時の説明で理解したつもりだったのだが、長年の人付き合いの疎さがそれを妨げた。これからは対応を改めないといけないらしい。自分にできるだろうかと不安だった。
弁当の内容は唐揚げだった。ショウガが強く利いており、ご飯が泥棒のごとくなくなっていった。ほかにも肉団子やサバの塩焼きなどおかずがあったのだが、「もっといいのと交換してやろう」と親一朗から渡されたのは、揚げナスやピーマンなどの野菜ばかりだった。
その件に関しては、またもや空音さんから痛恨の一撃をかわりに食らわせてくれたので不問としよう。エニーは授業が分からないつまらないめんどくさいと、休み時間のたびに愚痴を漏らしてきた。籠はそれを適当に相槌を打ちながら聞いていると、六時間目の体育の時間になった。
「パスパース! パース!!」
キュキュッと上靴とフローリングの床が擦りあって、音が体育館内に響いている。今はバスケットボールをやっている。点数はエニー陣営の圧倒的優勢だ。かわいそうなことに、相手チームには一点たりとも入っていない。その様を籠と親一朗が体育館の壁を背にして見ていた。
数学などの授業は分からないくせに、籠がちょっとルールと教えただけで、いとも容易く飲み込んで自分のものにしてしまった。見た目通りだと思ったが、やはり頭を使うより身体を動かすことに適性があるのだろう。
「任せた、エニー!」
クラスメイトの一人が叫ぶと、エニーはその呼びかけに応えるようにジャンプし、見事にボールをキャッチ。そのまま、素早く一歩踏み出してシュート体勢に入った。いま、目の前には、対戦相手の守備が立ちはだかっている。
しかしエニーは意に介せず、スムーズな動作でボールを放る。空中で一瞬静止したボールがネットを揺らし、鮮明な音と共にゴールに吸い込まれた。
「ナイスショット!」
チームメイトの声が上がる。エニーは嬉しそうにガッツポーズをし、仲間たちに囲まれた。笑顔は陽の光を浴びて輝き、その瞬間、勝利の喜びがコートを満たしていた。
やはり複雑な気持ちは拭えない。エニーが自分以外の人間と関わり、声を交わし、交流を深めていく。籠はその一連の動作を言語化するには、勇気が足りなかった。
「やっぱりエニーはすげぇなぁ。部活に入んないのが不思議だぜ」
真剣な表情で腕組みをしている親一朗。だが肝心の視線の先は、女子のクラスメイトがパスやシュートでジャンプした際にチラリと見えるおヘソの時のみ集中していた。
「え、エニーは、部活に、入っていない設定なのか?」
「は? 設定?」
「あ、いや、こっちの話で」
籠は一言一言発するたびに疲れていた。舌がグデングデンに泥を含んだみたいで重たい。まだ普通の人間と話すことに抵抗がある。普通の人は、こんなことを日常的にやっているのだろうか。
話を戻すが、エニーがこの世界に存在しているという設定は本当によくできている。まさかとは思うが、全員の脳に一つ一つ丁寧に記憶の改ざん処置を施したというのだろうか。
「そういえばよ、一つ訊きたいんだが」
「……なに」
籠はエニーが試合をする一つ前に試合をしていた疲れが抜けておらず、水筒で水分補給をしていた。その時だ。
「コモルーって、エニーのことが好きなのか?」
瞬間、籠の視界にはキラキラと光り輝く透明な液体が舞っていた。それが自分の噴き出した飲水であることは、「ギャァァァ!」と親一朗の悲鳴を聞いて理解した。
「おいおい、男の潮吹きなんてきたねェだけだろ。それに動揺しすぎ。童貞じゃあるまいし、みっともねェ」
とわけのわからないことを喋っている親一朗。こいつはもしかしたら、精神病院の隔離室から脱走してきた患者ではないだろうか。
「な、何をいきなり」
「お前ら二人で一緒に登校してたじゃないか。つまり肉体関係ってことだろ?」
「話が飛躍しすぎだろうが! それにその……中学生じゃ、早すぎるだろ……」
そう言いつつも、籠は初めて生身のエニーに会ったときに胸を揉んだことを思い出していた。そのせいで自分の頬が真っ赤に染まっているという状態を、親一朗は見逃さなかった。
「なんだよなんだよ〜かわいいヤツだなぁ〜コモルーはぁ〜」
