あなたのための歌

古羽 霜莉

あなたのための歌

「半分、魚だ!」

 初めての言葉がそうであったことを覚えています。

 声の主のほうを向きますが、逆光で顔が見えないほど、よく晴れた日でした。

「こんにちは」

 私はそう返すことしか知りませんでした。

「驚いた。本物?本当に生きているの?」

 人は私の周りを跳ね回りました。たった二本の、棒のような足で、真っ白な砂を踏みしめていました。

「そうですね。人には人魚って呼ばれているようです」

ぐるぐる歩いていた人が私の後ろで立ち止まりました。

「あっ、ちぎれてる。痛そう」

 ふと、体を振り返ると、尾ひれが斜めにちぎれていました。

 外に出られるうれしさで少し騒いだ時、後ろのひれをひかっけていたようで、思い切りちぎれていました。

「本当ですね。「いたい」ないです。人は「いたい」ものなんですね」

「痛くないの!すごい。すごいね」

 海が跳ね上げられ、煌めきます。「足」がくるくると器用に動き回ります。

 とてもきれいで、まぶしくて、

「人は愉快ですね」

 人と初めてする会話は上々の滑り出しでした。


 ***


 少し昔の話をしましょう。

 光の帯を抜けたところ、輝く泡の行き先に興味を持ったのはずいぶん幼い頃でした。数少ない記録を探して、見て。外にはたくさんの「人」という生き物がいることを知りました。そして言葉を使うことを知りました。言葉に興味を持った私に、ババ様は言葉の書いてある二つの本を見せました。どちらも古そうでした。

「読んでみるか?」

 そして頑張って言葉を覚えて、読めるようになり、一つ目の本から「腹を抱えて笑った」という文を、もう一つから「はらわたが煮えくり返るほどの怒りだ」という文を見つけました。

 とても驚きました。ただ笑ったこと、怒ったことをこんな風に表して残すなんて。

 たった、一つの感情を、何百年も先の誰かに伝えるために使われたのです。

 そして、なんて愉快なんだろうと思いました。きっと言葉を作り出した「人」はとっても愉快なんでしょう。会ってみたくなりました。知るだけでなく、伝えてみたくなりました。何とかババ様に掛け合って、調査するという名目で外に行く許可を取りました。急いで、外に上がりました。そこでその人にあったのです。


***


 あのあと、夜になって、いったん家に戻りました。しばらくは報告書に追われ、会いに行く時間ができませんでしたが、なんとか時間を作りました。

顔を出すと、彼がいました。

「あっ、お姉さん。ひさしぶり。もう来ないかと思ったよ」

 次に会ったとき、人は少しかがんで私にそう言いました。

「また会えてうれしいです」

 私は答えました。

「僕もだよ」

 彼は私を見ながら口角を上げました。なぜでしょう?

「何で今口を動かしたんですか?」

 彼は少し眉を上げて、でもすぐにまた少し口角を上げました。

「これはね、笑顔っていうんだ」

「笑顔?」

「そう、人は言葉だけでなく表情でも伝え合うんだ」

 何ということでしょう。人とは何て、伝え合いたがりなんでしょう。

「教えてください。ひょうじょう、どんなのがあるんですか?」

 人はまた笑顔で私にたくさん伝えてくれました。

「眉を上げるのは、なんでですか?」

 人は大きく目を開けて、言います。

「これのことかい?これは驚いた時かな。びっくり!みたいな」

 人は座って、流木を手に取り、地面を削り文字を書いたのです。

「わかりやすく絵にしてみよう。こういう時は悲しいときかな」

 目にしずく型を付けた口がへの字の顔があります。

 私は表情よりも、地面に字を書いたことに夢中になってしまいました。

 こんな形でも伝えられるのだと。負けていられません。私も伝えます。

 私も小さめですが珊瑚を手に取り、描きます。

口を半分開け、片目を引きつらせ、眉がへの字な顔ができました。

「こんな顔をするときはありますか?」

「それは――ちょっとないかも?しいて言うならにらめっことかで……」

「にらめっこ!それはあのへんなゲームですか」

「変?か、そうだね変と言われれば、そうかも」

 彼はすっと笑っていました。うれしいんですね。


 その後も、私はたくさん伝えに行きました。

 夜に行くと、いないこともあって、会いに行くのは昼に絞りました。

 潮が引かないと、人は海に近づけないのです。だから人と会うのは晴れた日が多くなりました。そのため、人は少しずつ焦げました。聞くと「日焼け」というようです。最近ではとうとう、ヒジキと同じ色になってしまいました。

