ある裏切り者の追憶より
代高千草
第1話
たしか、4,5歳ほどの頃だったろうか。幼き日の僕は崖の上で海を眺めていた。空は重々しい叢雲に覆われており、乾燥した岩場には草木などなく、只地平線上を時化た海が覆っていた。延々と広がるグレイスケール。昨日までは家の形を成していただろう木片が崖の遥か下にぶつかり、引き潮に乗って流れていった。濁水が大地を飲み込み、事象を葬る様。其れを唯々無感動に眺めていた。
「こんなもの、あまりおもしろくもない」
僕が踵を返して戻ろうとした時、僕が立っていた崖が崩れた。昨日の地震で地盤が脆くなってしまったのだろう…などと考える暇もなく、躰が宙に舞った。事故に遭うと世界がスローモーションになるというのは本当なのか、と感心しながら真っ逆さまに転落していく。
其の時、空を鮮やかな彗星が横切った。
其れは煌々と輝いていた。どの恒星よりも眩しい唯一無二。は今も昔もそれは変わらない。僕が初めて彼女を見た時もそうだった。彼女は僕を抱きかかえた後、高度を下げて荒廃した大地に颯爽と降り立ち、生命の息吹を与えた。その時に彼女の翼の纏っていた鮮やかな金の火花や顎の辺りで切られた緩くウェーブした髪、アメジストのような輝きを放つドレス、ヴェールからすらりと延びた白い足、滑らかに動く細い指先。其のどこまでも強烈な光は今でも脳裏に焼き付いている。
「少年、大丈夫かい?怪我はない?」
「だいじょうぶです…あの、ありがとうございます」
必要なかったのに、とは云えなかった。膝から潰れるか後頭部を打撲するか気になっていたのにとも、善意で助けてくれた方にとてもではないが云えないし、さすがの僕も恩人に悪態をつくほど歪んだ性格ではなかった。少なくともあの時は。
「申し訳ありません」
あの時、彼女は僕に跪いて謝罪した。私なら助けられた筈なのに、とも。
だが、僕にはそんな謝罪をされるいわれなどない。僕が街を沈めたのは僕の確固たる意志であると証明できなくなるではないか。
正しくは僕が沈めたわけではなく、誰も助けなかっただけだが、まあ僕が殺したも同義だろう。それなのに、同じ状況で謝ろうとするなど。
僕は幼い頃から天啓が聞こえた。大人曰く、最も敬虔なものだけが天啓を受け取れるとのことだが、どこまで本当なのだろう。少なくとも、僕は彼を神だと思ったことは一度もない。自分の神ぐらいは自分で決める権利はあるだろう。只、傲慢で好戦的で優しく堅実な其が僕にとっての神ではなかった、と云うだけのことだ。神は完全でなければ。其に意識など必要ではない。
助けてくれた方に向き直った。金髪の、翼の生えた女性。天使のようだ、と思った。だが一点、天使と異なる点がある。燃えているのだ、其の翼が。青に、赤に、黄に、緑に、橙に、透明に。様々な色を織りなしながら炎が揺らめき消えていく様は、まるで夢のような錯覚を覚えた。
「て、天使さん!何ですか?そのほのおは」
天使さんはくすりと頬をほころばせた。
「天使、とは面白いことを。私はフェニックスです」
「ふしちょうさん」
「不死鳥さんと呼ばれるのは照れ臭いなぁ少年。私には未久という立派な名前があるのだから」
悪戯っぽく無邪気に笑う彼女に、僕はもう恋に落ちていたのかもしれない。
「みくさん」
「うんうん、そうだね」
未久さんは満足げに僕の頭を撫でた。
「ちょっと、あの、子どもあつかいはやめてください…」
「少年はまだ子供でしょ?」
僕はその時首を振ったが、余り子どもとして扱われたことがなかったから、恥ずかしいと同時にとても嬉しかったことを覚えている。
「ノアです」
「其れが君の名前?」
未久さんは穏やかに微笑み、かっこいいね、と言った。
「そうだノア君、君の家は何処にあるの?」
「あのまち…だったもののどこかに」
「ご家族は?」
「しらない。見たことないから」
眼下に広がる瓦礫の浮いた濁水を見る。僕はあの街のとある館に住んでいたが、天涯孤独な僕にとってあれは家と呼べるような居場所ではなかった。
「これから何処に行くの?」
「…どこかに」
「そうなの…ねえ、ノア君」
「何ですか」
「あの、私のうちに来ない?会ったばかりの人からそんなこと言われるのも怖いかもしれないけれど…」
「はい、ぜひ」
当時ひねくれた少年だった僕は野垂死ぬよりは売り飛ばされたほうがましかと思って話を受けただけだ。今思えば恥ずかしい話だが。未久さんが善意で話をくれたと思い知ったのは、大分後のことになる。
未久さんは困っている人を放って置けない人だった。その時も彼女にとって可哀想な少年だった僕を助けようと思っただけだったのだろう。其の善意がやがて自分の身を滅ぼしてしまうとも知らずに。
その家はかなり寒い地域にあった。雪の積もった針葉樹林の中にある大きな館。
「みくさん、おしごとは何をしているのですか?」
「んー、多分魔術師、いや、医師かな…?」
「…たぶん?」
「占いから呪いまで、幅広く受け付けております!…なんだけど、魔術師の担当する事案が全て魔術で解決するわけじゃないからね」
