愛しのエニー

@usunoromausu

第1話 特別な友達とニブンノイチの世界

 ――さぁ、今日も今日とて、ごっこ遊びの始まり始まり。

 裏切られることもなければ、軽蔑されることもない。誰も悲しまないし、誰も傷つかない遊戯をしよう。

 冷笑も、 

 偏見も、

 嘲笑も、

 嫌悪も、

 別れることもない。

 離別も、

 絶交も、

 関係に終止符が打たれることも、ない。

 終わることのない、最高のおままごとをしよう。  

 たとえ偽物でも、それを本物と信じる心がある限り、どんなに真っ黒な色も途端に白になる。純粋で、純潔で、純真な、誰が見ても疑いようのない、白。

 今日も今日とて、箱の中の存在を愛でていく。それはかけがえのないもの。これからも、その先も、ずっと、ずっっっと――


    *


「次はあの店行こっ! 早く早くっ! ●●●ダッシュ!」

「ちょ、ちょっと……休憩、させてよぉ……」


 ――それは、泡沫の夢。

 祭囃子の音、人々の雑踏の音、風の音、遠くから運ばれてくる波の音。

 屋台から漏れ出る焼き鳥の匂い、おでんの匂い、チキンステーキの匂い。

 すべてが鮮明に色づいているはずなのに、起きたらそのほとんどを忘れてしまう。

 でも、たった一つだけ、決して忘れないことがある。それは……


「コモちゃーん、こっちこっち!」

「こ、ここって、立ち入り禁止じゃないの……?」

「大丈夫大丈夫! それにさ、●●●はすっごく『いい場所』を見つけたんだよ!」

「いい場所って……って、だからちょっと待ってよぉ!」

 

 ――忙しない後ろ姿を覚えている。幼い自分よりちょっと高い身長を覚えている。握られた手の体温の高さを覚えている。

 唯一わからないのは……大切だったはずの顔だけ。

 

「じゃじゃーん! ここを●●●たちの『拠点』にしようと思うの! いつか訪れる戦いに備えて、互いが互いを高めあうの! すっごくいいと思わない?」 

「こんな場所があったなんて……うん! いい! すっごくいい!!」


 ――そして、二人の少年少女は『約束』をした。何にも代えられない、かけがえのない、純粋で、一途で、それでいて永遠を信じてやまなかった愚かで幼なかった自分……


 青すぎた、かつての自分の記憶。

 

    *

  

 ♪〜泣かしたこともある 冷たくしてもなお よりそう気持ちが あればいいのさ〜♪

 ♪〜俺にしてみりゃ これが最後のlady エリー my love so sweet………♪


 上半身だけ身体を起こす。朝だ。快晴の空から、刃物のように鋭く尖った光が海面を照らし出す。対して朝の海は、まるで眠りから覚めたばかりの子供のように、穏やかで優しい微笑みをたたえている。遠くには、わずかにうねる波が静かに岸へと寄せては返している。

 カモメたちが遠くでさえずりながら、ゆったりとした翼の動きで空を舞う。のんきなものだ。自分はこれから学校という未成年収容施設に行かないといけないのに。風は穏やかで、肌を撫でるときにほんのりと冷たさを感じさせた。

 ――箱崎籠ハコザキコモルは、アラームに設定したいとしのエリーコイツが嫌いだ。

 にもかかわらず、なぜ毎朝起きる際のアラームとして設定しているのかと聞かれると、正直返答に困る。一番理由が分からないのは、他ならぬ自分自身だから。

 ●●●が階段を勢いよく駆け上がっている。だが籠は、それに気づくことはなかった。

 学校に行きたくない。できればさっきの夢にずっと浸っていたい。それほどまでに良かったと、ほぼ毎日思っている。アイツ・・・との夢は。

 だが、行かないわけにもいかない。そろそろ、起き上がらないと……その時だ。

 バタン! といつものように蹴破るような力で扉は開かれる。そこで初めて存在に気づいたが、時すでに遅しってやつだ。疾風のごとく距離を詰めてきたかと思うと。

 

「必殺! マグロきりもみキイイイィィィッッッーーーーク!!!!!!」

「グハァッ!!」


 後ろに垂らした二本のツインテールが、躍動感と疾風を得て舞う。整った大きい黒目に鼻筋。年齢が止まったかのような小さな顔。二チャリとわんぱく坊主のような笑顔が縦にえくぼを生成しており、腹が立つくらいに眩しい。

 名前はエニー。オレにとって、特別な存在だ。

 籠は攻撃された瞬間、「ガァ……アァ……」と絞め殺される直前の鶏のような声を出した。その理由はエニーのきりもみキック(ダイブ攻撃)にある。もう一度言おう。相手の上に思いっきり乗っかって攻撃するダイブ攻撃だ。キックって言ったのに。これだと詐欺じゃないか。


「フッ、またつまらぬものを蹴っちまった……ぜ……」

 籠と同じ中学二年生のはずなのだが、言動や行動は完全に小学生のソレだ。ところが身体、すなわち胸の方はちゃっかり大人を迎えているのだから意味不明。当たった感触からして、甘く見積もってもE以上はあるはずだ。困ったやつだよ。本当に、本当に。

「誰がつまらんものだーッ! 毎朝毎朝性懲りもなく、オレの腹にダイブしてからに……痛てて……」

「フッフッフ、毎日毎日脇が甘いね。そんなんだから肉たらしい軍団の幹部最弱って言われるんだよ? 食らえ! ダイナマイト鉄火巻パーンチ!」

 そういうエニーも、毎日毎日飽きもせず同じマグロレッドの赤い帽子をかぶり、同じSAVE THE WORLDの文字がプリントされた赤いTシャツを着込み、同じデニムのショートパンツをはいている。下の部分はあちこち擦り切れており、使い古されてきたのがよく分かる。

「さ、させるか! 牛タン鉄塊バリアー!」

 

 きっと、エニーの脳内想像はこうだ。パンチには炎やら雷などのエフェクトが追加されており、それを籠が受け止めた瞬間、周辺の大地(想像)が砕け、足元に大穴が空いた……といったところだろうか。考えていることなんてすべてお見通しだ。

 何を言っているのか分からないかもしれないが、安心してほしい。籠もよく分からないのだ。ただ一つ分かっていることは、エニーがどハマりしている特撮番組の真似事をさせられているという事実だけだ。

 タイトルは確か……『寿司ネタ戦隊カイセンジャー』。マグロレッド、サーモンピンク、イカホワイト、玉子イエロー、軍艦ブラックの五人で結成されており、この世にいるすべての寿司ネタを愛する者の味方という設定らしい。

 世界をすべて肉食にしようと企む悪の組織、肉たらしい軍団との熾烈な戦いを描いた番組だ。タイトルに反して視聴率はそれなりに高く、放送が終了した今でもいまだに根強いファンもいるらしい。エニーは、その根強いファンの一人なわけだ。

 ちなみにさっき籠が使ったのは、一番最初に敵幹部として出てくる牛タン大佐が使う無敵の防御技だ。腕をクロスにすることで、防御力を何十倍にも高めている。実にアホらしいが、放送されていた当時の籠はハマっていたのだから、一概にバカにはできない。

 

「おいエニー。毎朝起きてすぐヒーローごっこに付き合わされる人の気持ちって考えたことあるか?」

「え? いいことじゃないの? なんかラジオ体操みたいで健康に良さそうだし」

 またもや二チャリとやんちゃ坊主みたいな笑みを浮かべるエニー。みぞおちにダイブされた際の無様な籠の顔を思い出しているのだろう。

「みぞおちにダイブされるラジオ体操があってたまるか! ったく、何いってんだか……」

「ごめんごめん。でもいつか始まる肉たらしい軍団の戦いに備えないと、困るのは自分だよ? エニー心配」

「へいへい……」

 ベッドから完全に身体を出すと、朝食を食べるためにおもむろに部屋のドアまで歩く。ガチャリとノブをひねり部屋から出ようとすると後ろから、

「あ! まだエニーのオリジナル奥義……」

  

 まだ何かエニーがしゃべっているような気がしたが、籠は無視して食堂へと向かう。テーブルには、母が用意したであろうバターの乗ったトーストに、胡椒のたっぷり降りかかった目玉焼き、そしてレタスとトマトのサラダ。

 しかしそれは……籠の席にはなかった。あくまで母が自分で食べるために用意したにすぎない。自分は少しのご飯と海苔さえあれば朝ご飯としては十分。別に食べなくてもいいと思うのだが、栄養的な観点からそれはやめにした。

 母はおはようとは言わなかった。籠も言わなかった。ここ数年、まともな会話をしていない気がする。それを居心地が悪いとは思わなかった。慣れてしまった以上、特にこちらから口出しすることはなくなってしまった。


「コモちゃーん! 今日のご飯って何〜?」


 ギリギリ ギリギリ……


 籠は歯ぎしりをした。特に意味があるわけではない。これは昔からの癖だ。エニーに声を掛ける時、掛けられるとき、断続的にやってしまう癖だ。

 一時期どうしてそんなことをするようになったのか考えていた時期もあったが、特に生活に害があるわけではないので無視で決着がついた。


「ん、ああご飯な、ご飯。ちょっと待ってろ」


 遅れてエニーが食堂にやってきた。いつものご機嫌な様子で席に座る。テーブルの下で足をブランブランさせながら、籠がいつものように料理を用意してくれるのを待っている。

 籠は冷蔵庫から事前に機能作っておいたチャーハンを取り出す。塩コショウで味を調え、隠し味にマヨネーズを入れた我ながら至高の一品だ。具材は卵とネギでシンプルに、しっとりとした食感が癖になる。


「冷めないうちに食えよ」

「あれ? 今日は『立ってないの』? エニー落胆」 


 ピクリと身体の動きが止まる。そのまま不自然な沈黙が、籠たちの近くを通り過ぎた。

 旗だ。お子様ランチでよく見かける日の丸のアレ。それもカイセンジャーがデザインされた特別な旗が立てられていないと、エニーはご飯を食べたくないと駄々をこねるのだ。

 まぁ、そういうところが可愛らしいのだけれど。


「……わ、悪かったよ。いま、用意するから。母さん、旗取ってくれない?」

 籠は席から移動することがめんどくさいのでお願いをする。母は無言でキッチンに備え付けられた引き出しから旗取り出すと、テーブルに置いた。

「ありがとう、おばさん!」

 

 相変わらずの無言のまま、母は自分が食べ終わった皿を洗っていた。きっと仕事で疲れているのだろう。そっとしてあげるべきだ。籠は自分の定位置に座る。エニーは自分でチャーハンにもらった旗を立てた。突き刺さった様をみてうっとりしている。

 我が家は母子家庭で、父親は離婚して、いない。まだ籠が小学五年生だったこともあってか、その時の出来事をほとんど記憶していないのだ。

 確かトイレで目が覚めた夜中、両親がリビングで何かを言い合っている現場を目撃して……

  