親一朗は、まるで過保護に育てた可愛い妹に接するようにしてベタベタと触っていた。エニーと母以外の人間に触られる。それがたまらなく気持ち悪くて、つい振り払ってしまった。
「と、とにかく、エニーとはそんなやましい関係じゃない。ただ一緒に住んでるだけで……」
直後、「アッ」と小さく言葉が漏れた。いま親一朗からしたら、極上の餌のような言葉をしゃべってしまったような気がすると、身体全体が直感した。
「お、お前! エニーと、あのデカパイと一緒に住んでんのか? 住んでんのかァ!?」
籠の身体を前後に揺らし、眼球をこぼしそうな程にガン開いている親一朗。変わりようは、もはや別人格だ。
「デカパイ言うな! 名前で呼べ!」
「胸は触ったのか? 感触は? 大きさは? 味は? 舌触り……」
地獄のような質問攻めに遭っていたその時、光のような速さで親一朗の頬に接近してくる球体の存在を確認した。それは、バチン! とまるで力強く平手打ちをしたときのような大きな音を出した直後、バウンドしながら近くを転がった。ボールだ。
親一朗は「グフッ」と無様な声を上げたあと、頭を床に打ち付けて倒れた。「ごめーん!」と反響した声が聞こえてくる。エニーだ。普通は褒められることじゃないが、籠からしたら大手柄だった。悪の魔王は、こうして打ち倒されたのだ。めでたしめでたし。
そんなことがあり、今は放課後で帰り道の国道沿いを歩いている。いつもなら一人で帰っていたはずの道が、エニー、親一朗、空音さんがいることで狭くなっている。なかなかに異質な光景だ。
「提案なんだけどよ、せっかくエニーが風邪こじらせてたところを戻ってきたんだ。ここは一つ、そのお祝いってことであの店に行かないか?」
帰り道の途中、親一朗が一つの店を指さした。そこはかつて、籠が出禁にされたうどん屋だった。心がコーヒーに浸されたように苦い記憶がよみがえる。
「え!? お店に入れるの? やったーーーッッッ!!!!!!」
エニーはよほど嬉しいのか、ぴょんぴょんはねながら、どういうわけか籠を含む三人全員と両手で握手してきた。
「ちょっとはしゃぎすぎじゃない? 別に食べたことないってわけじゃないでしょ?」
「え? 生まれて初めて食べるよ?」
「「え?」」
「え?」
三人が和気あいあいとしゃべっている中、籠は完全に蚊帳の外だった。いつもの放課後なら、エニーがカイセンジヤーのかっこよさや今後のヒーロー活動方針などのどうでもいい話を聞いているだろう。まだそんなに時間が経っていないはずなのに、えらく懐かしいと思う。
楽しそうな横顔をみていると――無性に心が乱暴につかまれたように苦しくなる。籠は昼下がりの空に視線を逃がした。太陽は仄暗い雲に覆い隠されていてよく見えない。
この気持ちはなんだろう。友達としてうれしいことのはずなのに。エニーが人間になれてうれしいはずなのに。どこかでそれを恨めしいと思っている自分がいる。例えばだが、ずっと手塩にかけて大切に育てた娘を、将来の婿に取られたような、そんな気持ち。
「あ、あの!」
なれない大声を出して、三人を呼び止める籠。出禁はなくなっていると思うが、思うのだが、確信がないと、万が一そうじゃなかった場合にみんなに不快な思いをさせてしまう。
「じ、実は……あ、あの店は、出禁にされてて……」
親一朗とそ空音さんはポカンと脳みそが職務放棄したかのような顔をしている。エニーはしばらく籠のバツが悪そうな顔をみていると、予期せずハッとした表情になり、
「あ、あ〜ソラちゃん! シンちゃん! エニー店よりも、海に行ってみたい! 昨日まで人間の身体がなかったから、ずっと触ってみたくて憧れだったんだ〜」
「「カラダ? アコガレ?」」
「あ、いや、ななんでもないよ!」
海という単語が出てきた瞬間から、二人の顔つきにやんわりと拒否を示されているような気がした。理由はすぐに分かった。
幽霊喫茶店のことだろう。地元じゃ知らない人なんていないレベルで有名なのだから、できれば近づきたくない気持ちはよくわかる。籠も昔はそうだったのだから。
「う、海か〜。海はな、広くて、大きいんだぁ……」
「そ、そうよねぇ〜。別にわざわざ行かなくても、高台に行けばいつでも見られるわよねぇ〜」