「どういうことですか?」
「此方側の話。知らなくていいよ」
「…ここには一人ですんでいらっしゃるのですか?」
「うん。良い家でしょ」
魔術師の棲む館。其処ははとてもそれらしい雰囲気を纏っていた。エントランスホールの天井からかけられた大きなシャンデリアや紫色の艶やかなカーテン、赤い表紙の羊皮紙の古書、謎の薬瓶やエスニックな香。宝飾品に紛れて置かれた短剣、鳥や亀の置物に掛け軸。不思議なものが所狭しと並んでおり、幼い僕は少しだけ怖くてどきどきしていた。
「でも、こんなに広い家に一人だと、退屈じゃあ…」
変なものが多いと言っても、いずれ飽きてしまうのでは…
「そうでもないよ、少年」
未久さんは振り返って悪戯っぽく微笑んだ。
「私の秘密基地、見せてあげようか」
そう言われて連れていかれた場所は。
「ここは…としょかん、ですか。でも、とってもおっきい…」
周りを見渡すと古今東西様々な小説、心理学書、新書、園芸書、資料や書籍が言語を問
わず並んでいる。
「大正解!でも、只の図書館じゃないの」
赤い羊皮紙の本を抱えた女性は無邪気な女性は軽快な足音を響かせて図書館の一番奥に向かい、立ち止まった。
「おいで、少年!」
「まって、みくさん、はやすぎ…」
「ごめんね、ノア君…はい、これ」
手渡されたのは先程まで未久さんが抱えていた赤い革表紙の古書だ。
「何ですか?」
「ここに挿してごらん?」
未久さんは書棚の丁度本一冊分だけ空いた場所に目配せする。いわれたように本を入れると、重々しい音を立てて本棚が横にずれた。
「凄いでしょ」
「はい、でも…」
隠し扉から出てきたのはただの大きな姿見だった。これが何になるのだろうと考えていると、未久さんがいきなり姿見に飛び込んだ。
「わっ、あぶな…」
「大丈夫だよ、少年!」
鏡面の向こう側から勢い良く顔を出したのは
未久さんだった。
「さあ、この手を掴んで」
云われたように手を握ると、一気に鏡の方へ
引っ張られ…つんのめって転んでしまった。
「ごめんなさい、大丈夫?」
下から声が聞こえる。僕は未久さんに覆いかぶさるような形で倒れていた。滑らかな骨格
が僕の肌に触れた。
「大丈夫です」
そう言って顔を上げる。其処には、鏡のように先程の書棚が広がっていた。
「本棚自体は[表]と同じだけど、入っている記録は違うの」
未久さんは立ち上がり、書棚の中から本を一冊取り出し、ぺらぺらとめくる。本の中にはたくさんのチップメモリが詰まっていて、やがてその中から一つをつかみ取った。
「確かこの辺の…これだ!」
「それは?」
「君だ」
壊さないでね、と注意されて渡されたチップは、幼い僕の親指の爪ほどの小さなカードだった。
「これから、此処には君のすべてが書き込まれていく。ありとあらゆる存在するものには一つずつ此の記録がある。この図書館の本来の役目は、此の[存在の記録]を守ること…再生してみるかい?確か、君の記憶には君がどういう存在かが記されていない筈だ」
僕の存在。この小さな黒い板にそれが詰まっている。こんな小さくて、直ぐに壊れてしまいそうな…あの時の僕は確かに、それが恐ろしかった。
「へぇ、君はあの神殺しの主教の…」
「かみごろしの、しゅきょう?…」
「…あぁ、君のお父さんのことだ。あの男、子供なんていたんだ…まあ、君は只の戦争孤児だよ。教会の息子さんだから生きていくのに十分な遺産はあったけれど、村の人たちに金蔓にされかけていた。でも、その人達がいなければ君は野垂死んでいた。それなのに、君は彼らを助けなかった。そうでしょう?」
戦争孤児。僕はその言葉を知らなかったし、僕がどうやって生きてこられたのか分からなかった。けれど、僕の人生をよくあることのように語る未久さんが不快だった。一括りにされて、軽んじられているようで。
「未久さんは、僕の何が分かるのですか」
「何もわからないよ。私は生き物に興味が在るだけ」
生き物に興味がある。何をしても死なず、何度でも転生する、羽あるものの王。圧倒的上位の存在だからこその言葉だ。僕は其れが怖くなって、手に握ったチップを未久さんに返した。
「かくごができたら、見ます」
「そう…でも、くれぐれも壊さないようにね」
この所詮データの描く虚像でしかない世界では、壊したものの存在ごと消えてしまうから、という未久さんが呟いた言葉の意味を、あの頃の僕はまだ理解できなかった。
未久さんは明るい人だった。長く生きているだけあって物知りで、僕の知らないことを沢山教えてくれたし、僕の医師になるという夢を与えてくれたのも彼女だ。生物が理解できない様子でありながら、大切に守って育ててくれた僕の恩人だ。そう、僕は未久さんを愛している。それだけは彼女を殺した人間として、確固たる自信を持って言えることだ。
未久さんと過ごしたその後の十年間ほどは僕の人生で一番幸せだった。僕がこれから過ごすであろう長い長い時間の中でも、あの時を超えることはない…いや、其の様なことがあってはならない。何があろうと、決して。