「コモちゃんもちゃんと手合わせて! じゃっ、いただきまーす!」

「いただきます」


 いつもの調子でご飯を食べたあと、顔を洗ったり、教科書を入れたりなどなど諸々の準備をして、いざ|諸悪の根源がっこうへ。エニーは採れたて新鮮! というフレッシュな文句が付きそうな笑顔を浮かべている。 

 眩しくて籠は視線を下に落とす。エニーがいつも好んで履いている外靴として、全体的に赤をベースとした運動シューズ、そこにイラストとしてマグロレッドがデザインされている。

 そしていつもの調子でエニーが「行ってきまーす!」と玄関から呼びかけても、かえってくる言葉は一もなく、夏間近の生暖かい沈黙に息が苦しくなった。別にいい。期待していないから。


「ほらっ、コモちゃんも言わないと!」

「い、いってきます」

 後で言わないことでネチネチと言われるのが嫌なので、うわべだけでも。

「行こっ!」


 エニーはこれから先の希望に身を投じるようにして、元気よく歩いていった。五月であるにもかかわらず、ムシムシとした暑さが身に染み入る。籠も後ろからついていった。ベッタリとシャツが肌に張り付く感覚がして気持ち悪い。

 北海道戸前町。総人口は約二千六百人。風力発電が盛んであり、国道232号から見える北海道最大級の風力発電風車群は雑誌などで取り上げられることも多い。

 右手にある小高い丘の向こう側から、絶えず波の音がこだましている。籠はエニーのツインテールがウサギのようにピョンピョンと歩くごとに跳ねる様を見ながら、幼い頃の自分の記憶を探り始めた。

 エニーとは、物心がつく頃にはすでに隣にいた存在だ。いつも一緒に遊んで、笑って、時には泣いて、けんかして、でも最後は必ず仲直りして、そうした時間を送っていくうちに、自分にとって特別な存在になったのは、言うまでもないだろう。

 鬼ごっこ、かくれんぼ、テレビゲーム、エニーとは色々な遊びをした。

 特にエニーは、かくれんぼが抜群にうまかった。どのくらいうまかったというと、これまで百回近くかくれんぼをして、一度も籠が勝てなかったくらいだ。

 

 ――気持ち悪いやつ。

 ――幽霊と話してんじゃねぇよ。人間と喋れよ。


 籠のクラス内では、必ずと言っていいほどにイジメが起きた。みんながよってたかって、エニーを『いないもの扱い』するのだ。それがすっごく悔しくて、悲しくて、一時期不登校になってしまったほどだ。

 まだ自分が小学校低学年のときで、非力で、弱かった頃。ただ涙を流すことしかできなかった、憎らしい自分の過去。

 そう、あれはいつか砂場で遊んでいた頃。エニーと二人で一生懸命に作ったトンネルが、非情にも悪ガキどもに蹴り飛ばされ、追撃するようにしておしっこがかけられた。

 みんな頭がおかしいと思う。だってエニーはこんなに近くにいるのに、それをいないもの扱いするなんて。もはやいじめを超えて一種の陰謀なのかと思う。

 でもエニーは、そんな邪悪に屈することは決してなかった。それどころか、まだ弱かった頃の籠に向かって笑ったのだ。ニカッと。まるで、もう一つの太陽のように。

 

「ん……?」


 少しの間歩くと、小規模で退屈な町並みが見えてくる。民家がポツポツと、大きなショッピングモールもなければ、カラオケやボーリングなどの娯楽施設もない。この町は海があるという長所を抜いてしまえば、あとは何も残らない。時期に他の街と合併でもしそうなほどの田舎だ。

 外食できる店も少なく、学校に行くまでの道で見かける飲食店はたったの二軒。しょぼくれたうどん屋と、見るからに小汚い食堂だけ。その中でさっきからエニーの目線は、そのしょぼくれたうどん屋へと吸引されていた。

 

「食べたいのか? うどん」

「え……いや、いいのいいの! え、エニー、別に食べたいなんて思ってないからねっ!」

 籠は食べ物に対してツンデレを発動する人を初めて見た気がした。確か自分が食べた料理は鍋焼きうどんだった気がする。熱々の醤油ベースのスープが絶品だった気がする。

「つまり食べたいってことか。そういえばここ数年、うどん屋には行ってないな。久しぶりに……」

 

 突然、籠の頭がキーンと金属音のような耳障りな音が響き、頭を押さえた。脳みそをスプーンでゴリュゴリュえぐられるような、不快で吐き気を催す、鈍い痛み。

 その瞬間に、脳内に映像が流れ込んできた。知らない、身に覚えのない映像。

 顔に鬼を宿したような憤慨の表情を浮かべた中年の男性、女性が、何かを言っている。言葉は聞こえない。

 でも、籠は不思議と内容がわかった。わかってしまった。それにより思い出した。自分は、自分、は…………

 

「そうか……オレって……」

 

 『出禁』に、されてたんだ……


    *


 すべての廊下の窓は、暑さ防止のためか半分ずつ開放されている。そこから流れ込んでくる風は、ひどく生暖い。おかげで中途半端に汗ばんだ箇所に絡みつくようで気に障る。

 ホームルームまでまだ少し余裕があるのか、まだ多少の生徒が廊下で楽しげに談笑していた。だが失礼なことに、籠の姿を一目見た瞬間――皆一様に血の気が引いたかのような表情を見せ、通り過ぎるまでおし黙ってしまった。

 だがそんなことは気にせず、籠は先ほど気づいた事実のことをずっと考えていた。どうして……どうして自分は、店を出禁にされたんだ? どうして言葉の意味が分かったんだ? 食い逃げをしたわけでも、店の物を窃盗したわけでもない。じゃあ、なぜ……? 

 そうこう考えているうちに、自分の教室へ到着した。扉を開けると、まるでドライアイスのような痛くて冷たい視線が、一気に集中した。


「また来やがったよアイツ」

「恥ずかしくないのかな?」

「恥ずかしくねぇから来てんだろ。迷惑なヤツ」


 ギリギリ ギリギリ……


 チクチク言葉はとどまることを知らない。それに対して籠は、最強の必殺技がある。

 軽く深呼吸をしてから、三秒ほど息を止める。その後、眼力だけでギリッと威嚇してやるのだ。瞬間、顔を引き攣らせ視線をむちゃくちゃな方向に飛ばすクラスメイト。

 籠はフンッと鼻を鳴らした。情けない連中だ。人をいじめるなら、イジメるなりの矜持を持ってほしいと思う。悪人にも善人にもなれない中途半端な存在。きっとこれからの人生も同じように、中途半端な幸せに悪酔いしながら、自分を騙していくのだろう。本当の幸せなんて知らずに。カアイソウ。

 籠は持っている。エニーという特別な存在。本当の幸せを。


「さすがコモちゃん! 肉たらしい軍団の幹部なだけはあるね!」

「勝手にオレを特撮の悪役にするな。こちとら善良な一般市民だぞ」

「でもコモちゃんって目つきが先週ちょっとだけ登場した怪人、リブロース中将にそっくりだよ? もしかして前世が悪役だったりして?」

「なんだよ前世が悪役って。言い直したらただの犯罪者じゃねぇか。それにオレは、牛タン大佐じゃなかったのかよ」 

 籠のツッコミが面白かったのか、エニーはお腹を抱えてゲラゲラと笑った。

「…………」

「…………」

 そして、不意に訪れる無言の時間。何をしゃべればいいか分からず、ただ窓の外にいるカモメを眺めていた。

「……コモちゃん」

 睡眠が足りなかったのか、籠は徐々にまぶたが重くなりウトウトしていた。そこにエニーが視線を窓の外に移したまま話しかけてきたので、すっかり目が覚めてしまった。

「ん、なんだよ」

「ありがとう」


 ――ドクンッ と、鼓動がなった。


「……え?」

「いつも話しかけてくれて、ありがとう。エニー感謝」


 ――ドクンッ ドクンッ ドクンッ


 うるさい。鼓膜の近くまで、心臓が移動したようだ。

 急に何を言い出すかと思ったら、小っ恥ずかしい感謝の言葉を言ってきたエニー。それまでずっと視線が窓の外だったのが、自然と引き寄せられる。まず目に入ったのは、ほころんだ口元。わずかに潤んだ瞳。

 いつものヒーローみたいに活気に溢れている声ではなく、日向ぼっこをしているおばあちゃんみたいなゆったりと優しげな声だったので、籠は少々面食らった。


「は? 当たり前なこと言うなよ。それって、息してて偉いって褒めてるのと一緒だぞ」


 ――ドクンッ ドクンッ ドクンッ ドクンッ ドクンッ ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン………………………………………………


 痛むほどに、鼓動は加速していく。

 おかしい。どうして……こんなに……胸が……苦しい、んだ…………?


「なぁなぁ斎藤、『幽霊喫茶店』にはそろそろ入れそうか?」

 不意に鼓動は安定を取り戻した。ハァハァと軽く息継ぎをする。それもクラスでも特に陰気で嫌われ者の想馬と斎藤が、いつものくだらない噂話を始めたおかげだ。

「全然。この前ドアの施錠破れるかと思って針金入れてみたんだけどよ、逆により一層開かなくなっちゃったよ。もうガラスを壊すしかないのかな……」

 意識しなくても聞こえてくるのでいつも気詰まりしてるのだが、悔しいことに今日の内容は、多少自分でも気になっていることだった。


「おいおい、忘れたのか? 今から一週間前、窓ガラスを壊して侵入した奴がその後どうなったのか……」

「ど、どうなったんだよ」

「それは、な……」

 

 想馬は耳打ちで何かを話したあと、斎藤は世にもおぞましい表情をしていた。バカなヤツらだ。ウワサなんて非科学的なもの、信じるだけ時間の無駄。労力の無駄と思わないのだろうか。そのダニのように小さな脳みそを少しでも有効活用したほうがよっぽど建設的だ。

 幽霊喫茶店――戸前夕陽ヶ丘ホワイトビーチというおそらくこの町一番の観光地に行けば、嫌でも目に入る位置に建てられた廃墟。地元じゃ知らない人はいないくらいには有名な、心霊スポットだ。

 確か小耳に挟んだ話では、夜な夜な店内にて子どもの笑い声が聞こえたり、世にも奇妙な叫び声がとどろいているそうだ。おまけに解体作業に取りかかった作業員全員が、謎の体調不良に見舞われたらしい。そのせいで中途半端に崩れた建物だけが残っている。

 かと言って籠は、そのような体験を一切目にしたことがないので、すべて戯言にしか聞こえないのだが。

 

「はーい席に着いてー!」

  

 担任の堀先生が教室に入ってきた。ガヤガヤと騒がしかったクラスメイトが、リモコンのボリュームを下げるようにちょっとずつ静かになり、自分らの席へ戻っていく。まずは出席。伊藤、山本、中本、山田……と名前を呼んでいく先生。

 そして今日も、エニーの名前は呼ばれなかった。

 昨日も、

 一昨日も、

 先週も、

 先月も、

 去年だって、ずっと。いつもそうだ。

 クラスメイト全体、いや、学校全体が、まるでエニーの存在を拒否している。こんな、イカれたことがあるか? こんなことが、許されていいのか?

