夢の国から出るという選択肢。

 ある意味、危険図書のような創作論である。それはまるで、子どもたちの夢の国に響き渡る、無情なアナウンスのようだ。

 しかしこれは、ただの悲観論ではない。本作では、客観的な現実が、淡々と突きつけられる。そして、(読み手にとっては)追い打ちのように、こう問われるのだ。

 それでもまだ、あなたは小説家という、特別枠に入れると思えるのですか。

 夢から覚めたあなた(あるいは、私)は、浅い呼吸と動悸をなんとか鎮め、あれは夢だったんだと繰り返すだろう。あれは、夢を食い破る夢だったんだと。

 ある意味で、それは正しい。そしてある意味で、それは間違いだ。
 私がこのように記す理由は、本作を読めばおおよそご理解いただけることと思う。

 本作への評価は、当然というか、賛否両論である。私見ではあるが、いわゆる「核」(核心)を突いている作品に、こうした反応は起こりやすい。揺さぶられるのだ。

 そういう意味で、刺激物が苦手な方は、そもそも本作をお勧めしない。少なくとも、心の用意もなく読み進めれば、読後、再び自作に向き合い、キーを叩けるという保証はない。

 ただし、ここからが本書の白眉であるのだが、これは、本作の作者、音無來春という書き手自身が身をもって体験している(あるいは、し続けている)、「私」の「叫び」(応援コメントへの返信より引用)なのだ。
 作者は、傍観者ではない。小説を書くことが、「生きがい」なのだ(勝手にそう思われては作者様も迷惑だろうが、私はそれを、便宜上でも仲間と呼びたい)。

 さあ、長々とした口上はこの辺にしよう。けれど最後に一つだけ、この場を借りて、付記させていただこうと思う。

 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」

 本来、命を捨ててもいいというほどの覚悟をして、初めて活路が開けるといった意味だが、これを、本作を読んだ私に対して言い換えてみようと思う。
 すると、こうなった。

 「ペンを捨ててこそ浮かぶ話(わ)もあれ」

 突き詰めた思考だけでなく、味わった経験だけでなく、ただ空にした空白にこそ浮かぶ文字もある。

 夢を見続けることだけが、正解ではない。選択肢が狭まったとき、「成功」の二文字にのみ縛られたとき、小さな手で温めていた大きな夢は、矮小な、大人の自己顕示欲の乗り物になりさがってしまうかもしれないのだ。

 そしてそもそも、ハッピーエンドは、私には用意されていない。

 「小説家になる」というゴールがあるとして、それに対する報われない行為を、私(あるいは、私たち)はどうして続けることができようか。それでもなお書き続けるというならば、逃れられない電気ショックを受け続ける犬のように、地に伏せて苦痛に耐えるしかないのだろうか。

 本作のレビューを書くにあたり、私は私なりの心づもりを得た。これはひとえに、残酷なまでに正直な作者の、偽りを嫌う誠実さ(と、受け取っている)によるところが大きい。高みの見物とは最も遠いところに、音無來春という作家はいる。
 
 機会があるならば、次はあなたの答えを、ぜひ聞かせてほしい。

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