ふと意識が戻る。潰れた目が映す視界には黒と、淡い月明かりに染まった滑らかな布地。頬を撫でる空気は、秋の夜の冷涼な香りがする。デスクに散らばった書類の山。二時五十七分を指す銀色の細い針。仕事中に寝落ちして仕舞っていたのか…また同じ夢を見ていた。
明日も早い。あと一時間半後には起床しなければならない予定だったのだが。躰に沈み込む寂寥感に身を委ねるように目を閉じ、特に意味もなく埃一つない滑らかな黒の机を撫ぜる。これでは眠れそうもない。キッチンで冷凍庫のロックグラスにエバークリアを注ぎ、寝室へ向かう。凍ったグラスは指に張り付いて、容赦なく右手の感覚を奪っていく。空いた片手でベットサイドの薬を1シート掴み取ると、残っていた錠剤をそのまま全て酒に溶かした。遮光カーテン越しの光と混ざり、グラスの中が鮮やかな青に染まっていく。もうこの程度では効きはしない。
ナイトガウンを袖も通さずに羽織り、階下を一望できるベランダへ出る。地上五十五階、この高層マンションの居住エリアでは最上階だ。下弦の月は未だ輝いていたが、大都会の煌々とした夜景に随分かき消されている。氷の一つも入れていない酒は喉を焼くように熱く、グラスは舌に張り付いて痛い。錠剤の苦みとゴムのようなエバークリアの匂いで吐き気がする。本来聖職者である筈のノア・ヴェルクレイルがこんなにも自堕落な生活を送っているなど、信徒に知られたら酷く罵倒されてしまうだろう。それとも軽蔑されるだろうか。気が向いたら試してみるのもいいかもしれない。
軽く嗤って空を仰ぐ。寝室の南向きのベランダは、嫌でも月が目に入る。グラスの中の薬を二、三錠一気に噛み砕いた。月は嫌いだ。あの女性(ひと)を思い出すから…とはいえ、正しくは女性でもなければひとでもないのだが。あの女性(ひと)を思い出すから…とはいえ、正しくは女性でもなければひとでもないのだが。
未久さん…いや、未久は子供のような人だった。館をいくら探してもいないと思ったら後ろから驚かしてきたり、構って欲しいとつついてきたと思ったら振り返った時にはいなかったり、悪戯好きで、気分屋。かなりの年の差がある筈なのに、どちらが年上かわからない、など天啓は茶化していただろうか。
あの夢は、もう見飽きるほど見た。何度見ても不快だ。あれは僕が十二になったばかりの冬の夜のことだった。雪が深々と降り積もっていた。
当時の僕は、未久さんの助手として指示された薬剤を調合したり、軽い怪我の応急手当をしたりしていた。今となっては、手当はともかくとしても資格もないのにあの年で薬剤を触るのはどうかと思うが…あれは薬剤というよりは魔術の触媒だから、などということはない。魔法薬学にはあまり詳しくないが、蕾ウサギは駄目だな。あの毒ガスは数秒の暴露で呼吸困難と心臓麻痺を引き起こす。しかも水に触れるだけで発生するのに煮て使えだなんて、自殺行為もいいところ。そんなことをしながら僕はあの年までよく生き延びられたものだ。
あの日も、いつものように風邪をひいた患者のために凍死した火吹きトカゲを刻んでいた。その時、顔見知りの猟師が今に息絶えそうな少年が運んできた。四、五歳くらいの幼い子供だ。肌は蒼白を超えて土気色で、手は恐ろしく冷たかった。外は相当寒いだろうに、彼は薄いニットしか着ていなかった…これは本の記述にあった、所謂雪山の脱衣矛盾か。早く措置しなければ。
タイガの冬は寒い。一人で森に入ってしまい、そのまま迷ってしまったのだ…彼は後に語っていた。栄養失調と低体温症。彼が運ばれてきたときには、もう殆ど呼吸がなかった。駆け付けた未久は直ぐに少年の体温と脈、呼吸を確認した。
「ノア、暖炉の側のブランケットと、点滴の用意を。輸液をする」
「はい」
僕が点滴台を用意している間、未久さんは少年の躰にブランケットを掛け、彼女は白衣のポケットから小型の折り畳み式ナイフを取り出した。
未久は右腕の袖を捲り上げる。美しい装飾が成された鋭利な銀のナイフ。其れをそっと手首に当て、手首の青筋に沿って滑らせた。
未久の白く柔らかな皮膚はいとも簡単に切り裂かれ、骨ばった細い指先に深紅の液体が伝う。とろとろと、どくどくと溢れ出し、点滴用のパックに流れ出ていく。未久は其れに封をして、指先から出した炎で温めた。
酷く痛々しい情景であるのにも関わらず、僕は其の神秘的な姿に惹かれて仕舞った。不死鳥の血が酷く神聖で穢れたものの様に思えて背筋がぞくりとした。きっと僕は、あの時初めて未久を殺したいと思ったのだろう。
未久の治療方法の…最終手段は、不死鳥の血を患者に与える、というものだ。未久様が自らの指を切られて零された其の血を、有象無象の人間共に。自己犠牲もいいところだ。だが、不死鳥の治癒能力はすさまじく、切ったそばから治ってしまう。其の血も然りだ。彼女は患者を死なせたことがない。ろくな設備もないあの時代に。医療従事者として働いて、初めて其の異様さが分かった。