 否!!!!!!!!!!!!!!!!

 座る席がないので、窓枠に腰を下ろしているエニー。

 籠は少しだけ手を伸ばす。触れることができるエニー。

 話すことができるエニー。

 笑うことができるエニー。こんなに、近くにいるのに……

 エニーだけ見えないなんて都合のいい目を持っているわけじゃあるまいし、嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、ここにいる奴ら、全員……!!


「皆さんにお知らせがあります。今日から……新しく入る転校生を紹介します! いいですよ、入って」

 

 瞬間的に教室中は学級閉鎖が決まったときのような盛り上がりを見せた。女か、女か、と人間から獣になり下がる男子生徒たち。たかが一人増えることのいったい何がそんなにうれしいのか、籠にはよくわからなかった。

 扉が開き、一人の女生徒が教室に入ってくる。メガネをかけ、うつむいていることから陰気な雰囲気を漂わせている。華奢な身体つきで、髪は留めておらず両肩に垂らしていた。


「…………」


 教壇の上に立ち、いざ自己紹介……のはずなのだが、転校生の少女は口をまるで金魚みたいにパクパクさせるだけで、籠たちが聞こえる言葉にはならなかった。「どうしたんだろう?」や「大丈夫なのかな?」などの心配の言葉が、周りからヒソヒソと聞こえてきた。

 手足や身体の震えが、一番後ろの席であるこちらでもわかる。そろそろ先生のフォローがないと危ないじゃないかと思っていたその頃、背負っていたカバンの中をガサゴソと物色しだしたかと思ったら、取り出してきたのは――拡声器だった。

  

檻塚衣里オリヅカエリで゛す゛! よ゛ろ゛し゛く゛お゛願゛い゛し゛ま゛す!!!!!!!!」


 ジーンと鼓膜に直接染み入るような声は教室中に響き渡り、籠を含む教室内にいる全員は思わず耳を塞いだ。なんだ、アイツ……? いくら声が聞こえないからって、こんなこと……

 檻塚衣里と名乗る変質者は、先生に耳打ちで何かを話し始めた。何やら籠の隣の空いてる席を指さしている。まさか……これから、そこに……!

 なんということだ。籠は自分の運命を呪った。なんで真っ当に、誠実に生きているだけなのに、こんな目に遭うのだろう。今朝見た占いで、蟹座が最下位だったからだろうか。

 コツコツと足音を鳴らしながら、これから座るであろう自分の席に向かってくる檻塚衣里。

 しかし……やれやれ、本当に変な奴が来……


「……へっ?」


 マヌケな声が漏れた。檻塚衣里が腰を下ろした場所は――なぜか籠の膝の上だった。予想から外れすぎた行動だったため、頭の思考回路はもやい結びや男結びをされたかのようにグチャグチャに混乱していた。周りの生徒や先生も同じだった。

 どうして膝の上に乗ったんだ? どうしてなんかいい匂いがするんだ? どうして膝の上からでもこんなに柔らか…… 


「まっ、間違えたって言ってるでしょ! 近寄らないで!」


 なっ、なんか怒られた!? 籠はぼうぜんとするばかりで、何もできなかった。

 藪から棒に大声で叫ばれたことで、何も備えも構えもしていなかった耳は鼓膜に著しいダメージを負った。さっきまで小さな声だったのにひどい。前もって大声を出すと事前に知らせてほしかったと思う。


「まったく……よくわからないよな。エ……」

「…………」

 籠は思わず言葉を押し留めてしまった。エニーは、目にスイカが入ってしまうくらいに大きく開き、見たこともない表情をしていた。

「エニー? どうしたんだ?」

 心配になって話そうとしたその時、顔以外の見た目の変化に気づいた。震えている。足が、胴体が、手が、たぶん、心も。見るからに恐怖で震えている。

「あ……、あ……」

「エニー?」

「あ……、あぁ……!」


 エニーは両手で頭を押さえながら、まるで逃げるようにして教室から飛び出してしまった。籠はすぐに状況を理解できなかった。エニーが……どうして……そんな言葉が頭を公転していた。

 教室の扉まで走ったところでようやく、理解が頭に追いついてきた。行かなければ。理由なんてあとから考えればいい。とにかく今はエニーを追いかけて、捕まえないと。


「おい、どうしたんだエニー。エニー!」


 ビクリと周辺のクラスメイトは肩を震わせながら、恐怖におののいた表情を浮かべた。だがそんな周りのことが見えているほど、今の籠は冷静じゃなかった。

 窓側の一番後ろの席から、廊下へ行ける最短ルートは確立されている。教室の後ろについているドアだ。籠は乱暴に席を立ち、一秒でも早くエニーの元へと向かった。だがしかし……

 

「待ちなさい!」


 堀先生の威圧感ある声が聞こえた。中学校に入学して一年とちょっと、籠は聞いたこともないような声に、その場に足を止めざるを得なかった。

 教室はまるで葬式のように静まり返り、籠はエニーが廊下の端に消えていくのを、ただ見守るしかなかった。


「なんで、止めるんです」

 先生にギロリとした視線を合わせることなく、背中で圧をかけるようにしゃべった。

「…………」

「先生、黙ってちゃ何もわからねぇでしょう? クラスメイトのエニーを追いかけることが、どうして止められなきゃならねぇって聞いてんだ。お前……ら……」

 籠は怒りにせかされるようにして後ろを振り返ったが……クラスメイトはもちろん、堀先生でさえも、すべて異星人の言葉を聞いているような顔つきをしていた。

「なんで……そんな、そん、な……目……」


 呼吸が、呼吸が難しい。この空間だけ、酸素が薄くなったみたいに。籠は発言を振り返った。何も……何もおかしいことは言っていないはずだ。だから……だから……やめろ! 見るな! そんな目で、そんな憐れみの目で見ないでくれェ!! 

 正論を言っているはずなのに、何一つとして籠が求めている反応がない。まるで、すべてが嘘みたいで……

 やめろ、

 やめろ、

 やめろ、

 やめて、

 やめて、

 やめてください、

 やめてください、お願いします、やめ、て……


「もう、いい加減にしなさいよ」


 ガタンと席から立ち上がったのは、クラスメイトの委員長の友坂さんだ。顎に大きなホクロがあり、籠の中で勝手にホックロクロスケと名付けて呼んでいる。根暗な雰囲気を漂わせて、周りの温度を三度くらい下げる能力? を持っているような気がする。

 前髪が常に目元を隠しており、劣化版の女米津玄師みたいになっている。まともに素顔を見たことはないはずだ。幽霊のように身体を左右に揺らしながら、籠の方へと近づいてくる。

 

「友坂……さん」

「ねぇ、箱崎くん。クラスを代表して、あなたに言いたいことがあるの。聞いてくれるわよね?」

「…………」


 ――ドクンッ


 不意に世界が揺らいだ。その瞬間、時計の針が刻むペースを落としたのを感じた。高いところから落下している最中に起こりやすい、時間の延長とよく似ている。なんだ? この胸騒ぎは。嵐の前の静けさは。こっから先の言葉は、聞いてはいけない気がする。

 だが、残酷なほど鮮明に、憎らしいほど明瞭に、友坂さんは言った。

 軽く息を吸うと、たった一言、

 

「――エニーって・・・・・

 

 ――世界が、止まった。


「……………………………………………………………………は?」


 ――ドクンッ ドクンッ ドクンッ


「誰って………………そんな、の…………………………」


 ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドク…………………………………………………………!!!!!!!!!!

 

 鼓動が耳から遠のいていった。代わりにズキン――と籠は登校したときと重複するようにして、脳をスプーンでゴリュゴリュとえぐられているかのような激痛がのたうち回る。

 それに加えて、クシャクシャクシャクシャと紙を丸める際に出るような音が、耳の中で大音量で暴れまわっている。とても耳障りで、嫌な音。

 それに混じるようにして、何やら男女二人が言い争っている? ような声が聞こえてきた。


 ――もうたくさんだ! 籠の●●●●●●ごっこに付き合うのは!!

 ――あなたって人は! 自分の息子なんだから、ちゃんと●●持って●●なさいよ!

 ――もとは●●●であることを隠したお前が悪いだろ? ったく●●たあとに言いやがって。人間の●●が。

 ――ハァァァ!? そこまで言う? ●●●であることがそんなに●●なことなの?

 ――●●だからこんなに怒ってんだよ! 蛙の子は蛙。●●●の子は●●●なのが道理だろ。いいか? お前は、●●を産み落としたんだ。

 

 なんだ? なんなんだ今の会話は? どうしてこのタイミングで? 声の正体は――籠の父と母だ。だからこそ信じられなかった。小学五年生の頃の記憶がふたを開けた。けど、こんなの……

 否定の言葉を述べる前に、またしても頭に流れ込んでくる映像。それはかつて、エニーは一緒にうどんを食べたであろう回想。

 猫舌気味のエニー、幸せそうな表情で麺をすするエニー。自分が食べているうどんを物欲しそうな目で見つめるエニー。あげると言うや否やすぐさま食らいついたエニー。

 でも、そこに、エニーの姿はなかった・・・・・・・・・・


「どうし、て……」


 ギリギリ ギリギリ……

 ギリギリ ギリギリ……

 ギリギリ ギリギリ……


 エニーは……エニーは……存在、していなかった?


「違う……違う違う違う違う違う違う違う、チガァァァーウッ!!!!」 


 籠は教室の出口に向かって走り出した。堀先生の引き留める言葉は、これっぽっちも聞こえて来なかった。今は一刻も早く、この場を離れたかった。そうしなかったら最後、エニーがいないなんて幻想に耳を貸してしまいそうだったから。

 どうしてこんなに優しい存在が、寄ってたかっていじめられなければならないのだろうか。

 やはり間違っているのは世界だ。自分の方じゃない。

 いつもなら隣にいたエニー。

 ちょっと話しかけたい気分のときは、必ず飽きるまで付き合ってくれたエニー。

 籠の気分が落ち込んでいるときは必ず励ましてくれたエニー。

 そうだ。そうなんだよ! 自分には思い出がある! エニーと過ごした過去がある! 泣き笑いした特別な時間がある! ここにいる連中なんかとは比べものにならないくらいに幸せ、そうだ! 幸せなんだ! 自分は世界で一番の、幸せ者なんだァ!!


「ハァ、ハァ、ハァ……」


 だから、だから……助けに行かないと!!