二人とも決してはっきりと断らないのは、エニーに対しての優しさ故なのだろう。それが正しいことは分かんないけど。
一方エニーは、二人の気持ちなんて何のその。十二割ほど行くことが決定したかのようにノリノリな口調で、
「じゃあ、海に行くの決定ね。というわけだから……エニーが一番乗りぃ〜!!」
と急に立ち止まったと思ったら、そのままどこで覚えたのかクラウチングスタートを決めてから、一気に新幹線のごとく駆け出してしまった。籠はそのまま現地まで行かせるつもりだったが、二人も同じく走り出してしまったので、しぶしぶ身体に鞭を打つことにする。
最近は何かとたくさん走る機会が多かったので、勝手に自分には体力がついただろうと高をくくっていたが、結論から言うとそれは幻想だった。五月の生ぬるい風が不愉快ったらありゃしない。逆に汗がドバドバと噴出してくる。
「ちなみにだけど、もし最下位の人は、一位の人に何でも一つ命令されちゃうからねー!」
五十メートルほど距離を離してから、エニーがメガホンのように両手を口元に当てつつ悪魔的な提案をしてきた。おまけに悪魔的な笑みも追加でついてきた。
そもそもの話、これはエニーのお祝い会で会って、エニーがどうこう言える立場じゃないはずなのだが、性格上そんなことを考えるような奴じゃないだろうなと把握した。
何を命令されるか分かったもんじゃないが、かといってこれから窮地に立たされた物語の主人公みたいに覚醒できるわけがない。どうすれば……と思案したその時、親一朗と空音さんが籠の肩に手を置いてきた。不思議なことに、二人とも俯いている。その状態のまま、
「なぁ、俺たちは親友だ。それは間違いないよな?」
「あ、ああ」
「だったら一つや二つの過ち、それを許してこそよね?」
「過ち?」
ポンポンと両肩を二回ほどたたいて、静かに立ち上がったと思ったら――脇目も振らず一気にスタートダッシュを決めやがった。あぜんとした籠の顔に二人は容赦なく言葉を浴びせる。
「ごめんなさーい箱崎くん! この埋め合わせはたぶんするからー!」
「心の友よー! 骨は拾ってやるぜー!」
「…………」
二人はあっという間に視界から遠く離れていく。同じように追いつこうとしても、まるで泥沼にはまったようにうまく動かない。心に焦燥が塵のように積もり始める。籠の脇で風が通り過ぎた。
――オイテカナイデクレ
頭の中では、その言葉だけが絶え間なく連呼されていた。学校に行ったとき、存在を否定してきた連中に限って、真っ先にエニーに好意的に近づいてきたことを思い出す。
あまりにも身勝手甚だしいと思う。以前の世界とは似ても似つかない場所というのは分かっている。しかしつい昨日までずっとエニーを、エニーだけを見続けて籠にとっては、そんな急に横から表れただけのような人たちと仲を深めてほしくなかった。
「そう、か……オレって……」
嫉妬――
自分の気持ちの正体を知ると、いくぶんか胸の内が楽になった感じがした。籠はエニーたちに間に合わないことは確定しているので、のんびり歩くことにする。常に正面から吹き続ける海風がとても助かる。
エニーも走りながらそんなことを考えているのだろうか。それとも、とっくの間に到着してしまっているのだろうか。
――エニーはずっと、ずっとコモちゃんの味方だから。ずっと一緒だから。
ヘロヘロになりながら走っている最中、ふとエニーの言葉が脳内に響いた。嫉妬の感情がジワッと半紙に水が染み込むようにして、身体の隅々まで余さず広がっていく。視界がボヤけた。
そのせいで、身体の重心を失ったと思ったら籠は前のめりに倒れてしまった。不思議なことに痛みは感じなかった。外部からの傷よりもずっと、その内側に闇を孕んでしまったせいだろう。
「……エニーからは、どう映ってんのかな……」
風の匂い、
海の景色、
人の声、
すべてが初めてのエニーにとって、それはさぞ美しくて、新鮮で、かけがえのないものとして記憶に刻まれているだろう。
それでいいのだろうか。
このまま黙ってエニーに行く末を見守っていいのだうか。きっと自分が一言声をかければ、言うことを聞いてくれる。でも……でも、それじゃ……!
