緑の人

深海の竹林

緑の人


 世界が少しくらい変わっても、学生の生活なんてものはそう変わるものではない。学年が一つ上がった僕はいつものように、学校帰りにスーパーで買い物をする。特に何かを渇望しているわけではないが、ちょっとした変化を期待しても罰は当たらないだろう。

 

 それが叶ったのか、買い物袋を手に提げて帰ると、庭の花壇が様変わりしていた。小さな庭はいつも母の趣味で季節の草花で彩られる場所であるが、それらが取り除かれた表土は黒いマルチに覆い隠されようとしてた。


「花壇無くすの?」

「あら、おかえりなさい」

 驚いたように声を上げた僕に、ガーデニング姿の母が振り返える。


「だってグリーンマンが生えてきたら怖いじゃない。植物が生える所ならどこにでも生えてくるかも知れないって、前橋さんも言ってたし—―—―」

 特に参った様子も無く、声だけは困ったように応じる母。そこにはすぐに感化されてしまう母の人柄が出ていた。これもまたいつものことである。


 今日もグリーンマンが生えてくるかもしれないという噂で、すぐに花壇を無くしてしまったようだ。グリーンマンを見たことが無い僕からすると、庭にグリーンマンが生えてきたら愉快だろうな、という思ってしまうのだった。





 グリーンマン、その出現はつい最近のことになる。

 最初の報告はアメリカのアイダホ州。農夫が畑に見慣れない葉が生えているのに気づいたのだった。邪魔に思った彼は引き抜こうと茎を掴んだところ、なんとその植物が蠢いたのである。そして土から顔を出したのは、頭に葉を生やした緑色の人間だった。これが人間とグリーンマンの初めての邂逅である。その見た目は完全に緑色の人間そのものであった。

  

 唖然としていた農夫に、グリーンマンは笑いかけて、〝やあ、今日はいい日和だね〟と挨拶をしたのである。


 それからのこと、世界各地でグリーンマンが生えてきたのであった。彼らは人の姿をしているが、土と常に腰から伸びる尾のような根を介して繋がっているため、大きく移動はできない。調査している研究者によると、グリーンマンは人間同様に動くが紛れもなく植物であるらしい。何とも不思議なことだが、気安く手を挙げて挨拶を交わせる植物なのである。





「うーん、美味しいわ」

 母がグラタンを口に運んで頷き、父も〝彰は料理が上手だな〟と褒めてくれる。料理に舌鼓を打つ二人に、僕は笑みを浮かべた。


「うん、いろいろ考えて作るのは楽しいよ」

 我が家の夕食は僕が作ることが多い。食材をどう料理するのか、そして料理したものが実際にどんな味になるのか、いろいろ試すのが僕は好きだっだ。


 今日のメニューは、豆腐ソースグラタンと菜の花と切り干し大根の和え物、それと小松菜のポタージュだ。特に豆腐ソースは僕の自信作だ。豆腐がクリーム状になるまで、しっかり混ぜなければいけないが、豆腐の風味がダイレクトに味わえる。だから今日は香りのしっかりした豆腐を買ったのだった。


 食事の間もつけっぱなしにしているテレビでグリーンマンに関する報道が始まった。何とはなしに、僕はポタージュを啜りながらそれを見つめてしまう。


 ニュースキャスターが国内でも何例目かの発見があったと報じている。場面はスタジオから北海道の広い耕作地へと切り替わり、件のグリーンマンが農家に混じって農作業を手伝っているシーンが映し出させれた。そして取材に応じて、視聴者に向かって人好きのする笑みを浮かべるグリーンマンは全くと言ってよいほど怖くない。

 そこには未知のものに対して生じる恐怖は無かった。また映像はスタジオに戻り、キャスターがグリーンマンは人に害を与える存在ではないので、発見しても慌てないで欲しいと述べたのであった。


 短い報道の後、僕はグリーンマンを見てみたくなっていた。

 

 今更ながら、母が庭の表土にマルチを掛けてしまったのが残念に思えて来る。どうやら父も僕と同じように考えたらしく、冗談めかして母に水を向ける。

「別に花壇を辞めなくても良かったんじゃないのか? もしグリーンマンが生えてきても、ほら手伝ってくれるみたいじゃないか」


「嫌よ。危ないグリーンマンかも知れないじゃない。それに我が家にだけグリーンマンが生えてきちゃったら、ご近所さんたちに説明できないわ」

 父は母のいつも通りの反応に肩を竦めた。そして和え物の菜の花を箸で摘まんで、が僕に視線を投げる。


「菜の花か……そういえば、土筆つくしも出ていたな。山菜の時期だな」

「うん、週末山で採って来るよ」


 その言葉を待っていたとばかりに、父が嬉しそうに破顔した。毎年、僕が採ってくる山菜の天ぷらを父は楽しみにしているのである。

「じゃあ、山独活やまうどを頼む。あの香りが好きなんだよ」

 父の依頼に〝オッケー〟と、僕は軽く頷いた。






 高校が休みの週末、僕は家から半時間くらいの裏山に向かって歩く。格好は汚れてもいいジャージ、そのポケットには丸めた軍手とビニール袋が押し込められている。


 柔らかな日差しの中の散歩は気持ちが良かった。道端に絨毯じゅうたんのように広がる丈の低い白詰草しろつめくさ蒲公英たんぽぽ、そしてその上をひらひらと舞う白蝶が春陽を実感させていた。