 エニーが教室から出ていった様子が想起される。近くにいないと。そばにいてあげないと。抱えている不安や恐怖を取り除かないと。

 きっと一人でさみしがっているだろう。そんな状態のとき、まるでヒーローのごとく登場する。最高じゃないか。まぁ、敵幹部なんだけど。


 ――しかし、籠自身わかっていない。どんなにうわべではいいことを言っても、それらはすべて、友坂さんに言われた発言を忘れるために他ならないことを。

 今まで不確かながら確かに築かれた関係は、軌跡は、たった一人の『転校生』に崩されてしまったのだ。


 何分ほど探していたのだろう。時間の感覚があいまいで、よく分からない。だが籠はいつの間にか屋上の扉の前にいた。まるで瞬間移動してきたような気分。

 吸い付くようにノブをひねると、ブワッと全身を海風が突き抜けた。風の強さで一瞬、目を細める。狭まった視界の先に、ポツンといつもの見慣れたエニーの後ろ姿が見えた。屋上のフェンスを片手でつかんでいる。


「え、エニー……!!」


 小さく名前を呼んでから籠は、目から大量の涙が溢れていることに気がついた。身体が一気に脱力していくのを感じる。安心しすぎて鼓動もひと休みしてしまいそうだ。

 そうだ。そうだよな。誰だよ。エニーが幻なんてホラ吹いた奴は。こんなに……こんなに近くに、い……


「……っ!」


 視界が揺らぐ。まるで蜃気楼みたいに不安定で不透明だ。安心したのはほんの短い間で、数秒間だけエニーが消えてしまったように見えた。その視線は、無限に広がるコバルトブルーの絵の具へと向けられていた。

 素早く目をこする。これで大丈夫だろうと再び目を開けたとき――確かに大丈夫だった。エニーは視界の中にちゃんと映っていた。

 だが、太陽の下で存在している証……つまりは影が、エニーにはついていなかった・・・・・・・・


「来たんだ。コモちゃん」


 風が吹いている。

 木々がざわめている。

 波の音が繰り返している。

 遠くで車が走っている。

 ゆっくりと振り返るエニー。優しい声色。その顔は、さっき生気の抜けた表情で教室から逃げ出した人と同一人物とは思えなかった。


「ああ、もちろん」


 ただの、かくれんぼか……


    *

 

 ――気持ち悪いやつ。

 ――幽霊と話してんじゃねぇよ。人間と喋れよ。


 初めて言われた日から絶えず聞こえる。身体の中に住み着いた、吐き気のするほど醜悪で、涙が出るほど醜陋で、見苦しい虫の羽音。耳をふさいでも、布団に閉じこもっても、息を止めても、決して止むことはなかった。

 やがてときが経つに連れて慣れていったけど、それは決して大丈夫になったからではない。そのように壊れただけなのだ。

 覆水盆に返らずとはよく言ったもので、一度壊れたものは、元に戻ることは二度と、ない。


 ――気持ち悪いやつ。

 うるさい。気持ち悪いのはお前らだろ。か弱い女の子一人をイジメることがそんなに楽しいか? 愉快か? 快感なのか? 同じ時間、同じ空間、同じ空気を共有していると思うと反吐が出る。

 ――幽霊と話してんじゃねぇよ。人間と喋れよ。

 存在ゴミの輩が、幽霊を語んじゃねぇよ。たかが呼吸をしているだけの肉塊の分際で、それで人間になったつもりか? 冗談はお前らを交尾で作った親だけにしろ。

 お前らが幽霊だったらよかったのにな。そしたらまず、ズタズタにその身体を切り裂いて、それから塩漬けにしてやったのに。すぐには成仏させない。一秒一秒、自らの過ちを悔いながら、苦しみながら消滅させてやりたいのに。残念だ。

 

 ――残念なのはあなたよ。


「っ!?!?」


 友坂さんだ。友坂さんが脳内に直接語りかけてきた。相手を心の底から見下している時にしか出さないであろう嘲笑った声色をしている。


 ――エニーって、言ったかしら。あれは幻想なのよ。残念、なことに。あなたは世界で一番の幸せ者だなんて抜かしていたけど……

 フフッ、あなたの中の一番って、ずいぶんと順位が低いわねぇ? ねぇ〜?

 

「やめろ、やめてくれ……」

 

 ――本当に、本当に箱崎くんって……カアイソウ。


「ウワアアアァァァ!!!!!!!」


 叫び声とともに起きる。どうやら悪い夢をみていたらしい。顔や脇からは、冷や汗がダラリとたれた。籠はポケットに入れたスマホから時間を確認する。三時十分。放課後から少し過ぎた時間帯だ。

 しばらく何も考えず、ただ時間をほうけながら見つめる。籠は寝る直前の記憶を思い出した。

 

「エニー? どうしたんだ?」

「…………」


 何も答えない。フッと優しく笑ったその顔は、まるでビデオで一時停止をしたみたいに固まったままだ。

 その顔を維持したまま、籠の脇を通り抜け、屋上のドアへと歩いていったエニー。しばらくその場を動けなかったが、ドアの軋む音が聞こえたと同時に、身体を百八十度回転。そして、なんとか声を絞り出すことができた。

 

「エニーは、生きてる人、だよな?」

 声が明らかに動揺の色を含んでいる。直後になんでこんな質問したんだと、籠は自分で自分に怒りを抱いた。いくらなんでも失礼じゃないか。

「……当たり前じゃん。何言ってんの?」

「…………」


 嘘だ――エニーは嘘をついている。でもおかしい。エニーは生きているのに、どうして自分は嘘をついているなんて直感が働いたんだ? エニーは生きているのに。すぐそこにいるのに。触れられる、のに……

 自然と手が伸びる。当然屋上のフェンス近くと、屋上のドアの距離間じゃ、届くわけがない。それでも、伸ばさずにはいられなかった。

 が、しかし、そんな些細な行為でさえ、エニーは要らないと言わんばかりに一言で振り払ってしまった。


「しばらく、ひとりきりにして」

 聞いたことのないお願いだった。いつもならエニーの方から、悪く言えばベタベタしてくるのに。自分から一人になりたいなんて言葉を発するなんて……。

「え……どうし……」

「お願い」


 くぎを刺すようにトドメの一言を言うと、ドアが古めかしい音を出しながら閉まっていく。止めることは、できなかった。

 バタン! と最後の音が響いたあと、屋上に残ったのは、相変わらずの波と風と木々と車が走り去っていく音。

「待って」「行かないで」「置いてかないで」の言葉は、のどにつかえているうちに食道へと流れていった。

 徐々にか細くなっていく籠の息の音だけが、そこにあった。


「そうだ、エニーを……エニーを探さないと!」


 籠の意識は現在に戻ったと同時に、急にやる気スイッチを押されたように立ち上がる。昼食を食べていないで馬力不足の身体を無理やり奮い立たせ、屋上をあとにした。

 図書室や理科室、学校中の思い当たる節がある場所はすべて探した。だがそこに、エニーの痕跡一つ見つけることはできなかった。憎々しげにねじれた顔が、校内の窓ガラスに反射する。

 時間は淡々と、粛々と、それでいて無情に過ぎていき、あっという間に校内にいてはいけない時間まで経過してしまった。まだ全体を探しきれていない籠だが、どこの誰かも分からない先生に半ば強制的に追い出されてしまった。むろん、エニーを探していると言っても、耳を貸してくれず、だ。


「学校もダメ……先生に聞いても門前払い……クソッ!! 優しさとか、ないのかよ……! 人の形をした、吐瀉物が……!!」


 籠は怒りのままに、昇降口付近にあるコンクリートの柱を足で蹴り上げる。痛い。自分はなんて無駄なことをしているんだろう。

 それもこれも全部、エニーを探すのに協力してくれない先生が悪い、悪いんだ。善良な生徒の頼み一つ聞けない先生なんて、ただの給料泥棒じゃないか。


「一人にさせちゃいけない。いけない、のに……」


 どこか……どこかないだろうか。エニーが行くであろう場所が。さすがの籠でも、これから街全体を探すのは骨が折れる。でも場所を限定できるなら、あるいは……!

 例えば、エニーの好きな場所とか……


「好きな……好きな、場所……ハッ!!」


 籠の意識は、再び過去へと移行した。まず最初に見えたのは、息を呑むほどに美しい夜の星空。街を一望できる景色。そしてそれをみあげる男女。後ろ姿でわかった。籠とエニーだ。

 籠は夢で見かける自分より身長が高くなっており、肩幅も少し大きくなっている。エニーはあまり現在と変わらない。夜空は深い紺色に染まり、無数の星々がきらきらと輝いていた。遠くには静かに波打つ海が広がり、海風が二人の髪を撫で、潮の香りを運んでくる。

 エニーは腰に手を当て、星空を見上げている。長い黒髪が風になびき、目は遠い宇宙に吸い寄せられるようだ。籠はとなりに座り、海の底まで見通せるかのように静かに海面を見つめている。

 ここへ来るときは、決まってどうしょうもなく泣きたくなったときだ。


「泣かないでよ、コモちゃん。エニーは大丈夫だから」

「でも……でもぉ……グスッ、ウゥ……」

「平気だよ。だってコモちゃんがそばにいてくれるんだもん。それ以上欲しがると、エニーワガママになっちゃう」

「エニー……」

 わざとらしいくらいに口角を吊り上げて笑っている。すぐに分かった。エニーなりに悲しみをこらえているのだと。それが痛々しくて、直視できなかった。

「ねぇ」

「……ん?」

「エニーは……エニーはずっと、ずっとコモちゃんの味方だから。ずっと一緒だから。絶対に……」

 離れないから――と、それから先の言葉は、言わなくてもわかっていた。だから、その前に籠はエニーの肩をがっしりとつかんで宣言していた。

「お、オレも! 世界中の人間が無視しても、そ、その……エニーのこと、めっちゃ見る! 見まくるから! 味方だから!!」

 籠の意識が現在に戻る。最後の言葉を、高級な食材のようにじっくりとかみしめていた。

「味方……ああそうだ。オレは……エニーの味方なんだ。だから……」

 行くべき場所は決まっていた。この狭い街で、高いところかつ街を一望できる場所は限られる。加えて忘れかけていたエニーとの約束の地となると、目的地は一つ。

「戸前埼、灯台……!!」


 その言葉がスターターピストルの音のように、籠は脱力感で立ち止まっていた身体をもう一度奮起させる大きなきっかけになった――


    *

 

「ハァ、ハァ…………ハァ」


 中学校から約二キロも離れた場所のため、走って移動するのは文字通り骨が折れる勢いだった。だがそれに見合う成果はあったようだ。無意識に展望台へと目線を上げる。ここへ来るときは決まった行動をとってしまう。

 するとその瞬間、幼き日の残像がチラリと網膜に焼きついてくるのだ。パブロフの犬みたいに頭で考えるより、反射で動いてしまうのと同じかもしれない。

 周辺には季節ごとに移り変わる花畑が設けられており、観光名所の一つとしても知られている。今の時期に咲いているのは、菜の花やチューリップ。それが緩やかな上り坂に咲き乱れている。まるでとんでもなく大きな花柄のカーペットのようだ。


「…………」

 

 走り続けてきた足に最後のムチを打って、上り坂をゆっくり歩いていく。やがて到着すると、普段は元気の塊みたいなエニーが、魂を抜かれたみたいなほうけた様子で体育座りしている様がありありと見えた。見つけたことはいいが、なんだか近づくのは憚られた。