 人はなんでも教えてくれます。動物、植物、文化、数字、何でもです。

会いに行く度、人は自然とたくさん伝えますから、私もたくさん伝えました。

 人が、うれしいねと言えば私は驚いたと、悲しいねと言えば私は綺麗だと、思ったことを伝えあいました。

 でもだんだん、人は「困った」顔をすることが多くなりました。どうしてでしょう。

「困った顔です」

 会話の途中、また眉を寄せた彼に言いました。

「あれ?出てたか」

 彼は少し首をかしげます。

「困ってますか?」

「困るっていうか、ちょっと悲しいかな」

 悲しい?目からしずくはありませんが、きっと「悲しい」と言うならば「悲しい」なのでしょう。

「なんか、お姉さんにあんまり伝わっていない、っていうか」

 伝わっていない?そんなはずありません。

「今「悲しい」伝わりましたよ?」

「うーん、そうだね。確かに僕が今「悲しい」のはお姉さん知ってるもんね。でも伝わってはないのかなって」

 確かに知っています。でも「伝わっていない」のでしょうか?伝わると知っているは違うのでしょうか?

「伝わると、知るは違うのですか?」

 表情も使って、分からないを伝えます。首をかしげるんです。

「今、私が「不思議にしている」は伝わりましたか?」

 人は笑いました。きっと伝わってうれしいのです。

「そうだね。君が不思議なのは伝わったよ。うん、大丈夫」

 笑顔に少し困ったが入ってるようにも見えます。でも人は大丈夫と言いました。ならば大丈夫なんでしょう。でも何でしょう、ほんのりと不安を感じます。冷たい海流が流れ込むような、少し嫌な感じがします。

 話を変えましょう。

「人魚の歌を知っていますか?」

「人魚の歌?」

「そうです。歌と鱗が人に人気があると本で読みました」

「セイレーンみたいなやつかな。興味はあるね」

 興味があると言われると見せてあげたくなりました。きっと驚いたり喜んだりしてくれるでしょう。伝え合いたくなりました。

「鱗、次剥がれたらあげます。歌は今度練習して見せますね」

 人は、ちゃんと笑顔で言いました。

「それは楽しみ!」

 私もうれしくなりました。でも、人がうれしいなら、私がうれしいのを伝える必要はありません。だから静かに、でも少し私は笑いました。


 ***


 

 歌の約束の練習をしていたら少し時間があいてしましました。

まだ彼はいるのか少し不安を抱えながら、顔を水面に出すと、少し離れたところに人がいるのが見えました。

 大きな声で呼んでみます。

「あぁ、お姉さん。久しぶり」

 返事がいつもより静かに感じました。人があまり動かないので、不思議に思いながら近づいてみますと、驚きました。

「ひもで、ぐるぐるです。引っかかったんですか?私もよくなります。ほどきますか?」

どおりで動けないわけです。

 彼はまた笑顔で言いました。

「ううん。これはね、転んだんだ」

 転ぶ。これは外にしかないことです。新しい要素にワクワクしてしまいます。

「転ぶって、私たちにはありません。せいぜい引っかかるくらいです」

「そうだね」

「転ぶというのは「いたい」ですか?私たちは「いたい」がないです。だからわかりません」

「痛い、かな」

「そうですか。「いたい」はどんななんですか」

「どうってことないよ。大丈夫だよ」

 困ったが混ざった笑顔です。でも、人はそれを大丈夫だといいました。では笑顔なんでしょう。

 人はそのまま続けます。

「あのね、お姉さん……僕、もう会いに来れないんだ」

 その言葉は、まるで砂の城が、波に壊されてしまったような、当たり前で、それでいてとてもむなしい言葉に聞こえました。

 え?