こんなことを考える自分が嫌だった。ただ黙って人間になれたことを祝福すればいいのに、そんな簡単なことができなかった。そんな簡単なことをしたくなかった。その気持ちの方が何倍も強かった。
籠が到着したのは、自分以外が到着してからさらに七分も経過したあとだった。
「ハァ、ハァ、ハァ……エニーの、体力、どうなってんだ……」
二人は砂浜で寝そべってた 一人でシャトルランやってたエニー
「最下位はコモちゃんかぁ。敵幹部なのに情けない!」
「「敵幹部?」」
親一朗と空音さんの二人して首をかしげる。仲が悪くても、幼なじみというのが伝わってくる。
「あ、別に無視していいから」
ビーチは時が止まったようにガラガラだった。まだ五月でシーズン前というのも理由の一つだろうが、何よりもまず幽霊喫茶店のせいでもあるだろう。
潮の香りが漂う静寂な海岸線。波は優しく砂浜を撫で、白い泡を残して消えていく。遠くには青い水平線が広がり、空と海が溶け合うようなグラデーションを描いている。風は穏やかに吹き抜け、かすかに乾いた潮の匂いを運んできていた。
誰もいないこの場所には、ただ自然の息遣いだけが響いている。足跡はなく、風に散らされた貝殻が無造作に散らばっている。静寂の中、海のささやきが耳に届く。時折、遠くの波が心地よく打ち寄せ、砂を少しだけ盛り上げていた。
特に理由もなく見とれていると、誰かが肩をチョンチョンと人差し指で触ってきた。エニーだ。
「ところでコモちゃん、忘れてないよね?」
「まぁ、仕方ないか。なんだよ」
籠はボリボリと頭をかいたあと、エニーはまるで結果発表でよくあるテレビの演出みたいにセルフで太鼓の音を再現したあと、でかでかと声高に叫んだ。
「コンビニのスイーツが食べたい!」
「…………」
「…………」
コンビニ? コンビニって言ったのか? 確か記憶情報に間違いなければ……
「ロールケーキでしょ、ショートケーキでしょ、ガトーショコラでしょ、とにかくぜーんぶ! あとあと……」
「ちょっと待て」と諌めるような口調で口を挟んできたのは親一朗だ。言いたいことは分かっていた。だからこそ、言ってほしくなかった。
「近くのコンビニっていりゃよ、エニー……俺らが走ってる最中に通り過ぎたぜ?」
のんびりと歩いている途中に見かけた、たった一軒しかないセコイマートを思い出す。だんだんと身体から嫌な汗が分泌されていく。ニコニコとした表情を崩さないエニー。どこにも逃げ場はなかった。
ポンと親一朗が再度肩に手を乗せていた。そしてグッドサインと白い歯を見せて笑いかけた。慰めのつもりだろうけど、何の足しにもならない。
「…………泣けるぜ」
籠は身を翻し、今しがた歩いてきた道を引き返していく。背中で三人に恨みの言葉をつぶやきながら、コンビニへと向かった――
*
とりあえず商品棚に並んでいたスイーツを一通り買うことにした。ある程度親一朗や空音さんからお金をもらうことはできたのだが、最終的には籠自身の出費のほうがかさんだ。道のりを二往復したせいで、足が蜂にでも刺されたようにパンパンだ。
みんなで濡れていない乾いた砂の上に座り、買ってきたスイーツを分け合いながら食べた。食べてみて思ったのだが、ほとんど専門店で食べても遜色ないほどに高クオリティな品ばかりだった。そう思うのは、自分の舌がおこちゃまレベルなのかと籠は思った。
食べ終えたあとは、誰が砂でかっこいい基地を作れるか対決したいというエニーの提案から、基地作り対決を実施することにした。結果は意外にも、親一朗が他の追随を許さないほどに圧勝するという驚きの展開になった。
三日月状に建設されたそれは、高さは子どもの背丈ほどもある。細かく窓も設置されており、まるで城のような屋根が尖った建築方式を採用している。丸みを帯びた壁は柔らかな曲線を描いており、ところどころに小さな穴やくぼみが見えるのは、秘密の扉や隠し窓だろうか。
「すごーい! なんでそんなに作るのうまいのー?」
エニーはキラキラと好奇心あふれる眼差しを親一朗に向けながら、なんとかしてコツを盗もうと必死だった。
「俺、カナヅチだからよー。両親に海に連れられたときはいつも砂ばっかいじってたんだ。ま、努力のたまものってわけだ」
「それだけは唯一の長所よねー、それだけは」
「おい、わざわざ二回言って強調するこたぁねぇだろ。下手くその分際で」