そう、異様だ。僕は未久に色々な秘密を教えてもらった。特に厳しく「ルール」は、何としてでも破ってはならない、と未久さんから何度も諭された。その「ルール」…世界を構築する法則に反したものは、必ずや神罰が下る、とも。彼女は僕にそんなことを言っておきながら、其れを犯し続けていたのだ。
だから僕は真っ当な医者になろうとした。家の図書館には医学書も揃っていたし、そもそも、残念ながら僕には未久のような権能はない。勿論神罰を味わってみたい気持ちもあったが、未久の…神の法に背いた不死鳥の破滅など、かなり面白い代物になるだろう。それを見届けてからでも遅くはない、と。昔は考えていたものだったが、未久の輸血措置を見る度に考えが変わっていった。
未久は博愛主義だ。目に付いた命を、漏れ落ちなく総て救おうとする。例えそれが救いようのない悪人だったり、生態系に害をもたらす細菌だったり、其の命が死を切望していたとしてもだ。其のような博愛は毒にしかならない。そうとも知らず、未久は自分が間接的に壊した命さえも総て救ってしまう。救えてしまう。見境のない残酷な治療。きっと未久は、僕に対してさえ同じ選択をするのだろう。只の人間の少年と比べて、不死鳥にとって十年という時間は余りにも短い。何の疑問も抱かず、あの明るい貌で、自らの尊い血をためらいもなく差し出されて。
俺には其れが、酷く許せなかった。不死鳥だから直ぐに再生できる?其の様な問題ではない。今は何人の躰に未久様の血が流れている?いくら最終手段であるとはいえ、未久が医者として過ごした時間の中で、瀕死で運ばれた人は沢山いるのだろう。僕には推測することができない。
「私はね、ノア、楽園を創りたいんだ」
いつだったか、あれはそう言ったことがあった。
「誰もが死の苦しみを享受することのない楽園を。其処には痛みも恐ろしいものもなく、全てが永遠に平和でいられる。どう、素敵でしょう?」
両手を広げ、そう言って、未久は笑った。夢を見る少女のように、無邪気に顔を輝かせて。晴天に、雲がいくつか浮かんでいた。永遠の楽園。別に欲しいとは思わないけれど、素敵な理想だ、と、僕は珍しく素直に思ったろうか。
「…壮大な夢だね」
「そうでしょう…けれど、できるよ。だって、私は不死鳥だ。その力がある」
鮮やかな緑色の木漏れ日を浴びて、未久は心地よさそうに伸びをした。
「神様にでもなりたいの?」
「いいや、決してそんなものではない、けれど」
「何故、そのようなことをしようと?」
「だって、苦しいでしょう…大切なひとが、いなくなるのは」
薄いグレイのカーディガンから細い手首が覗いている。あれの声に、どこか悲しそうな響きが混じった。繊細な黄金の髪に隠れてその貌は見えなかったが、さぞかし…
「貴方には、其の様なかたが、いらっしゃったのですか」
未久は沈黙を返すのみだった。心なしか、口許がゆるく弧を描いているように見える。
「未久。君の夢の、手伝い、させてもらってもいい?」
「いいけれど、君に何ができるというのかい」
言葉の割には楽しそうに笑って、其れは僕の頭を撫でた。その手があまりに温かく、僕は其の指にそっと身を委ねてしまう。
「危険な旅路だよ」
「…大丈夫です。未久様のためならば。あの」
「なんだい」
「…貴方は、居なくなったり、致しませんよね」
「どうした、突然」
不審げな声に、僕ははっとして俯く。
「いえ…」
急に、不安になったのだ。絶対的存在だとばかり思っていた其れが、急に華奢で、頼りない人間のように思えて。
「何故そんなに寂しそうな顔をしているんだい、ノア。そんな筈がないだろう?私は不死鳥で、不滅なのだから」
自信満々な声。果たして、あの頃の僕は、あれの言葉を信じられていただろうか。
けれど、それから異変は直ぐに始まった。僕が十四歳になったばかりの冬のことだったか。未久は黒い手袋を付け始めた。手袋。診療をするときにつける白い綿のもの以外、今まで付けていたことはなかったのに。
「未久、その手袋、どうしたの?」
「ああ…これは猟師がくれたんだよ。カッコイイでしょう」
未久は見せびらかすように黒い革の手袋を示した。艶やかな生地が光を鈍く反射し、指の骨格を覆っている。紺色のロングコートやブーツと似合っていて素敵だった。…けれど。
「未久、僕の服を勝手に着るのはやめてって、いつも言っているよね?」
「ごめんごめん、似合うかと思って。此のブーツ、意外とヒール高いんだね?ノアも大きくなったよね。この服、もう私には大きいくらいだもん」
未久は手を伸ばして、僕の頭を撫でる。笑い声とともに細い顎の辺りで切られた髪が揺れた。明るい金髪は、光が当たる度きらきらと輝く。そっと其れを盗み見る。本当に未久は何を着ても似合う。不死鳥にはもともと性別がない。大抵の瑕を受けても死なず、転生することで命を繋ぐ不死鳥には生殖機能の必要性がないためだ。だから、人の姿をしているときは中性的な体格になる。女性のような華奢で滑らかな肩の骨格にはいつもうっとりしてしまうけれど、ふとしたときに露になる首筋の線や鎖骨は太くて、ぞくりとする。とても綺麗で、格好いい。