 普段生活している場所でも常時風が強いのだが、ここは街を一望できる高所なだけあって、とりわけ全身に当たる風が台風レベルだった。身体の重心をきちんと確認しておかないと、すぐにでも吹き飛ばされそうだった。


「今日も風が強いな、エニー」

「…………」


 籠も同じく、エニーの隣りで体育座りをする。はるか視線の先、無限とも思える青々とした空のような海が、太陽に照りつけられて光っていた。風に乗せられたのか、波の音やカモメの鳴き声、誰かの人の声などが丁度いい塩梅で混ぜられ、心地よく耳に届けられた。

 エニーは顔色一つ変えていない。まるでそのまま固定されたようだ。そしてその影響は……着ているはずの衣服も受けていた。つまり、

 そういえば今日の登校時も、屋上で見つけたときも、エニーは一度も風に髪や衣服を乱された場面をみたことがない。この街は潮の影響で髪の毛がパサついたりゴワゴワしたりすることは日常茶飯事なのに、常にサラサラとなびいていた。

 どうして、今更気がついたのだろう……


「ここって、夕焼け空もきれいだったんだな。夜の星空ばっか見てたから、気づかなかった。覚えてるか? オレたちが交わした約束……」

「…………」

「エニー……?」

 籠が何気なくエニーに触れようとしたその時、意識の外で手の動きが止まった。どうして? と考えるより先に、脳内に一つの命令が下る。その内容がより一層自分の頭を混乱させた。

 ――エニーに触れてはいけない。

 もちろん、たかが自分が自分で出した命令なら、それを破ることなんざ容易いだろう。ダイエットをしている人が、絶対にやせると言いながら夜食を作り始めるように、破ってしまえばいい。だが、そんな簡単なことが今の籠にはできなかった。

 手を伸ばした状態のまま硬直していると、エニーはまるで電気ショックを受けたように肩を震わせて、こちらの方向に顔を向けた。驚きの表情をしている。

「ワッ! ここ、コモちゃんいたの!? いつから?」

「いつからって……一分ぐらい前からいたぞ。どうしたエニー。今日なんだか変だぞ?」

「い、いいいやべべつに! ごらんの通り、これからマグロレッドとして、町のパトロールに行こうと思った所存であります!」

 動揺しすぎて口調がおかしくなったエニー。

「町をパトロールするなんて事実、初めて聞いたんだが……」


 言葉を発したその頃、不都合な情報は、脳内から消え去っていた・・・・・・・・・・・。ちょっとしたバグだ。すぐに治る。エニーの顔が籠の方を向いた瞬間、ほうけた表情から一転してパッと明るく華やいだのを感じた。

 ここは、約束の場所であると同時に、ヒーローごっこを初めてやり始めた発祥の地でもある。エニーの何気ない一言、「ここってなんか、軍艦ブラックとレバー一味が戦った場所みたい」なんて言っていた気がする。それから昔は放課後から日が暮れるまで、一緒に遊んだものだ。

 今となっては笑い話のエピソードの一つとして、普通は立ち入り禁止の灯台なのだが、「戦いの絵面が足りない」とエニーの誘いで灯台に登ったことがある。それを管理員であろう大人に発見され、こっぴどく叱られたなぁ……と籠はノスタルジーに浸った。

 それを考えて一瞬気が緩みかけたが、そういうわけにはいかない。確かにエニーは一人きりにさせてほしいと言ったが、それにも限度がある。何度も話題に出すようで悪いが、約束のセリフが頭の中にこだまする。


 ――大丈夫だよ。エニーはずっとコモちゃんの味方だから。ずっと一緒だから。絶対に……


 時刻は午後の六時を過ぎている。眠っていた時間を除いて、籠から離れた時間は約三時間以上にもなる。これは死活問題だ。何か一言わびの言葉があるかと思ったが……

「そうだコモちゃん! ここって覚えてる? よく一緒にヒーローごっこして遊んだよねー! いやー懐かしいなー!」

 エニーはボタン一つで人格が変わったように、急にいつもの調子に戻った。興奮しているのか、鼻息を荒くしながら灯台を指さしている。

「あ、ああ……」

「いつの日か忘れちゃったけど、灯台に登ろうとして管理員の人に叱られたこともあった……って、そうじゃなくて!」

 大声を出し、頭を振るエニー。まるでこれから重大な話をしたいのに、なかなか踏ん切りがつかないで迷っているように見えた。

「あ、あの、コモちゃん!」


 突然、鼻先が当たるまで顔を近づけてきたエニー。本当に一つ一つの動きが躍動感がある。太陽のようなエネルギーの塊。

 でも、どうしてだろう。このときのエニーからは、とってつけたような不自然さを感じた。屋上で一瞬だけエニーの姿が見えなくなったことを思い出す。その記憶を奥へと押しやるように、次に出す言葉の口調は最大限に優しくした。

 

「な、んでしょう」

 無理にそうしたせいで、元から怒っていた籠の心に黒い雪が降り積もっていく。それが怒りの根本だということは、まだ分からなかった。まだ無意識に自分自身でブレーキをかけていたのだと思う。

「コモちゃんにその……えっと、見せたいものが、あって」

 だが、次のエニーの行動であっけなく、そのブレーキはへし折れることになってしまう。

「見せたいもの?」


 ギリギリ ギリギリ……


 言葉を途切れさせたエニーは、それから十メートルほど灯台のある後ろの方に下がったと思ったら、不可解にもアキレス腱を伸ばし始めたり、屈伸をしたりと準備運動を始めた。

「なんだよ、もったいぶるなよ」


 ギリギリ ギリギリ……


 イライラが内側から外気に溢れ始めたため、自然と語気が強まる形になる。エニーは聞こえていないのか、ほかにもいろいろな準備運動をやったあと、ようやくおとなしくなる。

 エニーは両手を左右に広げ、深呼吸をした後、二つの瞳でまっすぐ進行方向を見据える。そして助走をつけるように、全速力で大地を駆けたのだ。花畑がある下り坂に差し掛かると、片足で地面に蹴り上げ、空に羽ばたくようにして、飛んだ。

 ちなみに、飛んだというのはジャンプしたという意味ではない。まるで鳥のように、飛行機のように、左右に両腕を広げ、重力の影響を受けることなく身体を空中に浮かせていたのだ。


「な……!!」

「実はエニー、ずっと前から……空が飛べるのー!!」

  

 その後のエニーの声は風に混じってほどんど聞き取れなかった。でも何を言っているのかはさすがに長い付き合いだから分かる。大方空を飛んでいることを自慢しているのだろう。

 相変わらず彼女の髪は、制服は、風になびくことはなかった。ピタリと身体に張り付いているような感じ。

 自分は空を飛んだことがないのでわからないのだが、たぶんそういうものなんだろう。籠はそれで納得した。

 いや、納得するように己を洗脳した。完全な無意識だった。今までもそうして生きてきた。

 急旋回や急降下を繰り返し、まるでどこぞの戦争映画に出てくる戦闘機のような身のこなしだった。

 エニーは終始笑顔で、遠目からでも心底楽しんでいるのだろうなと伝わった。ここまで大げさに飛んでいるのに、たまたま来ていた観光客の人たちは、一ミリも見向きしなかった。

 エニーは高速移動している途中に急に動きを止める。そして籠から見て正面の水平線がある場所まで、一直線に飛ばした。たちまち肉眼で捉えられないほどに遠くに行ってしまった。心に不安と恐怖が立ち込める。だが十秒もたたずして、ちゃんと籠の近くまで急降下した後、着地した。

 それは、唯一無二の自由を手に入れたようだった。


「どうして……」


 その言葉は、エニーに対しての驚きと裏切られた気持ちから発せられたものだった。あの時の約束が耳元でこだまする。弾ける。反響する。この時点で、籠は正常な思考ができなくなっていた。

 たった今見た光景を嘘だと言いたいが、着地した瞬間に顔に当たった強めの風の渦が頬を撫でてきたとき、それがどうしょうもない現実だと突きつけられた。

 堪忍袋の尾は、もうズタズタだった。


「……るな」


 ギリギリ ギリギリ……

 ギリギリ ギリギリ……

 ギリギリ ギリギリ……


「え? コモちゃん今なんて……」

 

 黒い雪は、心を守る屋根に集中するように降り積もり、やがてメキメキと音を立てて崩壊する様が脳内で再生された。

 許せない。籠の意図しないところで勝手にエニーは自由を手に入れていた。そう、勝手に。

 今まではエニーの行動は、そのほとんどを予想できていた。話を聞いてほしいときに話を聞いてくれる。怒ってほしいときに怒ってくれる。慰めてほしいときに慰めてくれる。自分が超能力者にでもなった気分だった。だがしかし、たった今見た光景は、予想の範疇を超えていた。

 許せない。許せない。許せない。

 あの約束は違えてしまったのだろうか。ずっと一緒にいるという言葉が、目の前でかすんでいくのを感じた。たとえ今すぐエニーから弁解されても、それを信じる心のスペースを、少なくとも今は持ち合わせていなかった。

 エニーのことがものすごく悲しくて、ものすごく、憎らしかった。


「ふざけるんじゃねぇよ!!!!」 

「っ!?」

 籠自身もびっくりするくらいの声量が出た。外気を真っ二つに切り裂いたような感覚がしたのは、自分の考えすぎだろうか。

「オレがどれほど心配したと思ってる!!」 

 実際に偽りない本心だ。だが籠はその内方に、エニーが自由を手に入れたことによる憎しみを隠した。心配したことによる怒りを表面上に出して。

「あ、それはごめ……」

「ごめんで済ませられるか! 約束はどうした約束は!?」

「や、約束……?」


 自信なさげな小声で、エニーが少しだけ当惑した顔になる。それが籠の心に隕石サイズの氷塊が激突したよな気がした。もう自分でも、自分を止めることはできなかった。

 たとえ言ってはならい言葉に対しても、何一つ躊躇がなかった。


「エニー、お前はな……オレの言う通りに動いときゃいいんだよ! 操り人形みたいになァ!!」

「……! コモ、ちゃん……」


 言葉を発した直後、まるで何も見えない暗闇で拳銃を後頭部に突きつけられたみたいな恐怖が抱きしめてくる。先ほどの言葉を頭で反芻する。だんだんと血の気が失せていくのが手に取るように分かった。

 失言だ。明らかに失言だ。やってしまった。

 目の前のエニーの顔を見る。あんぐりと口を開けている。目元からは次々と大粒の涙が、夕暮れの太陽に照らされて朝露のように光り輝いていた。


「ご……め…………」

 

 この場合は籠から謝るというのが筋だろう。それは頭で分かっている。だがそれを喉と舌が拒否していた。男としてのプライドか? 単純に自分の非を認めたくないのか? どっちにしろろくなもんじゃない。

 早く、早く謝らないと――


「っ!?」

 

