第5話桔梗屋・佐知子の部屋・数週間後



---


### 『曽根崎心中 anone - あのね -』

### 第四話:螺旋


**1. **


祇園の夜は、何も変わらず更けていく。

だが、置屋『桔梗屋』の内の力学は、完全に逆転していた。

佐知子は、帳簿をめくりながら、淡々と指示を出す。その横では、かつての女将が、まるで借りてきた猫のようにお茶を淹れている。


佐知子は、あの宣言の後、すぐに行動を開始した。

馴染みの客の中から、特に羽振りが良く、野心のある実業家たちに的を絞り、巧みな話術と色香で彼らを籠絡。佑樹との一件で祇園中に広まった「500万の男を袖にした気骨のある芸妓」というスキャンダラスな評判が、逆に彼女の「商品価値」を吊り上げていた。

彼女は客たちから巧みに金を引き出し、それを元手に女将が抱えていた借金を肩代わりし、置屋の経営権を事実上、掌握したのだ。

女将は、恐怖と諦念のうちに、実権を明け渡すしかなかった。


**佐知子**

「…おやかたさん。来月から、お茶屋への花代(※芸妓の代金)、一割上げといてください。うちの名で、手紙を」


**元女将**

「そ、そんなことしたら、お得意さんが離れてしまう…」


**佐知子**

「離れまへん。値打ちが上がれば、客はむしろ喜んで銭を払う。それがこの街の流儀どす」


言い返す言葉もなく、元女将は黙って頷く。

部屋の隅には、布団が敷かれている。そこに、廃人のように虚ろな目をした佑樹が横たわっていた。

大学を追われ、友人たちからも見放された彼は、完全に社会から孤立していた。そんな彼を、佐知子はこの部屋に匿い、「飼って」いるのだった。


**2. 同・部屋・夜**


佑樹は、天井の木目を数えながら、自分の無力さを噛み締めていた。

佐知子は、夜の座敷から戻ると、疲れた顔も見せず、佑樹の世話を焼く。食事をさせ、風呂に入れ、まるで壊れ物を扱うように、優しく接する。

だが、その優しさが、佑樹のプライドをナイフのように切り刻んでいた。


**佑樹**

「……俺は、君に飼われているのか」


ぽつりと漏れた言葉に、佐知子の手が止まる。


**佐知子**

「……ううん。守ってるだけ。あんたは、うちが外で戦うための、たった一つの理由なんやから」


**佑佑樹**

「理由…? 俺は、君の重荷になっているだけじゃないか!」


佑樹は、思わず声を荒らげる。

エリート大学院生だった自分が、芸妓の稼ぎで生きながらえている。この屈辱が、彼の精神を少しずつ蝕んでいた。

――俺が、彼女を自由にしなければ。

その思いだけが、かろうじて佑樹の心を繋ぎとめていた。


**佑樹**

「金がいるんだ。君を、こんな世界から連れ出すための金が……」


佐知子は、何も言わず、ただ悲しげな瞳で佑樹を見つめていた。


**3. 京都市内・数日後**


佑樹は、かつての知人や先輩を訪ね歩き、金の工面を試みた。

しかし、彼の行く先々には、既に美咲の手が回っていた。


「悪いが、君に貸せる金はない。教授を怒らせた君と関わると、こっちの身が危ないんでね」

「斎藤、お前まだ美咲さんに謝ってないのか? 彼女、本気で怒ってるぞ」


どこへ行っても、向けられるのは冷たい視線と拒絶の言葉だけ。

彼は、自分が思っていた以上に、社会という名の細い糸の上で生きていたことを痛感させられた。その糸は、美咲によって、すべて断ち切られてしまった。


焦りと絶望から、佑樹は手を出してはいけない領域に足を踏み入れる。

学生ローン、消費者金融、そして最後は、闇金。

借金は雪だるま式に膨れ上がり、彼は完全に首が回らなくなった。


**4. 桔梗屋・佐知子の部屋・夜**


桔梗屋の住所で借りていたアパートの郵便受けは、督促状で溢れかえっていた。

それだけではない。

『泥棒猫』『人殺し』

差出人不明の、赤い文字で書かれた嫌がらせの手紙が、毎日何通も届く。美咲の仕業であることは、明らかだった。


佑樹は、その手紙の山を前に、完全に心を病んでいた。

ブツブツと何かを呟き、時には壁に頭を打ち付ける。かつての知性や野心の面影は、どこにもなかった。


佐知子は、そんな佑樹の姿を、ただ黙って見ていた。

彼女の瞳には、もはや悲しみの色はない。あるのは、すべてを諦め、覚悟を決めた者の、静かで昏い光だけだった。


ある夜、佐知子は夜会巻きを解き、化粧を落とすと、一枚の派手なワンピースに着替えた。

それは、芸妓『佐知子』のものではなく、ただの女『佐藤菜々美』が着る、安っぽい服だった。


**佑樹**

「……どこへ、行くんだ?」


かろうじて言葉を発した佑樹に、菜々美は振り返って、静かに微笑んだ。

それは、聖母のようでもあり、悪魔のようでもある、不思議な笑みだった。


**菜々美**

「……あのね、お兄さん」

「借りたもんは、返すのが筋やろ? 元金ぐらいは返すのが、この街の流儀なんよ」


その言葉の意味を、佑樹はすぐには理解できなかった。

菜々美は、部屋を出ていく。

祇園の華やかな表通りではなく、裏の、もっと深く、暗い路地へ。


彼女はまず、場末のスナックで体を売った。

次に、ソープランドの分厚い扉を叩いた。

それでも足りないと知ると、最後には、AVの出演契約書にサインをした。


自らの身体を、尊厳を、未来を、一枚、また一枚と切り売りしていく。

それは、愛する男を救うための自己犠牲ではなかった。

これは、復讐だ。

自分と彼をここまで追い詰めた、美咲へ、社会へ、そして、自分から全てを奪っていく佑樹という男への。

破滅への螺旋は、もう誰にも止められない速度で、奈落の底へと加速していく。


(第四話・了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る