薄氷の恋

書峰颯@『いとこ×なじみ』配信開始!

第1話

 大学で知り合った彼女との仲は、別に悪かった訳じゃない。

 二十七歳で結婚までしているのだから、悪いはずがなかったんだ。


「今日遅くなるから、先に寝てていいからね」


 以前は語っていた遅くなる理由も、最近は何も言わず。

 語ったところで彼女の言葉全てが嘘なのだから、語らない方が清々しいまである。


 有堂うどうユリカ、旧性、花園はなぞのユリカ。


 化粧品会社に務めている彼女は、見栄えもよく人柄も良い。

 研究職として入社し、今では主任という立場も与えられている。


 誰もがうらやむ女性。

 そんな彼女と結婚し、五年が経過している。


 そしてその五年で、彼女の心のダムから僕への愛情は、どうやら枯れ果ててしまったらしい。


『今日楽しかった、また会おうね』


 夜遅くに帰宅したユリカが浴室へと向かった後、テーブルに残されていたスマートフォンが僕へと彼女の裏切りを教えてくれる。


 ロック画面に表示された、言葉少なの通知文。

 この男とシャワーでも浴びてきているのだろうから、風呂なんか入る必要ないだろうに。


 染み付いた臭いがたった一回のシャワーで取れることもなく、僕の好きなメーカーのシャンプーとラブホテルの安価な臭いだけが残るシャンプーが混ざった悪臭を放ちながら、それでも彼女は僕の隣のベッドで横になる。


 別々の部屋にしてもいいんだよ?

 以前そう伝えたところ、ユリカはそれを拒絶した。


「同じ部屋がいい」

 

 浮気しているのに?


 もう彼女としたいとは思わないし、一緒の部屋で寝る意味なんかどこにも無いと思うのだけど、それでもユリカは一緒の部屋を望み、当然のように僕の隣で眠る。


 一体何がしたいのか。

 何を彼女は求めているのか。


 聞いて欲しいのか。

 問いただして欲しいのか

 それとも黙っていて欲しいのか。

 今の関係を続けて欲しいと思っているのか。


 様々な疑念が頭をよぎるも、僕は何も言わず。

 ユリカのせいで、毎日が虚無で、灰色だった。


「離婚しちまえばいいんじゃねぇの?」


 会社の同期、巻島まきしまさとるが当然のように言葉にする。

 ユリカと離婚、それも当然考えている。

 いや、それが当然なんだと思う。

 だって、浮気をされているのだから。


 もしこれからの未来、ユリカが妊娠したとしても、その子供は絶対に僕の子供ではないし、僕はそんな子供のことを愛せるとは思わない。


 愛するどころか殺してしまうかもしれない。

 だって、その子は裏切りの象徴なのだから。


「まぁ、結構な恋愛結婚だったもんな。嫁さんを最後まで信じたいって気持ちは分からないでもないけど……でもお前、酷い顔してるぜ?」


 毎朝顔を見ているから知っている。

 眠れないし、食べれないし、飲めないし。


 ユリカが作ったものを食べようとするだけで吐いてしまうのだから、僕の体は弱っていくばかりだ。


 そしてそんな僕のことを、彼女は心配する。

 

 嫌いなものあった? 

 ごめんね、次はちゃんと作るから。


 その笑顔と優しさがユリカの真実だと信じたい。

 僕の心に残る彼女への愛だけが、今ある全てだ。


 心は彼女を求めている。 

 だけど身体は拒否反応を示してしまう。


 僕は一体、何を求めているんだろうね。

 自分が自分で分からないよ。


「あれだな、今のお前に必要なのは、どうしようもない程の罪悪感だな」


 咥えたタバコから煙を更かし、巻島は言った。


「嫁さんの浮気が許せない、だけど離れられない。離婚と継続、どちらにも傾けられないのは、お前が完全なる善の存在だからだ」


「……言ってる意味が分からないんだけど」


悠全ゆうぜん、お前も浮気をすればいいんだよ」


「僕が浮気?」


「お前も浮気をすれば嫁さんの浮気を咎められなくなるし、お前だって嫁さんを許せるようになる。相手の男への恨みもあるだろうが、お前だって同罪だ。相手が間違いなく悪だがお前も悪になる。どうだ? 天秤が釣り合うだろ?」


 その天秤は、きっとどこまでも歪んでいると思う。

 良い提案だとは、僕の口からは言えなかった。

 

「それに、最近だと既婚者同士のマッチングアプリもあるしな。まぁそれだと相手も遊び目的だろうけど、一発気楽に行ってみたらどうよ?」


 気が乗らなかった。

 同じ土俵に上がること。

 それはつまり、ユリカを裏切るということだ。


 思い出の中の彼女はいつだって笑っていて、僕に甘えてきて、優しくて、綺麗で。僕はユリカのことしか考えていなかったし、それ以外なんてありえないって、思っていたのだけど。