「言いやがったわねー! 浮気野郎の分際でーッ!」
青春を享受する三人をよそ目に、籠は落ちている貝殻集めをしていた。途中手のひらサイズほどのカニに指を挟まれるハプニングもあったが、約十五分ほどの時間でルリガイでサクラガイなどのきれいな貝をたくさん手に入れられた。
だが籠の心には、先ほどの嫉妬の感情が息づいているのを感じていた。あの楽しんでいる場に混ざりたいといくら思っても、そのやり方が分からないのだ。ただ見てるだけという歯がゆい状況が続く。
やがてそれすらキツイと脳が判断したのか、逆に一段と籠は貝殻集めに勤しんだ。こういうときの単純作業は、精神を落ち着けるのには最適だ。効果はてきめんで、薄紙をはぐようにして魂を取り囲んだ暗雲が晴れていくようだった。
「お、めっちゃ取れてるじゃねぇか。ちょっと見せてくれよ」
「あ、ちょ……」
親一朗は籠から片手で抱えて持っている貝殻の一つをつまむと、夕焼けをバックさせて眺めていた。逆光で黒光りしている貝殻は、自然が織りなす芸術のようで見とれてしまった。
「ありがと。お礼にこの特性ドリンクをそなたに授けよう」
親一朗が芝居がかった声で渡してきたものは、『コーヒー青汁風味』という名前からして消費者に購入を拒むような品だった。キャッチコピーにはまずい! もういらない! とこちらがこれから言うであろうセリフを代弁してくれている。
断りきれずに一口だけ口をつける籠。コーヒーの苦みと青汁の青臭さが混じり合い、まるで口内でお手軽に蠱毒を作り出した気分だった。モームリ、というのが率直な感想だった。自前で買ってきたお茶で口直しをする。治るのには、まだ時間がかかりそうだ。
籠は親一朗に手招きされ、貝殻があまり落ちていない砂場に腰を下ろした。昼間は焼き付いてしまうくらい温度が高い砂でも、夕暮れになると公園の砂のように気持ちが良かった。エニーと空音さんが雑談している様を、一つ引いたところから見守る。
「青春って感じがしねぇか? コモルー」
と話しかけてきた。籠は随分と間を置いて「……わかんない」と言った。比較対象のある人生を送っていないから、何とも言えない。知ったかぶって分かるなんて言葉を発したくなかった。
空音さんはエニーにの最近の好きなアーティストについて話していた。『Aho』や『HIASOBI』? なんて聞こえた気がする。あとは可愛い韓国のアイドルユニットの話もしていた。
普段の籠なら、「韓国のアイドルは皆の顔が同じすぎて判別できねぇよ」などと心の中でツッコむことができるが、話を聞いている相手がエニーであるだけで、自分の胸がキュッと苦しくなっていた。
「あの……親一朗」
「だーかーらー、イッシンって呼べっつったろ? それとも何だ? カップラーメンが好きだから俺様のことは日清って呼びたいと?」
「そんなことは言っていない」
ギャグがつまらな過ぎるので声のトーンを落として否定する籠。
「じゃあ……い、イッシン、一つ訊きたいことがあるんだけど」
「ああ、なんだ?」
「どうして人って、バカみたいに群がる生き物なんだろう?」
「はぁ? どうしてって……」
小首をかしげ、目線を左上に向ける親一朗。籠は知っている。人間は、皆で共通の悪を見据えているときが一番団結できるということを。自分がされてきたイジメを思い出す。確かに誰もいない空間に話しかけている様は、周りから見ればさぞ不気味に映っただろう。
しかし、だからと言ってイジメが肯定されるわけがない。されてはいけない。『悪』を成敗し、『正義』を振りかざす。それは悪いことではない。しかしそこに気持ちよさや快楽を見いだしてしまっては元も子もない。それは『悪』よりもずっとどす黒くたちの悪い『害悪』だ。
しばしの時が流れ、親一朗は閃いたのか、「あっ」と声を出した。何をいうかと思ったら、
「みんな、こどもだからじゃないか?」
とハテナマークが頭に咲き乱されそうなことを言ってきた。
「??? どういうこと?」
「子どもってよ、一人でできることはかなり限られてくるし、それに親に護ってもらわなきゃ死んじゃうだろ? それは世間上は大人になったとしても同じで、すでに子ども時代のときの『誰かに頼らずにはいられない』癖みたいなものが遺伝子レベルで染み付いてるからじゃないのか?