それから、未久は毎日のように手袋を付け始めた。当時の僕は其れが何故か気に入らなかった。だが、思えばその頃には、隠せない程に腐敗が未久を侵食していたのだろう。それに気づいたのは其の春のこと。いつものように瀕死の生物に血を分けようとした未久の、メスを滑らせようとした華奢で骨ばった中指。其処にできた、ちいさな切り疵の痕を、僕は見てしまった。冷気が血管を巡り、目の前が白く霞む感覚。今迄にそんなことはなかったのだ。目を疑った。見間違いだと、そう信じこもうとした。だって、未久は完璧な不死鳥なのだから。けれど、其の夜から、あの疵が脳裏に焼き付いて僕を離そうともしない。あの夜、僕は未久に失望した。例え如何に精巧にカットされ、純粋で美しいアメジストであろうと、疵がついてしまえばその価値は酷く乏されてしまう。あれの価値は無垢で無疵であること。そうでなければ、未久様だとしても其処ら中に転がったがらくたと何ら変わらない。そんな筈があるだろうか?あの神々しくも無邪気な輝きを放つ未久様に限って。あれは特別だというのに、僕としたことがどうかしている。だって、未久様は。
「ノア、どうしたの?最近冷たいよ?」
ぐい、と顔が近づく。僕は本に目を落としたまま生返事を返した。
「体調でも悪い?」
こつん、と熱でも測るように未久様の額を当てる。不死鳥のほうがずっと熱いに決まっているというのに。
「ちがっ…未久には関係ない!」
つい、拒絶してしまった。知られたくない。失望したなど。勝手に期待しておいて。
はっとして未久の顔を見る。叫んでしまった。未久は僕を安心させるように、一瞬、優しげに微笑む。
「はっ…これが噂の、反抗期というやつ?」
「ふふふっ…くくっ…反抗期。あのひねくれもののノアが、ねえ」
とぼけ始めた未久に、「天啓」…未久がユウと呼ぶ彼までもが便乗する。
「来ていたのなら言えばいいのに」
「いいでしょ」
どこからともなく悪戯っぽい声が響く。
「そう言えば、ユウ、ノアのこと随分と気に入っているね」
「そうかな」
「やっぱり、この子は凄い子になる。そうだろう?」
「わっ…未久、ちょっと、危な」
未久はぐっと僕の肩を抱き、引き寄せる。オリエンタル系の独特な香りが鼻腔を擽った。不死鳥の体温はやはり熱い。
「機密事項だよ」
青年の柔らかな笑い声が返事をする。
「ケチ!ユウったら、ちょっとくらい教えてくれたっていいだろう!私、もうすぐ死ぬことだし、ね?」
「駄目。文句なら上司に言って」
「え…」
信じられなかった。いや、噓だ。分かっていた。けれど…未久の死など。本来、不死鳥にとって死は大した事ではないのだが。
「ノア、どうかした?…未久、ひょっとして、言ってなかったの?」
「あ、悪い、忘れてた?かも」
こつん、と未久は拳で軽く頭を叩く。
「何故ですか?未久様は不死鳥で、死ぬことはなくて、死んでも生き返って、だから…直ぐに、生き返るんですよね」
嗚呼、あんなに動揺して。我ながら惨めが過ぎる。分かっている癖に。
「ごめんね、不治の病なんだ…もう、生き返ることはできないよ」
未久はゆっくりと近づき、申し訳なさそうに囁く。
いつの間にか気まぐれな友人は立ち去っていたようだ。
「何故?貴方は」
「審判だよ」
未久は此方に向き直り、表情を和らげた。其のまま、視線を上に向ける。
「言っただろう。ルール違反を犯した者には神罰が下る。当然の結末だ」
「それは」
知っていたけれど。僕は不死鳥の破滅を見ることを心待ちにしていたというのに、あの日、あれの言葉をあんなにも信じたくなかったのは、何故なのだろうか。
「私は死んだ患者も生き返らせてきたからね。天命に逆らってしまったから、当然破滅してしまう…今迄見逃されていたのだが」
「未久様」
未久は患者を死なせたことはない。其れが如何に特異か、あの頃の僕はよく理解していなかった。
「…楽園、は」
嗚呼、と未久は小さく呟き、おもむろに瞬きをする。
「所詮、理想は理想に過ぎないということだ。夢を持ったことが愚かだったな」
飽くまで穏やかな、諭すような声だ。本当に、似合わない。諦めてしまうのか?あんなに嬉しそうに語っていたものを、そう簡単に?其の様なこと、あっていい筈がない。
「やめてくださいよ、未久様。あなたらしくもない…そんなこと」
未久様は、無謀なことに挑戦して、子供みたいに遊んで、楽しんで、泣いて、笑って、見ていて飽きなくて。其のような御方が、何を分かったようなことを。家事すらも、僕がいないとまともにできない癖に。
「私への罰は病だ…医者でも自分は治せないし、この病は治すべきではない。自業自得だな」
息が詰まる。自嘲的に笑うそれに、何と言うべきか、言わないべきか分からず、絶句したまま見詰めるしかなかった。
「…どの様な、病なのですか」
やっと言葉が出た僕に、勉強でも教えるかのように、其れは穏やかに語りかけた。
「脳への虫の寄生と…腐敗の呪いだ。ほら、見てごらん」