 山の縁は日当たりが良く、山菜が良く生えていた。虎杖いたどりや山独活の柔らかい葉を摘み、わらびの茎をぽきりと折り採りながら山に入っていく。点々と見つかる獲物に上機嫌になっていた僕はいつしか山道から逸れ、あまり人が分け入らない所に来てしまっていたことに気づいた。

 

 そして不安げに視線を巡らせた時、不意に目と目が合ったのである。


 そこにあったのは朽ちた倒木に腰掛けた儚げな少女の姿であった。新緑の葉間から漏れ出た陽光に照らされ、切れ長の目が驚いたように見開かれている。そしてつややかな髪が木々のこずえと共に春風になびいているのだった。


 だが、彼女は緑であった。鮮やかな緑の皮膚と頭上に茂らせた葉は彼女が人間ではないことを明瞭に物語っていた。


 その少女はグリーンマンであった。


 しばし茫然ぼうぜんと見つめ合う、僕とグリーンマンの少女。人と人ならざるものとの邂逅かいこう。しかし、僕の口を突いた言葉はなんとも的外れな感想だった。

「……綺麗だ」


 まるで一葉の美しいポートレートのような情景に、思わず出た賛辞。それに緑の少女は口の端を少し持ち上げて笑った。

「ふふ、ありがとう。こんなところまで人間が来るのね。ねえ、少しお話しましょうよ」


 その人懐っこい笑みは僕を魅了していた。恋心が兆していたと言っても良いかも知れない。僕はただ茫然とグリーンマンの少女に見入っていた。

「……どうしたの、人間?」


 怪訝けげんそうに小首を傾げる少女。僕は問われていたことに思い至り、あたふたと返事をするのだった。

「いいけど。えっと、僕の名前は彰」

「彰ね」


「き、君は?」

「あなた達にグリーンマンって呼ばれているわ」

「いや、それは名前じゃないよ」

 僕の反応に少女は少し考える素振りをした。


「なるほど。人間は群の中の個を識別するためには名前をつけて、より細分化するというのは本当なのね……そうなると私の名前はないわね」

「名前がないの?」

「ええ、彰が呼びたいように呼んでくれればいいわよ」

 涼やかな声で少女はそう言って目を眇める。何でもないように彼女が呼んだ僕の名前。だがそれが風に運ばれて僕の元に来ると、胸の奥が震えたような気がした。


「じゃ、じゃあ、みどりでどうかな?」

「ふふ、単純ね。でもいいわ」

 グリーンマンだから、緑で翠。僕の安直なネーミングに彼女は愉快そうに頷いた。


 口の端をにっと少し吊り上げる笑み、これが彼女の笑う時の癖のようである。それを僕は眩しく見ているのだった。




 少女の翡翠の瞳は会話をする相手を求めていたようで、好奇心に輝きながら僕にあれこれと人間について色々なことを尋ねるのだった。


 気の利いたことも言えず、ただ少女から問われる答え返すだけの会話だったが、僕のつまらない返答で笑みをこぼす翠に、僕はそれだけでも満足だった。分かるのはこれまで長い間土の中に埋まっていた特別な感情が、急速に芽吹いて眩い陽光に照らされたことだった。


 問答の中で気づいたが、彼女は人についてたくさんのことを知っているようだ。

「ねえ、ある地域では人間が畑から取れると言われているらしいわ。それってどういうことかしら? 私たちグリーンマンの仲間だったのかしら?」

「え?」


 何のことか分からず困惑したように眉をひそめる僕。

「確かソビエト連邦と呼ばれている地域だったかしら—―」

 しかし、翠の誤った解釈に気づくと、それが真剣そうな彼女の様子と合わさり途端に可笑しくなる。


「いや、それは単なる比喩というか皮肉だよ。ずっと昔の戦争中、その国の兵が沢山いたからそれを敵国が揶揄やゆしたんだよ」

「ああ、そういうこと」

 目を大きく見開く翠に僕はくすりと笑ってしまう。


 勘違いを指摘された彼女は、〝でも、畑で採れる程度で沢山なんて言い過ぎじゃないかしら〟と口を尖らせるのだった。


「ねえ、何で翠はそんなに人間のについていろいろなことを知っているの?」

「興味があるのよ。でも私が知っていることなんて、あんまりないわ」

「でもここに人は来ないんでしょ?」

「そう。あなたが私にとっての初めての人間」


「じゃあ、どうやって—―—―」

 言いさした僕を遮るように、彼女の手が地面を差す。


「—―—―土を介して。地中にはね、張り巡らされた植物同士の情報網があるのよ」

「へえ、僕たちが使うインターネットみたいだね」


「そうね。さしずめアンダーネットと言ったところかしら」

 にっと翠が口の端を持ち上げて笑った。


「だから人間については何となく知識として知っていることでも、私には分からないことだらけ」

〝だから知りたいのよ〟と、翠は僕をその翡翠の目でまっすぐに見つめるのだった。



「ねえ、それ」

 翠が僕の提げているビニール袋を指さした。そこからは道々摘んできた野草が覗いている。


「ああ、これ? 山菜でも料理しようかと思って」

「簡単に食べられる野菜は市で売っているんでしょう? どうして、わざわざ手間のかかる野山の植物をとろうとするのかしら?」

 翠は不思議そうに小首を傾げる。

 