その頼る頼らないの度合いは、人によって千差万別だろ」
「…………」
勢いよく立ち上がった親一朗。そのまま沈みゆく夕日に向かって大きく伸びをする。
「まっ、俺様が言いたいのは、この世に淋しくない人なんていない。いるとしたら、それを隠すのがうまいだけのことよ。ちなみに……」
と親一朗は、「これが俺様の淋しさを埋めてくれる
その後、一人ぐらい紹介してやろうか? なんて冗談にもならない冗談を言ってきたので、丁重にお断りする籠。
「コモちゃん、見て見てー!」
「ん? なんだよ」
その時、エニーが大きく手を振りながらこちらへ走ってきた。そして有無を言わせずして、籠の手元にあるものを置いてきた。見てみると、海ではよく落ちているホタテの貝殻だ。これが何だと言うのだろうか。
「気づかない?」とエニーの言葉により、少し目を凝らしてみる籠。それにより、うっすらと十文字の傷が確認できた。その瞬間、籠の頭にピコンと電球が灯された気がした。
「あれ、この貝殻って……」
「そう! これってイカホワイト役の人が事故で大怪我したときに、代役として出てきたホタテクリームの武器にそっくりじゃないか? ほら、扇子型のあれだよ! あれ!」
「なんかよくわからんけど、大事にしろよ」
と親一朗は籠の背中をバシンッと叩いてきた。痛い。エニーは他にも「傷付き具合まで再現されてる!」なんて言いながらテンションをマックのフライドポテトぐらいあげて喜んでいる。その姿が眩しくて、直視できなくて、思わず微量だが目をそらしてしまう。
だがその微量を、エニーは見逃さなかった。そういうところをとても尊敬している反面、うっとうしいとも思ってしまう。どっちかにしろよと思う。
「ねぇ、コモちゃん」
「……なんだよ」
「もしかして今……さみしいの?」
グサリと、短剣で一突きにされたかのように心が痛む。さみしいという直接的なワードを出されたせいだろう。
「……何、言ってんだよ。お前だって楽しいだろ? 人間の身体を持って、いきなりだけど人間の友達と遊んで、これを充実と言わずして……」
「エニーはコモちゃんの気持ちを訊いてるんだよ?」
「っ……」
知らず知らずのうちに、話題をそらしていた自分にびっくりした。それほどに、エニーがこの世に存在したことで変わった世界にうれしさ半分、戸惑い半分の気持ちがズシリと重さを増しているような気がした。
もし本音を許してくれるなら――自分以外の人間と関わってほしくなかった。でもそれは、見えざる友達だからこそ許されていたことで、この世に存在している今、そんなワガママが通じるはずがない。通じてはいけない。
これからエニーとは、一つ距離を置かないといけない。籠は心の中で言葉を復唱すると、心臓を大根おろしですりおろされているような痛みを感じた。ズキズキズキズキ。身体が叫んでいる。そんなのは嫌だと。
太陽は水平線の先に沈んでしまい、辺り一帯はゾッとするような暗闇が渦巻いていた。今日も今日とて客足はゼロ。ただむなしく、波の音ががらんどうのように響いている。近場に幽霊喫茶店があるというのも、格段に怖さを五割増しにしている気がする。
「もし、エニーが他の人と関わってるのが嫌だったら……やめる! コモちゃんとだけいっぱいいっぱい関わって、他の人なんか……!」
言うんだ。
言うんだ。
言えるとしたら、このときしかない。だから、言うんだ。
ありのままの気持ちを、欲望を、願いを、たった一言、「オレとだけ仲良くしてほしい」と。
今なら親一朗たちとの縁を切ったとしても、傷が浅くて済む。
だから、言わないと。
言わないと。
言わ………………………………………………
「それはダメだ!!」
籠は自分でも驚くくらいの大声が出た。親一朗や空音がなんだとこちらに顔を向けてくる。
「ど、どうして」
「どうしてって、その……もったいないだろ? せっかく人間の身体を手にしたというのに、宝の持ち腐れじゃないか。以前のときのような関係じゃなくて、もっといろんなことに目を向けるべきだ。そう思わないか?」
「それは……そうだけど……」
