風が抜ける場所 4話

 新聞社に戻ると、フロアは夕刊の締め切りに追われて慌ただしさを増していた。

 川島が自分の席に戻ると、社会部の三宅が手招きした。

「おい坊主、ちょっと来い」

 川島が駆け寄ると、三宅は低い声で言った。

「被害者の身元が分かったぞ。ミヤコ地下街で小さな雑貨屋をやっとった店主らしい」

「店主……ですか」

 川島は思わず聞き返した。ただの通行人ではなく、あの地下街に根を下ろして暮らしていた人物。けれど、それが何を意味するのかは掴めない。

 三宅は肩をすくめる。

「まあ所詮は“突然倒れた”で片づけられる話だろうな」

川島はうなずき、机に戻った。だが心の奥に、さきほど感じた風と、「地下街の店主」という言葉が小さな引っかかりとなって残り続けていた。


 数日後、川島は再びゲートタワーを訪れた。生活部としての取材はまだ続いており、新店舗の開業準備の進捗を追うためだった。昼下がりのフロアは、前回よりもさらに慌ただしく、スタッフたちが什器を組み立て、商品の陳列に追われている。

「この前はありがとうございました。追加で少しお話を伺えればと思いまして」

 名刺を差し出すと、前回対応してくれた女性社員が笑顔で迎えた。商品の搬入やオープンキャンペーンの予定について一通り話を聞いたあと、彼女はふと声を落とした。

「そういえば……ミヤコ地下街の件、あれ、やっぱり気になりますよね」

 川島の胸がざわついた。

「……地下街の件、というと?」

「人が倒れたっていうあのニュースです。実は、ミヤコ地下街も再開発の対象になっていて……でも、なかなか出ていかない店舗があるんです。もう契約が切れているのに粘っているお店が一軒あって」

 川島はメモ帳を握る手に力が入った。

「出ていかない、ですか」

「ええ。正直、再開発を進めたい側にとっては頭の痛い問題みたいで……。それがどう関係するかは分からないんですけど」

 女性社員は言葉を濁しながらも、意味ありげに視線を落とした。

 川島の頭に、三宅が教えてくれた「被害者は雑貨店の店主」という言葉がよみがえる。


 なかなか立ち退かない店舗。再開発。ミヤコ地下街。

 胸の奥に、小さな線がつながった感覚が走った。これは、ただの“突然倒れた事故”ではない。その背後に、もっと大きな思惑が潜んでい

るのではないか。

 川島は息をひそめるように手帳を閉じた。利権の匂いが、確かにそこにあった。


 取材を終えた川島は、ゲートタワーのフロアをぼんやりと歩いていた。人波を避けるように窓辺へ寄り、眼下の名古屋駅前ロータリーを見下ろす。

 地上からは仮囲いの高い塀に隠され、通行人には中の様子がまったく見えない。だが、ここからなら工事現場の全貌が一望できた。鉄骨が組まれ、クレーンが首を振り、仮設の通路が複雑に張り巡らされている。

 川島の視線は工事区画の片隅に止まった。ロータリー脇、舗道の影に金属の格子が埋め込まれている。作業員たちは誰一人気に留めることなく、その横を通り過ぎていく。

 ただの通気口。見慣れた都市の風景の一部にしか見えない。

だが川島は、地下街で感じたあの微かな風を思い出していた。重い空気の中で、そこだけ妙に抜けていくような感覚。あれは気のせいではなかった。ここにつながっていたのだ。

 地上からは高い塀に遮られて、その存在すら分からない。だがゲートタワーの高さからなら、こうしてはっきりと確認できる。

「……これだ」

 川島は胸の奥がざわつくのを覚えた。カメラの死角と、この通気口。もし誰かが意図的に使ったのだとすれば――。

 彼は気づけばエスカレーターに足を向けていた。コンコースを抜け、地下街へ駆け下りていく。


 ミヤコ地下街の奥、シャッターを下ろした空き区画の脇に、その通気口は確かにあった。目立たず、埃をかぶり、誰も気にかけていない。

 だが、川島の頬をかすめた微かな空気の流れは、あの日と同じものだった。

「……やっぱり、ここにつながっている」

 胸の奥で小さな確信が芽生えたが、証拠にはほど遠い。それでも、ただの事故ではないという感覚は、いよいよ拭えなくなっていた。


 夕方、新聞社に戻った川島は、ためらいながら社会部の机へ足を運んだ。三宅はいつものように椅子にふんぞり返り、煙草の箱を指で転がしている。

「……三宅さん、少し話を聞いてもらえますか」

「またか。生活部の坊主が事件ごっこか?」

 にやりと笑う三宅に、川島は真剣な顔でうなずいた。

「今日、ゲートタワーから工事現場を見下ろしたんです。地上からは塀に隠れて何も見えません。でも、上からなら……通気口があるのが分かりました。場所はミヤコ地下街の現場と一致しています」

 三宅は片眉を上げた。

「通気口、ねぇ。で、それがどうした?」

「昨日、現場で風を感じました。あの通気口につながっているんです。防犯カメラの死角とも重なっている。もし……誰かがそこを使って出入りしていたとしたら」

 言い終えると、三宅はしばらく黙り込み、指で机をトントンと叩いた。

「……お前、ずいぶん妄想が好きだな」

 そう言いながらも、その目は笑っていなかった。

「だが、面白い着眼点だ。確かに通気口は普通、誰も気にせん。だが“普通じゃない使い方”をされたら……話は別か」

 川島はうなずいた。


 被害者は、再開発に最後まで抵抗していた店主。街の新陳代謝を急ぐ誰かにとっては、都合の悪い存在だった。

 けれど――確たる証拠は何一つない。換気口も、死角も、すべては推測にすぎない。

「記事にはならんぞ」

 三宅は肩をすくめた。

「上も警察も動かん。俺たちが真相を知ったところで、闇は闇のままだ」

 川島は答えなかった。

 ただ視線を上げると、地上から差し込む光が、薄暗い地下街に斑模様を落としていた。名駅は再開発の喧騒に包まれ、地上では新しいビルが立ち上がろうとしている。

 だがその足元には、誰も振り返らない空白が広がっている。

 川島は静かにノートを閉じた。伝えられない真相を抱えたまま、それでも記者として“違和感”を見つめ続けるしかないのだと、痛感していた。

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名古屋駅の底 野口澪 @com5151

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