犬とブロッコリー
穂樽
犬とブロッコリー
コタローはゆっくりと目を覚ました。
寝不足な少年と一人の母親が白い食卓で朝ご飯を食べている。二人はぼうっとテレビを眺めていた。テレビには「栄養食導入、自然食廃止へ」とある。栄養食一つで一食が完了する代物だそうだ。
「いただきますも言う必要がなくなるのねえ」
母親は暢気に言った。
「昔は蚊も蝉もうるさかったけど、最近は生き物もずいぶん減ったわね」
静かだわぁ、と目を細める。夏の斜陽がリビングを不均衡に照らす。人工的な空間が温かみを帯びる。母親がテレビを眺めて、ぺちゃくちゃ何かを言う間に、少年は手元のブロッコリーをビニール袋にうつし封をした。コタローは大人しくじっとそれを見つめる。少年はコタローの視線に気づいたが、数秒の沈黙の後ブロッコリーをポケットにしまった。
朝食後、コタローが植物のほとんどない庭をうろうろと歩いていると少年がしゃがみ込み何か作業をしているのを見つけた。少年は都市の中でも数少ない花壇にブロッコリーを一つずつ埋めている。そういえば日曜だというのに少年は早起きだった。此れの為かとコタローは解釈した。
コタローが近づいて首を傾げると、少年はコタローを見ずに、気になるか?と言った。
「僕の宝物が埋めてあるんだ」
少年の瞳は何処かいつも大人びていた。それは一見都市の少年らしい達観した目に見える。
「此処に埋めといたら、いつでも大切なものを思い出せるだろ?」
子供らしい発想だ。少年は夢中でブロッコリーを埋める。それを応援するかのような気持ちでコタローは少年の膝を舐めた。すると少年がはたと振り返ってコタローを見た。コタローは戸惑う。その膝が赤く染まっていたからだ。しかし少年はきらきらと幼い希望を秘めた瞳でコタローを見つめる。
「心配してくれたのか?」
コタローはくうんと鳴いた。少年はふにゃりと笑う。嬉しそうだ。
「ありがとう」
その傷はこの前、道路でこけて怪我した時のものだった。唾液が染みるのか、そう説明する少年は痛そうだったが、同時に幸せそうでもあった。宝物を埋める時は苦しそうなのに、怪我をした時は楽しそう。コタローにとって少年は訳の分からない人間だった。
☆
昔、コタローはもっと我儘だった。少年は思う。コタローは我儘じゃないとコタローじゃない。コタローはあんな変に無機質な性格ではなかったのに。
少年の心の中で、あの日からくるくると気持ちが渦を巻いている。
「――くん、――くん」
ふと現実に戻ると、同級生の少女が目の前に立っていてハッとする。膝大丈夫?と彼女は首を傾げた。都市の隅にある公園、その公園の角ベンチに少年と少女は座っている。
「一週間前、怪我したやつだよね。痛かったよね」
少女は一生懸命少年を慰める。少年が「今もちょっと痛い」と言ったら、少女は同情の目をこちらに向けた。都市の公園はただ広いだけで何もない。他の同級生もちらほら見えるが皆ゲームか何かをしている。いつまで公園で時間を潰すか考えていると、少女はふと顔を上げた。
「あ」
耳元でぷうんと声が聞こえる。蚊だ。
「珍しいね」
少女はそう言って蚊を見定めると、両手でパンとそれを仕留めた。音もなく蚊が死んで、少女の手がちょびっと赤に染まる。
「誰か刺されてる。――くんかも」
少女はにっこり笑って「捨ててくるね」と言った。それが無邪気で、少年は心のどこかが沸々と煮立っているのを感じた。痒さを感じて自分の足を見ると、案の定そこはふっくらと膨らんでいた。掻く気は起きなかった。
少年が帰宅すると、家には誰もいなかった。少年は電気をつけることなく部屋に入った。コタローもそれに続いた。
ところどころ犬用品が置いてあったが、基本的には子供のものとは思えないほど簡素だ。時々違和感のあるスペースがある。何かが置いてあった跡らしい。
ベッドにそのまま寝ころんだ後で、餌をやらなくちゃ、と少年は思った。少年は夕飯のブロッコリーを箱に入れ、コタローに差し出した。コタローは依然としてそこから動かない。
「あ、、、」
少年は自分のしていることの無意義さに気が付いた。ブロッコリーの乗った右手が引っ込められなくなる。
「そうか、いらないんだよね」
コタローはしばらく黙った後、甘ったれた声でくうんと鳴いた。犬らしい鳴き声だった。すると突然、コタローの声が途切れる。ぎぃ、ぎぃ、ぎ、ぐ、と歯車が噛み合わない音がした。数秒して、コタローは元のコタローに戻る。再びコタローは義務的に少年を求めた。その時、少年の中で何かがぷつりと途切れる音がした。
少年は小さなこぶしを振り上げ、勢いよくコタローに向けそれを振り下す。しかしコタローに触れる直前にそのこぶしは止まった。コタローは瞬き一つしなかった。
少年のこぶしが情けなくコタローの肌に触れる。かつんと寂しい金属音が鳴った。
コタローは一週間前に事故で死んだ。
コタローは生前、ブロッコリーが好きだった。少年もブロッコリーが好きだったので、最初はあげるのを拒んだ。しかしコタローはズボンの裾を引っ張って縋るので、いつしか二人は一緒にブロッコリーを食べるようになった。コタローの我儘が少年は好きだった。
「なんだよ、コタローぉ。本当にブロッコリーが好きだなあ、もお」
銀のフォークで緑のそれを刺し、コタローにやる。あいつはそれをはぐはぐと美味しそうに食べた。可愛かった。少年もそれを食べた。少年はふにゃり、と笑う。
「お揃いだな」
「ごめん」少年は謝った。心にできた穴を埋めるように少しだけ泣いた。上手に涙は零れず、少年はコタローを強く抱きしめる。しかしコタローは少年を満たすだけの温みを持ち合わせていなかった。無機質な黒い部屋は乾燥しきっていたが、少年は何かを求めるようにいつまでもコタローを抱きしめていた。
☆
死んだコタローの代用品、犬型ロボットは起動した。
背筋を伸ばした少年が白い食卓で朝ご飯を食べている。母親はお弁当の準備で台所を駆け回っている。少年はぼうっとテレビを眺めていた。テレビには「栄養食本格的普及」とある。
犬型ロボットはひょいと食卓に飛び乗る。ブロッコリーをじっと眺めた。その犬らしい我儘な行動が意外だったのか、母親はロボットをちらりと一瞥しておやという顔をした。
「随分と犬っぽくなってきたわね、コタローの代わりは」
母親はぐりぐりとロボットを撫でてタッパーに詰めたブロッコリーを食卓に置いた。それと同時に「栄養食本格普及」の文字も目に入れる。
「楽になっていいわあ。でもブロッコリーは買いにくくなるわね、あなた好きなのに」
「好きじゃないよ」
少年は反射的にそう答えた。母親は不思議そうな顔をする。少年はどこか艶やかで無垢な笑顔でこう答えた。
「もう子供じゃないんだから」
母親はませた息子を見て、それもそうね、と答えた。食卓の余白が今日も夏に照らされていた。静かな七月が始まる。
犬とブロッコリー 穂樽 @hotaru-1185
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