エニーは内心納得いっていないようだった。籠は言葉をしゃべりながら、まるでそれは自分の言葉ではないような感覚がした。今やっていることは、間違いなく本音から遠ざける行為だと。
にもかかわらずしゃべったということは、本音の本音が顔を出してきて、しかもそれは自分とは正反対の考えを持っていて……ああダメだ。わからん。籠は頭を抱えていると、遠くから親一朗が呼びかけてきた。
「じゃっ、日も沈んだし、俺らはそろそろ帰るから」
「久しぶりにみんなで遊んで、今日はすっごく楽しかったよ! またいつか遊ぼーねー!」
親一朗と空音さんは、踵を返してその場をあとにした。残ったのは波のさざめきと、底冷えするような夜風のみ。籠とエニーは言葉を交わすことなく水平線を見つめている。
その上をぼんやりと月が照らしており、光が海面にまっすぐな斑模様を形成している。一日もたっていないのに、なんだか二人きりになるのは久しぶりな感覚だった。今日だけでも昨日に負けず劣らずの濃さがあった。
「あっ、海に入るの忘れてた」
と先に沈黙を破ったのはエニーだった。
「また来ればいいじゃないか。時間はたっぷりあるんだから」
声が小さくビーチに響く。
「そうだね……」
「…………」
「…………」
このときの籠は、できれば家に帰りたくない気持ちだった。エニーも同じだったらありがたい。今までなら海を眺めるだけなんてくだらないことが、案外悪くないと思い始めている。それもたった一人の特別な存在が隣にいてくれるおかげだ。
エニー……と籠は呼んだ声を、波の後ろに隠した。砂を濡らし、後ろに退いてはまた新しい波が砂を濡らしていく。ただそれだけ、ただそれだけだ。
だが、それが尊いのだ。
「帰るか……」
先に言い出したのは籠だった。さすがに夜風で身体が冷えたという事実には抗えず、そろそろ壁と天井のある家が恋しくなってきた。足の向きを家に定めようとしたその時、
「そうだ! 今こそ約束を果たそう! エニー誠実!」
といきなりエニーは籠の背中を押してきたのだ。いったいどこへ連れて行こうとしているのか。その場所はあっさりと分かった。
「おい、ちょっと待て。いけるはずがないだろ」
視界に徐々に近づいてきたのは、相変わらず今にも崩れそうな屋根と一部がはがれ落ちた壁、割られた窓ガラス。確かニブンノイチの世界ではフレンズという喫茶店を経営している。だが
にもかかわらずエニーは「いいからいいから」と背中を押すのをやめてくれない。ドアの目の前に立ち、ノブに手をかけてみる。
ガチャリとドアはあっさりと開いた。そう簡単に開かないはずではないか……と思いつつ、店内を見渡す。ところどころ抜け落ちた床、ひび割れた窓、クモの巣の張ったテーブルや椅子……なんてよくある廃墟を想像していたが、
「なっ……!」
確実に外から見たら店に明かりはもちろんのこと、中に人……ではなくおもちゃがいる様子なんてなかった。だがテーブルに座っていたのは、昨日の満月とまではいかないが、昨日とほとんど同じ顔ぶれのおもちゃたち。それと……どうして……!
マイケル、モンちゃん、ポチと喫茶店の従業員たちがいる。店内の床には昨日見たのと同じく有名なキャラクターがデザインされている。窓は内側から見ると、ピカピカと明かりを余すことなく反射していることから、丁寧に拭かれていることが分かる。
「どうして、喫茶店に……!」
これだけでも驚きとしては十分お腹いっぱいだ。だが、それだけでは終わらなかった。
「え……」
あまりの驚きのせいか、親一朗と空音さんは舌が黙りこくってしまった。籠とエニーは目の前に映る光景、見覚えのある人に一語だけ出してそれ以降は言葉を失った。
見覚えのある人――それは、自己紹介でメガホンを使うというとんでもなく風変わりなことをやった挙句、籠の膝の上に座ってから怒るという理解不能なことをやった……
「籠、くん……?」
「檻塚……衣里!!」
ガヤガヤと店がにぎわっている中、籠はいつまでも衣里と目を合わせ続けていた――
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