ぴったりとした、しなやかな革手袋を外す。露になったゆびの、第一関節の辺りまでが、青黒く、醜く溶け落ちかけていた。此れが、未久が神ではない、不完全な生物であることの証明。
「あの、…ふれても、よろしいでしょうか」
どきどきしながら尋ねる。
「どうした?良いけれど…」
「ありがとう、ございます」
そっと、未久様の前に跪く。両手で、未久の右手を掬い上げる。白く滑らかで、僕の手より少し小さくて、やはり柔らかい。節々が微かに赤くなっている。此れにも、血が流れているのだ。右手で指の骨格をなぞり、指先の腐敗した部分に触れる。爪を立てると破けそうなほど薄い皮膚。其の下にある、融けかけた肉は恐ろしい程柔らかい。けれど、爪はまだ艶やかな淡い桃色のままだ。そっと頬に未久様の手の甲を当てる。ハンドクリームだろうか。花のように甘い香りに混じり、微かに腐臭がする。其のまま、丁寧に脣を手に沈ませる。骨ばった感触が愛おしい。そして、それから、
「…ノア?」
我に返って、未久様の目を見る。何ということだ。僕はあろうことか…
「申し訳ございません、未久様」
頭を下げる。僕としたことが、何のつもりだったのだろうか。
未久様を、喰べてしまいたいなど。
それから、ゆっくりと、未久は腐敗していったのだ。あれは指先から侵食され、やがて皮が破れ、蛆が湧いて。その分、僕が医者として診療することも、多々あった。…どんなに頑張っても、僕の手の及ばず、亡くなってしまう人も。やはり、僕らの理想…楽園を完成させる為には、未久様の権能が必要だ、と強く思うようになっていった。その間も、脳髄に寄生する生物は、未久様を取り込んで、崩していく。僕は、図書館の文献や[存在の記録]を片っ端から読み漁り、未久の権能を奪う方法を調べていった。
そして、やっと見つけたのが、十六の秋だ。とある[記録]の中にある記述の中に、化け物を喰した人間の物語が綴られていた。化け物を自ら殺し、喰らってしまったことで、彼女は破滅の一途を辿ることとなったが。
「権能は、奪える…!」
興奮で指がかたかた震える。未久はどうしようもなく化け物だ。此れなら、もしかしたら…いや、前例を、もっと調査しなければ。
其れは月光の下で微睡んでいた。
もう、時間がない。あれから、前例は結局見つからなかったが、此れ以上まごまごしていたら本当に未久が死んでしまう。
男のものとも女のものともつかぬしなやかな肢体を、とろとろとした余りに甘美な死が蝕んでいる様。まるで職人に掘られた精巧な氷の彫刻のようだ。嗚呼、本当に殺したら凍らせて、そうして仕舞おうか。いや、其れでもやはり、さらに腐敗してしまうか。未久は所詮神ではないのだから。
「未久、調子はどう?」
安楽椅子に揺られていたそれは、おもむろに目を開けた。
「良いように見えるかい、少年」
全くもって見えない。腐乱臭が部屋に満ちている。
「一つ、尋ねてもいい?」
「何だい、少年」
初めて出会ったあの日のように、未久は僕をそう呼んだ。
「あなたは、今も楽園を追おうとしていますか」
「楽園…なんだい、それは」
もう、忘れてしまったのか。だから…
「もしも、皆が永遠に、死なずに、幸せに暮らせるならば。あなたは、其の様な世界を望みますか」
「…そうは、思わないかな」
「何故」
「生きる命は、死ぬ命でもある。永遠は、進歩とは真逆である…」
「そう、なのですか」
もしかしたら、未久の、かつての理想も、誰かに影響されたものなのかもしれない。だとしても、僕はかつての未久の理想を追う。計画は、もう出来上がっているのだから。
音を立てないようにノブを回す。部屋に流れる、冷えきった空気が深い茶色の鳩時計は、午前二時過ぎを指している。昇りかけの月の光が差し込んでいた。ベットマットに腰掛け、横たわる腐肉を見つめる。香水の匂いと腐臭が混じって吐きそうだ。未久の髪が繊細な金糸のように広がり、淡く輝いていた。絹のシーツをそっと撫ぜると、繊細な影が柔く歪んだ。
未久の顔に掛かった髪を優しく払う。かつて美しかった其の顔を覗き込む。腐敗して破れた皮膚から崩れた青黒い肉塊が溢れていて、眼球が落ちかけていて。これほどに醜いもの、触れたくなどない筈なのに、惹かれてしまう。いとしくて、まるで恋人にするように頬を撫でると、溶解した何かの液体と生暖かい肉が人差し指を濡らす。そっとゆびさきを口に含む。腐臭が口一杯に広がり、独特の酸味が鼻を突き抜ける。不味くて、不味くて、気持ち悪くて。吐き出したくなるような味。こんなものを口にするなど、気が触れているとしか思えない。だというのに、未久様を喰らっているという背徳感で、おかしくなってしまいそうで。
ナイフを首筋に軽く滑らせる。恐ろしいほど簡単に、其の刃は未久を傷つけた。疵口から溢れた血が、丁寧に磨かれた凶器の表面に映る。
「どうしたの、ノア。痛いなぁ」
澄んだロイヤルパープルの瞳が此方に向けられる。けれど、其の深く、虚ろな瞳は傍らに立つ僕を映してなどはいない。決して、腐敗が進んでいるからではない。何時もそうだった。彼れは、未久様は、僕のことなど見てはいないのだ。