 あんなに持っていた言葉が白くなり。砂に溶けてしまったようです。

 何もできなくなってしまいました。

「お姉さん?」

 人は「不思議に」こちらを向きました。

 そうです。ちゃんと伝わっています。

 言葉が戻ってきました。

「どうしてですか」

 最大限の驚きの顔をします。

「いろいろあってね。ごめんね」

 人は笑顔のままです。

「どうしてもですか?」

 しつこく聞いてしまいました。

「どうしてもかな。でも僕が来れないだけだから次は君が会いに来てよ」

「魚は、陸に上がれない、です。」

 彼はまた笑って答えます。

「ふふ、そうだね。知ってるよ。今までも海から出ていないもんね」

「悲しいです」

「そうだね」

 笑顔です。つまりうれしいのです。それは私には悲しいです。なぜでしょう?伝え合っているのに、悲しいです。

「それじゃあ、お別れだね。おねえさん」

 人はまだ笑顔です、あの、「困って」「うれしくて」「大丈夫な」笑顔です。私は悲しくなります。どうしてでしょう。人にも「悲しい」と言ってほしいです。でも、同じは伝える必要はないです。

 しかも人は、笑顔ですから、うれしいのですから、それは私に伝わっていますか、何の問題もないはずなのです。

「さようなら。ありがとう」

 人は口角を上げたまま、片方の瞳から雫をこぼしました。もう片方は包帯で隠れていました。彼は片足で、杖をついて帰っていきました。

 私は、鱗を片手に、取り残されました。



 私は悩みました。

 どうして、彼は困っていたのでしょう。

 困ったと笑顔が混ざっていたのでしょう。

 どうして伝わらないといったのでしょう。

 ちゃんと言っていました。

「うれしい」「楽しみ」「驚いた」「怒った」「笑う」「悲しい」「困った」「大丈夫」

 知っています。知っているんです。

 どうしてあの時彼は「悲しい」「笑顔」をしたんでしょう。

 どうして、私は、あの時、人に「悲しい」と言ってほしかったんでしょう。

 どうして私は、あの「人」以外と伝えようと思わないんでしょう。

 伝えるだけで、いいはずなのに。


 私は転ぶを知る機会がありました。

 私は知りました。

 転ぶだけでは足が取れないことを。

 目がなくならないことを。

 人は欠損が埋まることがないことを。

 あの人が、彼が言った「大丈夫」が全然「大丈夫ではない」ことを。


 私は気づきました。言葉の、表情の、人の大事に性質に。

 そして、私ができなかった「伝える」に必要なことに。

 私の間違いに。


***


 さて、私は外に上がり、彼に会いに行くことにしました。

 周りには止められました。人魚が他人の心配をするなんて相当ですね。でも、決めました。ばば様も最後は折れてくれました。

無事、声を足にしました。

 砂の上に立ち進みます。

 少しずつ、海が消えていきます。

 肌が乾くという、今までしたことのない体験をしました、

 あんなに聞いた波の音や、潮風の音が遠のき、葉のこすれる音、風が窓をたたく音、何よりも歩く人の足音で満ちていきます。

 彼がいつも変える方向に歩いて行って、いろんな人に質問して、探します。

 とても時間がかかりました。

 何度も何度も、歩いて歩いて。

 見つけました。

 庭先で車輪のついた椅子に座った彼をやっと見つけました。

 そっと肩に触れました。

「誰だい?」

 ほんの少し、低くなったように感じるその声に、でも変わらないその声に、震えあがりました。

 振り返る彼に鱗を握らせます。

「ああ、君は――」

 彼の口に指を当てます。

 今までもさんざんそうでしたが、また同じことをしてしますね。

 次はきちんと考えて受け取ります。今までの分も受け取ります。

 だから、どうしても。

 また、押し付けになってしまっても。

 今は、受け取ってほしいのです。

 あなただけに受け取ってほしいのです。


 かすれる空気の音が響いています。

 泣きながら、笑いながら、その音を鳴らす少女がいます。

 ただの空気のかすれる音でしかありません。

 そこに言葉はありません。

 それでも彼にはちゃんと届きました。

「あなたと、会えて、うれしい」と伝わりました。


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あなたのための歌 古羽 霜莉 @furuha_souri

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