 いきなり視界が暗くなった。まぶしいはずの夕暮れが唐突に夜を迎えたみたいだった。籠のすぐ横にエニーの頭がある。ここで自分が抱きしめられていることがわかった。

 背中に回されたはずの両腕の感触はなかった。温度もなかった。何もなかった。何も感じなかった。

 そうかそうか。人に抱きしめられるって、こんな感じなんだ。


「ごめん、なさい……!!」

 そのたった一言のために、エニーの全出力を決して放たれたようだった。

「え、エニー、いきなり、逃げ出したせいで、コモちゃんに迷惑かけちゃったから……だから、グスッ……楽しませ、たくて、ウゥ……コモちゃんに空飛んでる姿見せて、少しでも……楽しませたくてぇ……!」

 

 嗚咽混じりに自分の気持ちを吐露するエニー。今、分かった。『楽しませたい』という純粋な気持ちを、籠はゴミのように踏みにじったのだ。その感覚が、罪悪感が、足のつま先から頭のてっぺんに至るまで隙間なく襲ってきた。

 関係が深ければ深いほど、相手のことなら何でも分かっている気になってしまう。

 だから今日のエニーみたいに知らないことがあると、怒鳴ったり、自分が自分でいられなくなったりしてしまった。情けない。ずっと一緒って言ったのは、籠も同じなのに。


「ごめん、エニー……謝るのはオレのほうだ。もっと、ちゃんと、お前のことを考えればよかった……」

 

 籠はエニーを抱きしめ返し、涙を指で拭った。そしてテカテカしたそれを口に含む。なぜそうしたか分からなかった。確かめたかったかもしれない。何をとは口が裂けても言えないけれど。

 味がしなかった。

 そうかそうか。涙って味がしないものなの……


「――さすがに苦しくないかい? その言い訳」

「っ!?」

 なんの前触れもなかった。突然耳に入る声が百八十度変わってしまい、籠はエニーを突き飛ばしつつ飛び退いた。突発的にやってしまった行動に、即座に反省して謝ろうとしたが……

「だ、だれ、だ……?」


 思考が停止した。パッ見は幻覚かと思った。スラッとモデルのように細身で、黒いシルクハットを目元が隠れるほど深々と被っている少女が、目の前にいたのだがら。

 唯一見える薄桃色の口元はニヒルな笑みを浮かべていて、美しくもどこか不気味でつかみどころがない印象を受けた。

 服装は真っ白なトレンチコートに、白黒のチェック柄のネクタイ、そして同じ配色のミニスカートを履いている。

 いやいや、見た目の話なんかしている場合じゃない。それよりもずっと確かめなければならないことがあるだろう。

 

「エニーは……エニーはどこだァ!!」


 ギリギリ ギリギリ……


「あなたが向き合わなかった問題は、いずれ運命として出会うことになる」

 運命、というスケールのでかい言葉に、籠は一瞬気圧されそうになるが、歯を食いしばりこらえる。

「何を、言っている……?」

 自分は全く動じてないぞと示すために、声質は冷静に、それでも目つきは鷹のように鋭くにらめつけた。

「精神科医であり、心理学者でもあるでもあるユングって人の言葉だヨ。いい言葉だと思わないかい? 要するに問題を先送りにしたら最後、逃れられない運命として目の前に立ちふさがってくるから気をつけよ。って意味だヨ。一つ、勉強になったね」

「質問に答えろ! エニーはどこだと言っている!」

 エニーと交わした約束が、地獄の炎のように真っ赤に燃えていた。それが籠を動かす無尽蔵のエネルギーと化していた。普段は出すことのできない大声も、今ならお手の物だった。

「まぁまぁ落ち着きなヨ。怒りすぎは身体に良くないっていうしさぁ」

 謎の少女は、喋っている最中もずっとヘラヘラと薄気味悪い笑みを浮かべ続けていて気味が悪かった。

「おっと、自己紹介が遅れたね。僕はリーロン。しがない旅人だヨ。顔は見せられないけど、一応はかわいいお姉さんで通ってるから。よろしくね」


 と自称かわいいお姉さんが自分に握手を求めてきた。言うまでもなく籠は、警戒心から手を握ることはなかった。いつ攻撃されても反撃できるように、手で握りこぶしを作ってファイティングポーズをとる。

 十秒ほど膠着状態が続いた頃、やがてリーロンと名乗る少女は自分に対して心を開いていないことに気がついたのか、唇がわずかにへの字に曲がる。


「用心深いなぁ〜」


 とリーロンはため息混じりに言葉を吐いたあと、疑いの気持ちを晴らそうとしたのか、クルッと籠に背中を向けるとシルクハットを取る。どうやら顔を見られたくないらしい。それから奇妙にも、ゴソゴソとまるで何かを探すような仕草をした。

 それから十秒も経たずして、「あった!」と元気なリーロンの声が聞こえたと思ったら、再びシルクハットをかぶって自分の方へ向き直った。そしてグイッと目の前に差し出されたのは……コーヒーカップだった。

 

「それは……」

 マットな黒の表面は、まるで漆のような滑らかさを感じた。カップの縁は金色の細いラインで飾られ、引き締まった印象を与え、まるで高貴な貴族の装飾品のように見えた。

「別に一杯お茶しようってわけじゃない。これはね、|ニブンノイチの世界・・・・・・・・・に行くためのゲートを作れる道具だヨ」

「ニブンノイチの世界?」


 間髪入れずして、リーロンはその世界へ行くための簡単な手順を教えてくれた。

 一 月が視認できることを確認する。 雲などで隠れている場合はダメ。

 二 かつての黒電話みたいに、カップの縁をそれに見立てて今の時間帯に指でなぞる。必ず小さい針からなぞるように。これだけ。現実の世界に帰るときも同じ行動をとればいいという。

 フィクションとしてはうまくできているかもしれない。だがもしそれを本気で言っているとしたら、えらくマヌケなヤツだ。そもそも、そんな特撮じみた話、信じられる根拠がない。たいていの人間は、頭のおかしい人だと一蹴するだろう。

 それに追い打ちをかけるように、リーロンはニブンノイチの世界がどのような場所か説明してくれた。内容はあまりにもちんぷんかんで、突拍子もなかったのだが。


「人ならざる者が訪れ、居住する場所。とは言っても、幽霊や怪物がいるわけじゃない。それよりもずっとずっとはかなく、もろい存在。君には心当たりがあるはずだヨ?」

「心当たり? 何を根拠にそんなの……あるわけないだろ……」


 籠自身、最後のほうの言葉が頼りなく消えていく感じだったのを気づいていた。だがそれをあえて無視した。認めたくなかったのだ。突如として表れた見ず知らずの少女に、すべてを見透かされたような発言をされるというのは、気分のいいものではないだろう。

 その様子をみたリーロンは、あからさまなため息をついた。そして目線はあさっての方向をみるようにして、頼んでもないのにポツポツと語りはじめた。


「箱崎籠、十三歳。七月二十八日生まれで、しし座のO型。好きな食べ物はハンバーグで、嫌いな食べ物は酢の物全般」

「な、なんで知って……」

「これくらい常識だヨ? 織田信長が本能寺の変で死んだことぐらい常識だ」

「お前の常識の加減がわからん。それにオレの個人情報にそれほどの価値はない」

「まぁまぁそんな謙遜せずに」

「謙遜じゃねぇよ怯えてんだ」

「これと言った特技はなく、人に自慢できるような資格を持ち合わせているわけでもない。最近の悩みは、ヒーローごっこで動くことができる体力が落ちてきたこと。

 でもそれは、あくまで表面上の話でしかない。本当の悩みは……」

「……おい待て。それ以上しゃべるな」

 悪寒が後ろから抱擁してきたかのような戦慄が走り、籠はそれ以上の言葉を引き止めようとする。だが一歩遅かった。

「本当の悩みは、エニーという|人間が存在するなんて・・・・・・・・・・・をつき続けることがキツくなっているこ……」

「エニーは存在してる。してるんだよ!!」

 ビュウゥゥッ と、下から上へ昇るような強い風が吹き付ける。籠はエニーを怒鳴りつけたときと似通った声量で黙らせようと思ったが、リーロンはビタ一文も怯んでなかった。

「どうしたんだい? そんなに力んで。僕はただ、真実を教えているだけなのに。エニーが――|見えざる友達イマジナリーフレンドってことをね」

「…………イマジナリー、フレンド……?」

「一回くらいは聞いたことあるでしょ? イマジナリー(空想上の、仮想の、)友達。要はひとりぼっちの淋しい人間が、憐れにもすがりつく対象であり虚像。ノミみたいに寄生して、見せかけの愛という名の養分をチュウチュウ吸うために作り上げるどうしようもない行為だヨ」

「ふざけるなァ! そんなんじゃねえ!」

「あれあれ? なんで関係ないはずの君が怒ってるんだい?」


 リーロンに指摘されて初めて、籠は何をしているのか分からなくなった。怒る理由なんてないはずだ。自分にはエニーという大切な友達がいるはずなのだから。だまされてはいけない。惑わされてはいけない。自信を持て。

 決して、空想イマジナリーな存在なわけが、わけが、わけ、が……


「あっそうだ。すっごく手っ取り早い方法、思いついたヨ」

 リーロンはポンと手のひらを横の拳でたたくと、ニヤリとした笑みを崩さずして、一歩、また一歩と籠のほうへと近づいてきた。

「な、なんだ……」


 直感的に恐怖を感じ、片足を後ろに引く。その瞬間、時期を見計らうようにしてリーロンが一気に距離を詰めてきた。シルクハットが眼前いっぱいに広がる。

 逃げないと! と頭で警鐘を鳴らしても、身体はまだ信号を受け取ることができなかったのか、微動だにしなかった。ようやく重い腰を上げたその時には、がっしりと両肩の後ろにリーロンの両腕が回されていた。

 何をするかと思ったら――間もなくして、おでこにフニッと柔らかい感触がした。リーロンの顔が自分より少し上にある。籠は状況から整理するに、おでこにキスされていると理解した。

 ドキドキよりも断然、困惑と恐怖の方が勝った。なにゆえこのようなことをしたのだろう。これがファーストキスになってしまうのか……なんてふざけたことを思っていると、


 ズキン――


「グッ……ガア゛ア゛アアァァァァア゛ア゛ァァァア゛――――ッッッ!!!!!!」


 痛い。死にそうなほどに痛い。今朝のときとは比にならないくらいだ。

 のんきなことを考えていたら、突然割り込むようにして頭に激痛が走った。それに並行して、強いデジャヴを感じた。エニーが衣里を見て逃げたときだ。

 まだぞろ、紙をクシャクシャと丸める際に出る音が頭の中で大音量で駆け巡る。しかも一回目の時よりでかい。鼓動が危なげに加速し、表情が醜く歪む。

 その次に起こる出来事は予測できていた。

 母親と父親の会話だ。

 ノイズは聞こえなかった。

 今度はハッキリ聞こえた。

 一言一句聞き逃さなかった。

 映像含めてすべてが雪崩のように流れ込んできた。

 だから、激しく後悔した。


 ――もうたくさんだ! 籠の|見えざる友達イマジナリーフレンドごっこに付き合うのは!!

 ――あなたって人は! 自分の息子なんだから、ちゃんと責任持って育てなさいよ!