「なんでそんなことするのかい?言っただろう。手っ取り早く消してくれ」
其れは、何時ものようにおどけたような表情を作ろうとした。けれど、顔の筋肉は力なく弛緩する。
「ごめん、未久」
一度息を吸って、ナイフを心臓に深く突き刺す。
骨の髄まで染みついた信仰と崇拝が僕を酷く責め立てる。これが罪悪感と云うものなのだろうか。
体温が残った其れの唇にそっと口づけをする。未久の口の中で蠢いていた蛆虫であろうものが口の中に這入ってきたので、ゆっくりと咀嚼して、嚥下する。蕩けそうに滑らかな食感。味は只の虫と変わらない。けれど、虫に纏わりつく未久の肉片はえもいわれぬ程に美味だ。
頭蓋を皿状に切り、脳を摘出する。脳の中で未だ蠢く寄生虫とその卵を取り出したあと、脳を裏漉しする。刻んだブロッコリーやハーブ、人参、調味料と混ぜて、型に流し込む。オーブンで焼く。
不滅の鳥を殺した蟲は、葡萄酒の中で足搔くように踊り狂っていた。だが、暫くすると拍子抜けする程呆気なく水面に沈む。もう生きてはいない。無数の白い卵は卵膜をはがし、血合いや薄皮を取り除く。其れを蟲の漬けていた鍋に入れ、母体とともに火にかける。金色の波に小さな、それでいて醜い粒が点々と揺れていた。十分に茹った成虫は、バルサミコ酢をかけて皿に盛り付ける。付け合わせには色鮮やかなレタスを。
白い躰をフォークで刺し、ナイフで一口分に切る。弾力があり、食べ応えはあるが、素材の味は余り感じない。食感を楽しむ料理だろう。美味しい。未久を食べて育っただけあり、微かに未久の風味があることは容認できない点ではあるが。
卵は数日間、岩塩や酢、白ワインなどの調味液で漬け込み、それから一月かけて丁寧に干す。卵塊を舌でゆっくりと潰すと、無数の粒が弾け、口の中をほろ苦い液体が満たした。手間暇かけただけある出来だ。舌に柔らかく、冷たい肉塊が触れる。寄生虫に似た舌触りの、だとしたら此れは胚か。此方は味がしっかり着いている。柔らかいが歯応えがあり、滑らかな喉越しでこれもまた美味。未久様が其の躰で育てようとしていた生命を、こともあろうに食している。その事実が、僕にえもいわれぬ高揚感をもたらす。
其の夜、未久の肉体でフルコースを作った。この世のものとは思えないほど、美味しい肉だった。彼の夜ほど素晴らしい晩餐はない。僕が此れ迄生きてきた、そして此れから生きて行くであろう恒久とも思える時間の中で、一度も。
さて。楽園を作る為には、規定された運命を消さなければ。シナリオに楽園など存在しないのだ。[記録]の図書館に油を撒き、燃やす。僕は黒いフードを被り、燃え盛る家だった場所から逃げ出した。
空を暗雲が覆い、眼前には唯々グレイスケールの世界が広がっている。今はこの景色が酷く寂しいものに見える。幼いの頃は何も感じてなどいなかったというのに。
崖下を見下ろす。洪水で一度更地にされた土地には、草が乱雑に枯れていた。此処は、僕が生まれた地だ。息を吸う。冷たい秋の此処まで、随分遠かった…そう思った途端、がくりと膝から力が抜けた。僕は思わず膝を着いてしまう。
ぽつりと雨粒が一つ、僕の肩に落ちた。もう一つ、次は手の甲に。また一つ。次第に雨脚が強くなり、大粒の雨が僕の躰に降りかかる。布が重く纏わりつき、風が吹くたびに凍えそうだった。此処などよりもタイガの方がずっと寒い筈なのに。
腕で自分の躰を抱く。頬を伝う雨粒に熱いものが混じる。僕も弱くなったものだ、と滲んだ視界を嘲笑った。そして、地面に蹲って、ちいさく膝を抱えて泣いた。みっともない嗚咽だ。もう十八だというのに、まるで幼子のようだ、僕らしくもない。
この雨はまるで僕を苛んでいるようだ。等、なんて傲慢な物言いなのだろう。僕にはよのような価値などない。未久様を、殺してしまったのだから。
眼下の、かつて街だったものを見下ろす。永遠を追う旅に、人間性は要らない。此処は其れを捨てるのには絶好の場所だ。
僕は血のべったりと付着したナイフを自らに向け、目を抉った。脳髄すら刺されている程に、痛い。声も出ない程に、痛くて、痛くて、堪らなかった。おもむろにナイフを抜く。眼下には、地で少し赤く染まった荒野があった。眼球も、簡単に再生するというのか。
「ノア…お前、なんで、こんな」
困惑したような声が脳内に響く。「天啓」だ。
…何故、か。それは。
「裏切るためだ」
憎むためだけに憎み、裏切るためだけに裏切る。
「でも…」
「あはは、不老不死の躰が欲しかったとでも云えば納得するかな?身勝手な私利私欲のために神もどきの化物を殺す。裏切り者に相応しい動機だろう?」
僕は未久様を、あんなにも信仰していたと云うのに。
「だからって、目を抉ってしまうなんて…それに、こんなもの、あのお方の…時の神のシナリオには」
「これは僕の自由意志故の選択だ。お前にも、例え本物の神にだろうと、どうこう言われる筋合いなどない」
時の神の第一眷属は納得がいかないかのように呻く。わからないかな?
