第6話桔梗屋・佐知子の部屋・数ヶ月後
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### 『曽根崎心中 anone - あのね -』
### 第五話:あのね
**1. 桔梗屋・佐知子の部屋・数ヶ月後**
部屋には、現金が入ったジュラルミンケースが、無造作に置かれている。
AV出演のギャラ。佑樹が作った借金を完済し、なお余りある金額だった。
金は、そこにある。
だが、部屋の空気は墓場のように冷え切っていた。
佑樹は、壁際に座り込み、膝を抱えている。廃人同然だった彼の目は、今は憎悪と軽蔑の光を宿し、菜々美を射抜いていた。
菜々美は、その視線を受け止めながら、ただ静かに座っている。化粧気のない顔は、すべての感情が抜け落ちた能面のようだった。
数ヶ月にわたる地獄が、二人の魂を完全に削り取ってしまっていた。
沈黙を破ったのは、佑樹だった。
声は、乾いた砂が擦れるように嗄れている。
**佑樹**
「……どうして、あんなことをした」
**菜々美**
「…………」
**佑樹**
「俺は、君を自由にするための金が欲しかったんだ! 君を汚すためじゃない!」
佑樹は立ち上がり、菜々美の前に仁王立ちになる。
彼の歪んだプライドは、菜々美の行為を「自分への裏切り」だと断じていた。彼女が体を売って稼いだ金は、彼の魂に焼きごてを当てるのと同じだった。
**佑樹**
「君は、俺たちの愛を、魂の繋がりを……自ら汚したんだ! あんな汚い金で!」
その言葉が引き金だった。
能面のようだった菜々美の顔に、初めて亀裂が走る。
唇が、わななく。
**菜々美**
「汚い……? あんたが言うんか、それを」
**佑樹**
「そうだ! 俺は、君という聖域を守りたかった! なのに君は!」
次の瞬間、乾いた音が部屋に響いた。
佑樹の平手が、菜々美の頬を打った。
よろめき、畳に手をつく菜々美。切れた唇から、血が一筋流れる。
菜々美は、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の瞳には、もう何の光もなかった。ただ、底なしの暗闇が広がっているだけだった。
その暗闇の奥から、絞り出すような声が漏れる。
**菜々美**
「……あのね、お兄さん」
それは、二人が初めて共犯者になった夜、彼女が使った呼び方だった。
**菜々美**
「うちは、15でこの街に来た。親に売られて、学校も行けんと。うちには、どこにも行く場所なんかなかった」
「あんたも、そうやったやろ?」
「偉い先生に媚び売って、金持ちのお嬢様の機嫌とって。そうせな、あんたかて、自分の居場所がなかったんやないの?」
彼女の言葉が、佑樹の心の最も深い傷を抉る。
二人は、社会からはみ出した、孤独な魂だった。だからこそ、惹かれ合ったはずだった。
**菜々美**
「うちは、あんたとなら、どこかへ行けるような気がしたんよ。この息苦しい世界から、二人で逃げられるような気がしたんよ」
「せやけど、あんたは結局、何もできひんかった」
菜々美は、ふらつきながら立ち上がる。
その瞳は、佑樹を、そして彼の背後にある世界そのものを、呪うように見据えていた。
**菜々美**
「行く場所なんて、どこにもない。分かるやろ、あんたには!」
それは、慟哭だった。
魂の底からの、絶望の叫びだった。
菜々美は、全ての責任を佑樹に押し付けるように、その言葉を突きつけた。
**菜々美**
「……さよなら、お兄さん」
そう言い残し、彼女はジュラルミンケースには目もくれず、ふらつく足取りで部屋を出ていった。
一人残された佑樹は、その場に崩れ落ち、嗚咽した。
彼女の最後の言葉が、呪いのように彼の耳にこびりついて離れなかった。
**2. 京都市内・交差点・数日後**
夕暮れの雑踏。
車のヘッドライトが、アスファルトを照らし始めている。
人々が、足早に家路を急ぐ。
交差点の向こう側で、信号を待つ人だかりの中に、一人の女性が立っていた。
それは、菜々美だった。
彼女は、桔梗の柄の、一番綺麗な着物を着ていた。それは、佑樹が初めて彼女に贈ったものだった。
白く化粧を施した顔は、不思議なほど穏やかだった。
信号が、赤に変わる。
車が、猛スピードで行き交う。
菜々美は、ふっと微笑んだ。
その笑みは、誰に向けたものでもなかった。
まるで、これから舞台に上がる役者のように。
人生という、理不尽な演目の、最後の幕を、自ら下ろすために。
彼女は、一歩、踏み出した。
赤信号を無視して、車の流れの中に。
驚いたようなクラクション。
甲高いブレーキ音。
そして、すべてをかき消す、鈍い衝撃音。
宙を舞う、黒地に桔梗の柄。
スローモーションのように、すべてが佑樹の脳裏に焼き付いていく。
**3. 佑樹のアパート・夜**
佑樹は、テレビの前に座っていた。
部屋は暗く、ついたままの画面だけが、彼の顔を青白く照らしている。
**アナウンサー**
「……本日夕方、京都市内の交差点で、若い女性がトラックにはねられ死亡する事故がありました。警察の調べによりますと、女性は赤信号を無視して交差点に飛び込んだとみられており……」
画面に映し出される、見覚えのある着物の柄。
散乱したかんざし。
『身元不明』というテロップ。
佑樹は、何も感じなかった。
涙も出なかった。
ただ、わかっていた。
これは、事故ではない。自殺でもない。
これは、彼女が自分と、そして彼女を追い詰めたこの理不尽な社会に対して行った、復讐の完成なのだ、と。
彼女は、死を選んだのではない。
「死」という最も雄弁な手段で、語りかけたのだ。
――あのね、お兄さん。
――あんたが、うちを殺したんよ。
――あんたは、これから一生、うちの死を背負って生きていかなあかん。
――どこにも、逃げ場所なんてないんよ。
彼女の最後の声が、頭の中で木霊する。
菜々美の愛は、呪いとなった。
佑樹を救うのではなく、彼の魂を永遠に縛り付ける、消えることのない十字架となった。
テレビの光が消え、部屋は完全な闇に包まれる。
その闇の中で、佑樹は、これから永遠に続く地獄の始まりを、ただ一人、受け止めていた。
(了)
『曽根崎心中 anone - あのね -』 志乃原七海 @09093495732p
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