 ――もとは障害者であることを隠したお前が悪いだろ? ったくデキたあとに言いやがって。人間のクズが。

 ――ハァァァ!? そこまで言う? 障害者であることがそんなにダメなことなの?

 ――ダメだからこんなに怒ってんだよ! 蛙の子は蛙。障害者の子は障害者なのが道理だろ。いいか? お前は、悪魔を産み落としたんだ。

 

「どうし、て……」


 なんだ? なんなんだ今の会話は? |見えざる友達イマジナリーフレンド? 障害者? 悪魔を産み落とした? 再三にわたって小学五年生の頃の記憶がふたを開ける。

 父の鬼気迫った表情。母の泣きそうな目。ブルブルと震える拳。声。身体。あのあと自分は、現実から目をそらすために忘れることしかできなかった。布団を頭まで覆いながら、必死に、無我夢中に、記憶を消し去った。

 思い返せば、結構仲の良かった夫婦だった気がする。最低でも二カ月に一回は必ず、家族で旅行に行ったりしたし、二人きりで行く日もあったくらいだ。

 だが、それはもう過去の出来事だ。父は離婚してしまい、それ以降母とはほとんど口を聞かなくなった。一緒に暮らしているはずなのに、まるで他人同士のような距離感が出来上がった。もしかして、さっきの言い合いは抜け落ちた記憶ではないだろうか。けど、こんなの……

 

「嘘だ……!! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘……」

  

 ――必殺! マグロきりもみキイイイィィィッッッーーーーク!!!!!!

 ――グハァッ!!


「っ!?」

 

 ――くらえ! ダイナマイト鉄火巻パーンチ!

 ――さ、させるか! 牛タン鉄塊バリアー!


「……は? え……?」


 蘇るルーティンと化した朝の記憶。何でもない朝の記憶。平凡な日常の朝の記憶。でも、なぜか、どうしてか、そこに――エニーの姿なんて

 毎朝寝起きに攻撃を仕掛けてくるエニー。

 カイセンジャーが大好きなエニー。

 朝ごはんを食べるエニー。

 旗を立てることがルーティンなエニー。

 カイセンジャーのテーマ曲をハミングしながら登校するエニー。

 過去に行った食堂やうどん屋の思い出も。

 触れた感触も、食らった痛みも、交わした約束も、全部、マボロシ。

 全部、ゲンソウ。

 全部、クウソウ。

 全部、キョコウ。

 全部、全部、全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部

 全部全部全部全部全部全部全部全部全部

 全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部

 全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部

全部全部全部全部全部全部

 全部全部全部全部全部全部

 全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部

 全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部…………………………………………………………………………


 たった一つの、かけがえのないものが入っていると思っていたその箱は――空白だった。

 

「……………………………………エ、ニー、ハ、存在す、ルんダ。存在、スる。存、在、すル。存在スル。存在する。存在ス…………」

 身体中の力が抜け、籠はがっくりと膝から崩れ落ちる。うわ言のようにつぶやいていると、リーロンがゆっくりと、なんだからしくない優しげな手つきで肩に手を置いてきた。

「もう、楽になりなヨ」


 その一言が、籠からしたら致命傷だった。

 ドクドクと、血のかわりに涙がとめどなくあふれてくる。止まらない。止まらない。サメザメと泣きつつ、やがてそれは嗚咽へ、慟哭へと変わっていく。心がグチャグチャに、まるで噛み砕かれたスナック菓子のようにめちゃくちゃにされていく。

 悔しかった。悲しかった。苦しかった。

 胸の内からムカデのように這ってにじみ出るこの痛みの正体を、知りたくなかった。

 蘇っていく籠とエニーとの思い出。正確には、二人と思い込んでいる精神異常者の籠の思い出。

 登校した際に見たうどん屋や食堂に行った際、必ずと言っていいほど、店員や店長から白い目で見られた。なぜならその時の籠は、誰もいない空間に向けて一人でしゃべり続けていたのだから。

 ご飯もエニーが食べるからと二人前の料理を注文した。店員に何度かやんわりと注意されたが、全くと言っていいほど耳を傾けなかった。出禁になったのには、それ相応の理由があるわけだ。

 毎年神社で開催されている花火大会も、エニーと一緒に見ていた心持ちだった。道の駅にて、やれあの花火がでかいだ、やれあの形が面白いだなどと、まるで恋人を引き連れたリア充だった。

 馬鹿みたいだ。

 

「……………………………………………………気づき……気づ……気づきた、く、なかった、のに……」


 エニーが予想通りに動いた? 当然の結果じゃないか。だって、頭の中で、ラジコンみたいに操作していたのだから。右にスティックを倒せば右、左にスティックを倒せば左、慰めてほしいときは慰め、褒めてほしいときは褒めてもらう。

 なんて、都合のいい機械。空想。幻想。ごっこ遊びに酔っていただけの、醜く浅ましい人間。


「……孤独は何も、友達や恋人がいないときにだけ感じる感情じゃないヨ。君の場合は誰からも愛されないことが孤独と感じず、愛すべき人がいないことに・・・・・・・・・・・孤独を感じたってところかな。だから作った。エニーという空想の存在を。

 先ほどの|見えざる友達イマジナリーフレンドを侮辱した発言の件……撤回させてくれ。あれは君の本心を聞きたくて、つい意地悪をしてしまったんだヨ。申し訳ない。

 君はまだ若い。もし四十代や五十代で今の状態を引きずってる自分を想像してみるといい。目も当てられないヨ」

 

 エニーのいない未来なことなんて考えたくなかった。ただ一緒に過ごすだけでよかったし、心の平穏のためには必要不可欠な存在だった。だがしかし、それがまやかしと気づいてしまったことで、急に足元がおぼつかなくなった。

 エニーは自身が|見えざる友達イマジナリーフレンドだと自覚しているのだろうか。いやそもそも、エニーが自覚なんてそんな人間みたいな考えは持たないだろう。それは自分の意思なのだから。

 エニーの意思は自分の意思。自分の意思はエニーの意思だ。二つあるわけではない。最初からずっっっと一つだ。一つしかないんだ。

 

「おそらく今の君は、絶望の淵に立たされているだろう。だが安心してほしい。そこで、さっきのコーヒーカップにつながるわけだヨ!」

 デデーン! と安っぽいSEが入りそうな感じを出して、改めてニブンノイチの世界? に行けるというコーヒーカップを見せつけたリーロン。

「どういう、ことだ?」

「今日までエニーという人物が存在できたのは、君の病的なまでの思い込みがあったおかげだ。言うなれば、君は今まで自分の殻に入って、いや籠もっていたからこそできた技だと言えるね。

 だけど、それをたった一人の転校生に壊された。ここまでは分かるね?」

「転校生……」


 籠は朝の出来事が思い起こされた。声が聞こえないと思ったら、拡声器で挨拶をかましてきた檻塚さん。席に座るかと思ったら、なぜか自分の膝の上に座り、それに加えて怒鳴ってきた檻塚さん。

 頭のおかしい人だとは思っていたが、籠も違うベクトルでは同じ部類に入るのだから何も言えない。


「なぁ、リーロンさん」

「リーロンでいいヨ。毎回さん付けだと疲れるでしョ?」

「じゃあ、リーロン……檻塚衣里は何者なんだ? どうしてエニーは、彼女をみて逃げたんだ? どうして……!」

「まぁ待ちなヨ。兎にも角にも、君はこれから、あの場所へ行ってもらうヨ。そこにすべての答えがある」

 

 そう言うとリーロンはビーチの辺りを指差した。正確には、ビーチの近くに建てられた――幽霊喫茶店を。

 夜な夜なたくさんの子どもの笑い声が聞こえてくることがあったり、面白半分で侵入しようとしたら呪われるなんて噂が絶えない、あの喫茶店。毎日目にしているからわかる。外壁はボロボロに朽ち果て、屋根の一部は崩れてしまっている。今すぐ倒壊しても遅くないだろう。


「まさか……そのコーヒーカップを使ってあの喫茶店に行く……なんて馬鹿なことは言わないよな?」

「馬鹿なこととは失礼な。正確に言えば、ニブンノイチの世界の幽霊喫茶店に行ってもらう、かな」

「……は? 何を言って……」

「あと言い忘れてたけど、わざわざゲートを通るんじゃなくて、月が見えてれば直接……」

 ビュオンンンッ と突然、目を覆うほどの強風が目の前を通過してきた。おかげリーロンの話が途切れてしまったが、どうせ荒唐無稽な話だろう。聞くだけ無駄だ。

「……というわけだ。ちょうどこの時間帯なら、面白いものが見れると思うヨ。もし僕の話を信じないんだったら、それはそれで構わない。ただ君が生涯、孤独に過ごすだけだヨ」

「……!」

 そんなことを言われたら、実質信じる以外の選択肢を取り上げられたようなものだ。籠はリーロンから差し出されたコーヒーカップを無言で受け取った。

「ボンボヤージュ、箱崎籠くん」


 その言葉の直後、突然目の前を突風が通り過ぎたと思ったら、次の瞬間にはリーロンは影も形もなかった。まるで夢でも見ていたようだった。籠はあっけにとられ立ち尽くしていたが、やがて教えられた通りにコーヒーカップの縁を人さし指でなぞってみた。

 現在の時刻は八時十二分。まずは八時へと動かすと、カチリとパズルのピースがはまったような気持ちのいい音がした。十二分の時も似たようにカチリと音がなった。そして、


「な、なんだよ、これ……!」


 驚くことに、トクトクとカップの底から温かく黒い液体が静かに溜まり始めた。香ばしい豆を挽いた香りが鼻腔をノックし、籠は思わず息を呑む。コーヒーだ。コーヒーの匂いがする。ほんのりと湯気が立ち、上に上がった瞬間に海風に巻かれて消えた。

 注がれた? コーヒーを凝視していると、自分の意識が風に吹かれて消えるロウソクのようにぼやけてしまうのを感じる。身体が自動操縦モードに切り替わり、人差し指を一定量たまりきったコーヒーにちょこんとつける。皮膚のほんの一部に温度が付帯した。

 次の瞬間には――意識が闇に飲み込まれていた。


「うわあああ……!」


 叫び声が一瞬にしてコーヒーカップの中に掻き消えていく。身体が引きずり込まれる感覚がする。全身をコーヒーに浸からせたかのような、適温の温泉よりちょい熱めの空間。まるで重力が逆転したようだった。周囲の景色が歪み、光と影が交錯する。

 ここはどこなのか?

 どこにつながっているのか?

 これから自分は、どこに行くのか? 