『アフターピル、飲んでおくように』


 見せつけるように置いてあったスマートフォンを眺めたあと、部屋に戻り、布団を頭から被った。


 叫びたいのを我慢し、行き場の無い感情のまま、同僚に紹介されたアプリを起動する。


 既婚者だけの出会いの場、そこに求めるは、単純なる快楽と、失ってしまった温もりだ。




 土曜日、目が覚めるとユリカは隣で眠っていた。

 

「ちょっと出かけてくる」


 返事は無い。

 もともと期待もしていない。


 僕の挙動不審な動きに気づいて不安になるとか、そういうのはもう、ユリカには無いんだ。


 同じようにスマートフォンをテーブルに放置したところで、たとえその瞬間にマッチング相手からメールが入ったとて、彼女はきっと何も感じない。


 玄関に手を掛け、彼女がいる部屋の扉を眺める。

 いってらっしゃい、気を付けてね。

 そう言ってくれたのは、もう何年前のことか。


「初めまして、私、花桐はなぎりマヤと申します」


 同僚が紹介してくれたマッチングアプリは、マッチングした相手との会話ではなく、待ち合わせ場所を伝えてくるものだった。

 

 年会費が必要な分、業者はいない。


 そういう謳い文句だったのだから、本当の女性が来るのが当然なのだとは思うけど。

 こうして本人を目の前にしたとて、未だに疑う自分がいる。


 業者なんじゃないか。

 美人局なんじゃないか。

 

 どうにも出来ないでいると、彼女の方から語り始めてくれた。


「えっと……有堂悠全さんって、もしかしてこれ、本名だったりします?」


 もちろん本名だ。

 人間関係に大事なのは嘘をつかないこと。

 それが当然のことだと思っていたのだけど。


「こんな一回ぽっきりの関係に嘘も何もないですよ。イミテーションでいいんです、嘘だらけの中でただただ互いの時間を楽しむ。それだけでいいんです」


 花桐さんは偽名なのか? そう問うと、彼女は温かな笑みを浮かべ、静かに首肯しゅこうした。


「ここにいる私は、何もかもが嘘ですから。安心して全てを曝け出していいですよ。その分、私も曝け出しますけどね」


 ここまで話をして、ようやく、僕は彼女のことを見た。


 淡いブラウンに染めた髪、長くなく、自然と波打つ髪はショートにまとめられていて、見ただけで活発そうな、純然そうな印象を与えてくる。


 瞳も大きく、純粋さを感じられるその瞳からは、マッチングアプリで簡単に嘘をつきそうな雰囲気は、どこからも感じられない。


 既婚者というのはなんとなく雰囲気で分かるし、彼女の左手の薬指には、燦然と輝くエンゲージリングが嵌められている。


「それじゃあ、どこかに行きますか?」


 どこかに行く。

 言われるまで、そのことに気が付かなかった。

 

 こうして異性と二人っきりで会うだけで、ある意味、僕の目的は達成されてしまっている。


 ユリカの知らない事実を作ること。

 それだけで、僕は満足してしまっていたんだ。


 でも、それは花桐さんにとって失礼に値する。

 遅まきならがに気付いた真実を、僕は素直に彼女へと告げた。


「え? 会って終わりだと思った? ふふっ、面白い人ね。まぁ、それでもいいけど、私としてはちょっと気分転換もしたいかな」

 

 どこか、行きたい場所でもある?

 尋ねると、彼女は両の頬に笑窪を作った。


「そうね……定番だけど、映画でも観に行きましょうか」


 恋愛を求めるマッチングアプリで、何もせず映画を観て、それで終わる。

 これはある意味、花桐さんからの拒絶、という名の意思の表れなのだろう。

 

 映画を観て、簡単な食事をして、それで終わり。


 賞味五時間もない僕の初めての浮気は、あっという間に幕引きとなった。


「おかえり」


 珍しく、ユリカが僕を出迎えてくれた。

 いや、出迎えた訳じゃない。


 たまたまトイレから出てきて、そのまま僕の方を見ながらそう言っただけのこと。


「ただいま」


 当然のことを言葉にし、僕はそのまま風呂へと向かった。

 花桐さんの匂いが残っているかもしれない。

 なぜかそう思い、自然と足が風呂場へと向かっていたんだ。


 ユリカから何か言われるかも。

 それは期待なのか、恐怖なのか。


 結局その日、ユリカは何も言わず。

 いつもどおり、僕と同じ部屋で眠りについた。


 帰ってからずっと、生きた心地がしない。

 これが罪悪感だというのならば、僕には不要だ。


 アプリも消して、これまでの生活に戻ろう。


 そう思った矢先、僕のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。


 そういえば別れ際、花桐さんと連絡先を交換した記憶がある。

 律儀に別れを告げにきたのか。


 そう思いながら画面をタップすると、そこには丁寧な文章で、僕の思惑とは違う内容が、記されていた。


『今日、とても楽しかったです。勝手ながら、悠全さんとまたお会いしたいと思います。ご都合の宜しい日で大丈夫ですので、また私のワガママにお付き合い願えないでしょうか?』


 しばらくの硬直。

 その後、僕は了承のメールを送信した。 

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