第2話

昼休み。

校舎の裏手にある細い通路は、人気がなかった。体育館と校舎のあいだに挟まれたその場所は、壁が近く、足音も反響しない。風も通らず、地面はわずかに湿っていた。


吉田は、その通路の自販機のそばに座っていた。

袋に入った菓子パンを少しずつちぎって口に入れながら、足元に置いたギターケースを気にしていた。


ここに来るのは、誰にも話しかけられたくなかったからだった。


だが、数メートル先に誰かの気配があった。

自分より少し体格の大きな男子が、制服のシャツをくしゃくしゃのまま羽織り、足元には黒いソフトケース。スマホをいじりながら、時折空を見上げていた。


この場所に他人がいるのは、珍しい。

吉田は視線を落としたまま、目を合わせないようにパンをかじった。


「それ、ギター?」


吉田は反応しなかった。


「……ソフトケース。俺のと似てるなって」


沈黙のまま、パンを噛み続ける。


「……もしかして、選択音楽で同じだった? 三年の星崎っていうんだけど」


ようやく、吉田は顔を上げた。

相手の顔を確認するように、わずかに目を細めた。


「……知らん」

「そう? あー……まあ、無理もないか。なんか、あんまり喋ってなかったもんね」


返事はしなかった。

星崎は立ち上がり、膝のギターケースを軽く叩いた。


「俺も弾いてるんだけど、全然上達しなくて。Fコード、特にひどい」


吉田は視線を少しだけ動かし静かに口を開いた。


「……それだけじゃない」

「え?」

「Fだけ鳴らんやつだいたいフォーム全体が雑」

「うわ、厳しい。でも、たぶん当たってる」


星崎は笑った。嫌味な感じはなかった。

だが吉田は、それにも反応を返さなかった。


「なあ……ここ、いつもいるの?」

「別に」

「俺、最近教室の空気がしんどくてさ。……ここ、静かでちょうどいいなって思って」

「……そう」

「また来ても、いい?」

「勝手にしたら」


星崎は苦笑したが、それでも嫌な顔はしなかった。


「じゃ、また来るわ。話しかけないから、安心して」


そう言って、ポケットに手を入れながら、ゆっくりと廊下の方へ去っていった。

吉田はそれを見送らず、パンの袋をたたんで、膝の上のギターケースに手を置いた。


数日後の昼休み。

吉田は、いつものように校舎裏の通路に向かった。変わらない場所。誰も干渉してこない時間。風は弱く、空はうっすら曇っていた。


いつもの自販機のそばに腰を下ろし、袋からパンを取り出す。

ギターケースは体の横に置いた。目立たないよう、壁に寄せて。


だがその日は、少し違っていた。

すでにその場には、星崎がいた。

通路の奥。制服姿のまま、ギターケースを開けて弦を張り直していた。


顔は上げなかったが、吉田が来たことには気づいていたようだ。

それでも、声はかけてこない。


吉田は無言のまま、少し離れた場所に座った。

お互い、向かい合わない角度。間には、湿った空気と沈黙だけがあった。


やがて、星崎がギターを膝に乗せ、静かに弦を鳴らし始めた。

音は小さく、コードも簡単なものばかりだったが、丁寧に押さえられていた。


「……今日、音出していい?」


低く、壁に反響して届くような声だった。

吉田は返事をしなかった。

代わりにケースを開け、ゆっくりとギターを取り出した。


それが、返答だった。

言葉は交わさず、ただ弾く。

コードは違っていた。タイミングも合っていなかった。


それでも、吉田はそれでいいと思った。

誰かと一緒にいても、無理に合わせなくていい。

声を出さずに、その場にいられる。


そんな時間は、これまでの生活にはなかった。

やがて、星崎がリズムを少しずつ落としていった。

それに合わせて、吉田も手を止める。

沈黙が戻った。


「……ありがと」


星崎がぽつりと言った。

吉田は、それにも返事をしなかった。

指先で、ギターの弦を軽く撫でただけだった。


だが、それでよかった。

会話をしなくても、ほんの少しだけ伝わるものがあった。


昼休みが何度か過ぎた。

校舎裏のあの場所に、吉田と星崎は、言葉少なに並んで座っていた。


きっかけがあるわけでも、約束をしているわけでもない。

どちらかが先に来て、もう一人が自然にそこへ向かう。ただそれだけ。


「……合わせる?」


星崎が初めてそう言ったのは、少し風の強い日だった。

吉田はチューニングを終えたばかりで、星崎はコード進行を口ずさむように弾いていた。


吉田は一拍だけ間を置いてから、無言でAmを弾いた。

それに、星崎がCを合わせた。


決まりはなかった。

コードがずれても、リズムが合わなくても、それでいいと思えた。

合わせるというより、寄り添うような音。


ふたりとも、視線は交わさなかった。

ただ、足元の影と指先の動きだけを見ていた。


「……なんか、こういうの、ちょっと変な感じだな」


星崎が笑いながらつぶやいた。

吉田は反応しなかった。

だが、コードの流れを崩さずに続けた。

星崎がハミングを乗せた。小さな、旋律にならない音の線。


それが重なっても、吉田は止めなかった。

むしろ、コードにテンションを加え、音に少しだけ広がりを加えた。


「お、今のなんか、かっこよかった」

「……そう」

「お前、そういうときだけコード変えるよな」

「気分」

「だよな」


ふたたび、音だけが流れた。

午後の空は少しだけ明るくなり、校舎の壁が陽光を反射して通路を照らしていた。


チャイムが鳴った。

吉田はギターをケースに戻し、星崎を見ずに立ち上がる。


「じゃあ、また」


そう言ったのは、星崎だった。

吉田は振り返らなかった。

だが、歩き出す足取りが以前より軽くなっていることに、気づいていた。

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