 さまざまな疑問を引き連れながら、落ちていく。落ちていく。底の見えない、コーヒーカップの中を。

 その空間は、上も下もなく、まるで夢の中のような世界だった。籠の心臓は高鳴り、息を呑む間もなく、その空間を滑り降りるようにして落ちていった。

 しばらくすると、ようやく穴の出口のような空洞へと近づいていく。ようやく到着かと思ったが……


「……う、嘘だろォォォオオォォォォォオ――――ッッッ!!!!」


 ゴゥゴゥと身体全身で風を切る音がする。

 それもそのはず、籠が出口だと思っていた場所は、もはや場所ではなかった。足場などはみじんもなく、限りなく広い大気の海。

 高度は目視で、ざっと千メートルほどだと分かった。

 目の前には憤慨するほどにきれいな星空が視界いっぱいに広がっていた。

 良く言えばスカイダイビング。悪く言えば規模をでかくしすぎた投身自殺だ。夜でもくっきりと、水平線が空と海を真っ二つに別つ様が見えた。

 だが間もなくして、はるか頭上の景色として通り過ぎていく。ビュウウウゥゥゥ……!!!! と風が吹き付ける音が、まるでこの世にさよならバイバイと別れを告げる言葉に聞こえた。

 あっという間に地面が近づいてきた。来るな、来るなと言葉を繰り返しても、信じられない速度で接近してくるそれから、目をそらすことはできなかった。

 脳内にちらつく『死』の一文字。まだ若い自分にはほど遠いものだと思っていたけど、今それが、現実のものになろうとしている。

 たちどころに頭を庇おうとするが、あまりにも無駄な行為だろう。まず足の骨が跡形もなく砕けた後、他の骨も等しく粉砕してしまうだろう。それが臓器という臓器に、まるでハリセンボンのようにめちゃくちゃに刺さって……


「死……死……死にたくねぇよォォォ………………………………あ」


 もうダメだ……! と目をつぶりあきらめかけたその時、さっきからずっと聞こえ続けていた強い風の音がなくなった。

 すさまじいスピードで落下していたはずの身体は、まるで綿にでもなったかのようにフワリフワリと減速していくのを感じた。

 わけがわからず目を開けると、その頃には足がゆったりとした速度で地面に着陸していた。

 力が抜け、尻もちをついた。

 手で雑草を触る。サラサラとした触感。

 続いて自分の顔。自分の身体。

 何の痛みもなければ、外傷もない。最初から何事もなかったかのような籠がそこにいた。


「はは、ははは…………はっ」


 安心したら力が抜けてきた。それは表情筋も同じなのか、さっきから笑いが止まらなかった。その理由は、いまこうして生きているからなのか、それとも生死の境を彷徨った結果、頭がおかしくなってしまったからなのか、よくわからなかった。

 雑草のうえに大の字で寝転がった。ガツンとミカンではなく青臭い臭いが鼻の中で渋滞している。ここはニブンノ何とかという世界なのか、そんなことはあとで考えればいい。

 不快なので立ち上がりたいが、そんな体力があるわけもない。籠の乾いた笑い声は、それからあたり一帯の闇に五分間反響した……


    *


「…………」


 コツコツと夜の町に足音が響く。街灯に伸びた籠の影が映っては消え、映っては消えていく。リーロンが話したニブンノ何とかという世界とはてっきり、もっと異国情緒を感じさせ、空の上でも見ればドラゴンでも飛んでいる……なんてのを想像していた。

 だがコーヒーカップのゲートを通って来てみれば、一見すると何ら変わりない。建物も、街灯も、風の音も、雑草の唸りも、すべてが戸前町だと言っている。そう、普通の戸前町なのだ。


「なら……どうして……さっきから人に会わないんだよ……」


 籠の声は、まるで赤子が手に力を入れただけで握り潰すことができるぐらいに弱く、はかなげだった。歩き始めてから十分ほどが経過しようとしている。胸に巣食い始めた孤独という名の蟲は、順調に体内を捕食している。

 民家や店などに視線を送る。たとえ幻と分かっていても、人の影を、痕跡を、追わずにはいられなかった。路地裏の窓、落ちている新聞の隅、こんなところにいるはずもないのに。

 途中、大きな風の音がまるで男性の悲鳴のように聞き間違えたため、驚いて足を止めてしまった。ついでに心臓も止まりそうだった。


「そろそろ、着く頃か……」


 そのようなアクシデントに見舞われつつも、歩き続けて約二十分。籠はようやく目的地の幽霊喫茶店に到着した。実際の時間はそのはずなのだが、一人のせいかそれよりも長く感じた。

 建物を目の前にして立ち止まる。籠は無意識に苦笑いをしていた。


「さすがに……もう、こんなことじゃ驚かなくなってきたな……」


 一目見てまず思ったのは、綺麗、だった。まるで今日建てたような新築。外壁はきれいな木目が見え、おしゃれなのか下の部分は多種多様な大きさの石が埋め込まれていた。

 窓ガラスは一つも割れておらず、そこから店内の明かりが漏れていた。一部が崩れていたはずの切り妻屋根は、きちんと修正されている。まるでここだけが時間の流れに逆行したかのようだった。

 いつもなら規制線が張り巡らせている入り口も、行く手を阻むものは何もない。新品同様のプッシュプルハンドルを握り、いざ入店しようとしたのだが、


「……?」


 中から子どもの声が聞こえた。それも大勢の。声質からして小学校低学年、またはそれより年下に思えた。ガヤガヤと外からでも愉快なムードが伝わってくる。

 詳しく確かめようと、再度プッシュプルハンドルを手前に引いた。重ための金属音のドアベルがなり、籠の入店を知らせる。


「な……!!」


 その瞬間、まるで溜めてきたものが一気に放出されたかのようにして、幸せそうな笑い声や和気あいあいとした声が響いてきた。その出どころはすべて、先ほど見かけたおもちゃとすでに店内にいたおもちゃ、おもちゃ、おもちゃばっかりだ。バーゲンセールか。

 まるで、籠がかつて使っていたおもちゃ箱のような見た目だった。壁一面には、色とりどりの城やドラゴンが描かれており、冒険の物語がそこから始まるかのようだった。床下には、あまりアニメを見ない自分でさえよく知っているキャラのさまざまなイラストがある。

 手前には手作り感満載の木製テーブルと椅子が並んでおり、その中心にはカウンターとバックヤードのような建築が施されている。おもちゃたちは、まるで人間の子どものようにそれに座りながら、騒ぎすぎて耳が物理的に痛いほどの音量でおしゃべりをしていた。


「おそいよー! もうさきにたべちゃうよー」

「カウントダウンしよっ。じゅう……ゼロ! いただきまーす」

「あーまってよ! みんなのりょうりばくりっこするってやくそくだったじゃーん!」


 まるでト◯・ストーリーの世界に迷い込んだようだった。そう考えると、自分がひどく場違いな存在に思えた。このまま帰ってしまおうかとも思ったが、それをしなかったのは心の奥底にある童心が顔を出したからだろう。

 入り口で立ち止まっているのも邪魔だと思うので、わずかに窓側に沿って左脇に移動する。すると視線の先に見えたのは、自身の身長の百七十センチほど長さがあるボールのプールや、室内用の滑り台などが置かれた遊び場だった。おもちゃたちはそれぞれの遊びに夢中になっている。

 ふと籠は、異国風な姿をしているおもちゃに視線がいった。食べているのはオムライスだ。一口食べるたびに、どうしてかトロンボーンを吹いている。おいしそうだとツバをのみ込んだ。

 ボウ〜 ボウウ〜 ボウウ〜 ボイウ〜

 もしかして……まいう〜って言っているのか? 吹いている異国風な姿のおもちゃの顔は、恍惚としていた。今の世代の人たちはネタが分かるのだろうか。

  

「ねぇねぇーチョコレートバナナパフェまだー?」

「ハーイただいまー!」

 顔の大きさほどあるリボンや、フリフリのついた魔法少女風の衣装に身を包んだクマのぬいぐるみが、次々とくるお客様もといおもちゃたちの注文をみごとにさばいていた。

「あれ……? あのクマ……」

 どこかで見た事があると思ったが、記憶のタンスはパスワード式の南京錠に掛けられ、その上鎖でがんじがらめにされていた。

「おなかへったよー。ナポリタンまだきてないよー」

「ちょい待てや! ただでさえ料理できるのはマスターだけやさかい。自分の指でもしゃぶって待っとき!」

「ぼくりょうてないからしゃぶれないよー」

 両手を欠損した乾麺ライダーのおもちゃがわめいていた。対して関西弁でしゃべったそいつは、不気味なほど白い歯を見せつけながら、怖い笑顔を浮かべる猿のおもちゃが接客をしていた。皿のかわりにシンバルを持ってそうな見た目だった。

「すいませーん。プリンアラモードと、チョコバナナパフェと、苺レアチーズケーキと、フレンチトーストと、ホットケーキと…………」

「Bad! コレ以上頼ムト死因ハ糖尿病デ、オ客様ハモウ死ンデイルデス。ハイ。」

 最後はブリキのロボットだった。金庫のダイヤルのような大きな目のところに黒い点がついている。

「なにィ? 高木ブー!!」


 人間のように服を着込んでおり、黒いスーツに黒い中折れ帽をつけている様は、まるでマイケル・ジャクソンのコスプレだった。その証拠に、注文を受けたあとはまるでムーンウォークみたいに前を向いたまま後ろの移行を始めた。 

 だがロボット共通の宿命なのか、運命なのかは分からないが、足取りは拙く、非常におぼつかない動きをしていた。ウィーンガシャン、ウィーンガシャンにもかかわらず、自分の口で「スィー、スィー」と言っているのが、痛々しくて見てられなかった。

 しばらく呆然としていると、店の厨房があるであろう場所からのれんをくぐって人が出てきた。顔にはうっすらとシワが刻まれており、見た目から推理して年齢は六十代前半。今まで動くおもちゃばかり見てきたので、普通の見た目の普通の人間が新鮮に見えてしまった。


「お待ちしてましたよ。箱崎籠さん」

 いい意味で年齢を重ねたことで出る、おっとりとした上品な声がした。にこにことした表情は、まるで陽だまりのようだった。髪はさっぱりと短髪で整え、店専用であろう青いエプロンを着ている。

「あなたは……」

「あっ、失礼。私はこの喫茶店、『フレンズ』のマスターをしている者です」

 そう言うと、喫茶店のマスターを名乗る老人はペコリと丁寧に頭を下げた。

「フレンズ……」

 籠は看板の部分が壊れていた場面ばかり見てきたせいで、初めて店の名前を知った。

「いい名前だと思いませんか? ここに来てご飯を食べる人全員が、フレンズのように仲良くなってほしいという意味を込めてつけたんです」

 籠は果たしてここへ来る客を人と定義していいか分からなかったが、とりあえず流すことにした。

「ここは……?」


 籠は一番訊きたかったことを訊くことができた。ここまで来るのにやたらと時間がかかった気がする。リーロンと出会ったり、高度千メートルほどから落ちたり、誰もいない暗闇の町を約二十分以上歩行したり、一週間の時間をコトコト煮詰めて一日に凝縮したみたいだ。

 ただでさえしゃべるおもちゃがしゃべるという世界に放り込まれたのだから、もう驚きはしないだろう……なんて考えた自分は、なんて浅はかなのだろうと思い知らされた。


「ここは――全国の|見えざる友達イマジナリーフレンドが流れ着く世界であり、|最後の時を過ごす場所・・・・・・・・・・でございます」

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