溜め池の河童

をはち

溜め池の河童

家の裏手にある溜め池には、河童が棲んでいる。


誰もがそう言う。


少なくとも、僕たち子供の間では、それが本当のことだった。


年長の連中は、僕たちがそんな話をすると鼻で笑い、「馬鹿らしい」と吐き捨てる。


でも、溜め池の周りに立っている看板を見れば、誰だって信じるはずだ。


看板は古びた木製で、苔むした縁には時間の重みが刻まれている。


一枚には、「かっぱがでるぞ!」と赤い文字で書かれ、


緑色の河童が子供の足を掴んで水底に引きずり込む絵が、妙に丁寧に描かれている。


もう一枚には、河童が水面から顔だけ覗かせ、きゅうりを咥えてこちらをじっと見つめる姿。


目が合った瞬間、背筋がぞくりとするような、不気味な視線だ。


こんな看板が、溜め池の周りにいくつも点在しているのだ。


こんなものを大人がわざわざ作るなんて、河童が本物でなければおかしい。


「だって、大人は嘘をつかないよ」と、僕は友達に言い聞かせた。


家で嘘をつけば、父さんに棒で尻を叩かれる。


そんな恐ろしいことになるのに、大人がこんな看板で嘘をつくはずがない。


だから、河童は本当にいる。


間違いない。


ある日、僕は一つ年下の勝と直也を連れて、河童を捕まえる計画を立てた。


溜め池に近づきすぎると、足を掴まれて水の底に引き込まれる。


だから、遠くからエサを投げ込む作戦だ。


それぞれがエサを持ち寄り、紐に結んで水面に投げる。


僕はきゅうり。直也は古い人形。


勝は「当日まで考える」とだけ言って、その日は別れた。


約束の日、僕は誰よりも早く溜め池に着いた。


朝霧が水面を這い、静寂があたりを包む中、紐に結んだきゅうりをそっと水に投げ入れた。


波紋が広がり、ゆらゆらと揺れるきゅうりが水面に浮かぶ。


少し遅れて直也がやってきて、色あせた女の子の人形を紐に結び、ためらいがちに水へ放った。


二人でじっと水面を見つめるが、河童は現れない。


時折、魚が跳ねるような小さな音が聞こえるだけだ。


通りがかった年長の子供たちが、僕たちを見て嘲る。


「おい、河童つれたかー?」と、いつもの調子で笑い声が響く。


僕と直也は顔を見合わせ、黙って水面を睨んだ。


だが、その笑い声が、ふいに途切れた。


代わりに、ざわめきが広がる。


「おい、お前、大丈夫かよ……」と、誰かが震える声で呟いた。


空気が一変し、まるで冷たい風が吹き抜けたようだった。


振り返ると、遅れてやってきた勝が立っていた。


彼の姿に、僕の心臓は一瞬止まった。


勝は、弟の首に太い紐をぐるぐると巻きつけ、引きずるようにしてこちらへ歩いてくる。


弟の顔は青白く、目は虚ろに揺れ、足は地面を擦るように動いていた。


まるで、操り人形のようだった。


「勝、何だそれ!?」


僕は叫んだが、勝はただ無言で微笑み、弟を連れて近づいてくる。


その目は、どこか遠くを見ているようで、底知れぬ暗さを湛えていた。


年長の子供たちが慌てて大人を呼びに行き、溜め池の周りは騒然となった。


大人がやってきて、勝と弟とを離した。


理由を問いただされ、勝は何も答えなかった。


ただ、じっと溜め池の水面を見つめていた。


その後、しばらくして、河童の看板はすべて撤去された。


まるで、何かを隠すように。


大人たちは「河童を退治した」と言う。


でも、僕は知っている。


あの日の勝の目は、看板に描かれた河童の目と同じだった。


水面からこちらをじっと見つめる、冷たく、底知れぬ目。


あれは、河童を退治したのではなく、河童が勝の中に棲みついたのだ。


今も、溜め池の水面が静かに揺れるたび、きゅうりを咥えた何かが、こちらを見ている気がしてならない。

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溜め池の河童 をはち @kaginoo8

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