「そうだね…何かを憎む為には覚悟が必要だ。自らの目を潰してしまうほどの。知っているだろう?『ユウ』…」
僕は彼に触れようと手を伸ばす。傍で微かに息をのむような気配がした。そのままそっと指を彼の頬に滑らせる。
「や、やめろ…」
「そういえば、名前で呼んだのは初めてだったね。嫌だった?」
「いや…そうじゃない。ぼくらは、もっと別の話を」
「駄目?僕はあれを見たくなかっただけなのに」
「…自らの目を抉るほどの憎しみ…なんか、盲目信者と何も変わらない、っ…」
嫌悪が掠れた声に滲んでいる。自棄に動揺している。彼は予想外の事態には弱いのだろうか。
「ああ」
そうかもしれないな。だとしても。
「時守優、僕の親友。今日から君は僕の敵だ。僕が自由意思を主張する限り、世界を規定する様々な規則の敵と成りうる。其れは」
「時間も例外ではない、か」
寂しそうに声が呟いた。
「わかった…さようなら」
友人はそうして去っていった。崖に向き直る。特に恐れもなかった。トン、とブーツで軽く地面を蹴る。
そうして、僕は崖から飛び降りた。そうして、僕は初めて死んだ。そして僕は、一つ、宗教を立ち上げた。餞として、僕の、偽物の神様のために。あれを、規則とするために。
其の楽園が、僕の綴れる、永遠であるように。
いつの間にか気を失っていたようだ。ベランダに接していた右半身が痛い。夜露で髪が頬に纏わりついて酷く不快だ。立ち上がろうとするとぐらりと眩暈がした。心臓が鼓動する度に脳の神経がずきずきと頭蓋を蝕む。あの薬は、ろくに効き目もないくせに副作用だけは強烈で厄介だ。
東の空の色に白藍が混じっている。夜明けだ。カーテン越しに寝室の掛け時計を視る。ベランダに落ちていた目隠しを拾った。眼球が触れる部分には蠱毒が半永久的に供給されるように仕込んでいる。せっかく目を潰したというのに、潰したそばから再生してしまうなど滑稽だ。笑いしか出ない。
「おはよう」
耳許で未久の声が聞こえた。幻聴だ。
其方を見遣ると、未久が微笑んでいた。幻覚だ。
「おはよう、未久。調子はどう?今日も晴れるそうだね?僕は太陽が生理的に無理だし気持ち悪いし嫌いだし憎いし忌まわしいけれど、未久は太陽が好きだったよね?明るくて唯一で君はまさしく太陽のような存在だ。だから僕は太陽を受け付けなくなったのだろうね?其れは僕の目には余りにも眩しい。それこそ目を潰されてしまうほどに?いや、そんなわけがない。僕は最初から未久が嫌いだった。お前が目障りだったんだ。お前の姿を目に入れたくない。僕が自らの目を潰してしまいたいと願う程に!」
そうなんだ、と未久はただ笑いかける。僕は未久の其の表情しか知らないから。いや、貌さえ疾うに忘れてしまったというのに。なのに、此の瞼の裏に映る彼女の姿の幻影は、今でも強く焼き付いて離れない。
目隠しの裏側には、腐敗した僕の肉片がこびりついている。蠱毒を塗りたくったナイフを耳に突き刺して頭蓋を貫き、脳髄をかき回す。引き抜いた刃先から脳漿や血液が混じった液体ががぼたぼたと垂れ落ちた。
もう、幻覚は見えない。一度、深呼吸をして、立ち上がる。少しも痛くは…ない。さあ、今日も仕事だ。楽園を…理想を、創る為に。
ある裏切り者の追憶より 代高千草 @YodaCa
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