 そういえば、そんなことは今まで考えたことなかった。どうしてだろうと思ったときに、父が〝この苦みがやっぱり春を感じるな〟とほくほく顔で山菜の天ぷらを頬張るのを思い出す。


 それに自身が採った山菜を上手く揚げられた時には、その出来には殊更充足感があった。僕にとって料理は、四季の風情の一部であり、日々の挑戦の過程であった。


「確かにそうかも知れない。でも春を感じられるから、もう家族の習慣になっているんだよ。それに自分で採った野草を美味しく料理できると嬉しいんだ」

「へえ」


 翠が興味深そうに頷いた。

「じゃあ、それが沢山生えているところを教えてあげる。その代わり、またお話しにきてね」

 そう言って、彼女は立ち上がってしなやかな緑の指を持ち上げたのである。





 翠は頬杖をついて、僕がお握りを食べる様子を興味深そうに見つめてい。

 この日は彼女と少しでも長く過ごしたくて、お昼ご飯を携えて山に入ったのであるそして、陽が中天近く差し掛かった頃合いで、僕は彼女に断りを入れてお握りを取り出したのであった。


「ねえ、食べるってどういう感覚なのかしら? 私たちにも口のような発声器官はあるけど、そこでは物を食べることはできないわ」

 

 植物であるグリーンマンは光合成で作り出すと報じられていたことを思い出す。根から吸収した水分と、空気中の二酸化炭素、そして降り注ぐ陽光が彼女達にとってのご飯ということになる。


 だとしたら、食べるということが実感できないのも無理はない。


「……説明が難しいよ。君は栄養を光合成で作り出すんだよね?」

「ええ、そうよ。満たされていく感覚があるわ」

「食事もそうだよ、お腹がみたされていくんだ。でもそれだけじゃない、料理にすることで美味しく味わえる」


「人間にとって、食事は栄養摂取だけではない。食事によって豊かさや充実感を得ているということね。人間と美食は切っても切れない関係。でも私には美食、味というのがどういうものか分からない。それがグリーンマンと人間の大きな違いの一つかしら。ねぇ、料理について私に教えてよ」


「料理について?」

 僕は思わず聞き返してしまった。


 普通は料理を教えて欲しいと請われれば、調理法やレシピの共有を指すことになる。しかし、グリーンマンの翠と、彼女が料理をするというイメージが僕の中で上手く結びつかなかった。


 当惑している僕に、翠は瞳を輝かせながら身を乗り出した。

「そう、私は知りたいの。あなたが食材をどう調理して料理にするのか。料理を食べてみてどんな味なのか。それが知りたいのよ」


 翠の眩しい笑顔は自然と僕に、彼女の望みを叶えてあげたいと思わせる。

—―でもどうすれば、グリーンマンの翠にも料理を伝えることができるのだろうか? 



 そう考えて、僕は自身の料理するところを見せればいいのではないか、と考えを浮かべる。いくら説明しても他人の感覚というのはきっと分からないだろう。それなら実際に見せる方がまだマシだ。ただ、ここから動けない彼女を僕の家のキッチンに連れていくことはできない。代わりに、この場を台所にする必要があるのだった。


 そのためには食材や調理道具などを運ぶ苦労が偲ばれたが、翠の笑顔に比べればそれは些細な問題だった。

「じゃあ休日に僕がここで料理するっていうのはどう? それを君は実際に見ればいいし、聞きたいことがあったら聞いてくれればいい」


〝いいの?〟と彼女は手を打って歓喜の声を上げた。その様子に僕も嬉しくなってしまう。





 翠に料理を見せるための荷物は思いのほか多くなった。

 食材を切るためのナイフ、火元のカセットコンロ、そして小さいフライパン、それに調味料とスーパーで買った食材が加わる。それを大きなリュックに押し込んだ。彼女に何を見せようと考えている時間の長さが、そのまま荷の重さになってしまった。


 大荷物の僕にテレビを見ていた母が怪訝そうな目を向ける。

「どうしたの、それ?」

「友達と外で料理しようってなったんだ。キャンプじゃないけど、ご飯だけを作って食べるみたいな」


「あら、そうなの。火を使うときは気を付けなさいよ」

 予め用意していた僕の説明に、母は興味を無くしたようにテレビに向き直るのだった。その後ろ姿に、〝うん、いってきます〟と声を掛けて家を出た。

 

 僕は翠について誰にも話さなかった。


 僕が他の人を彼女の元に連れていけば、きっと翠は喜ぶだろう。でも、これは独占欲なのかも知れない、少女の関心が僕以外の誰かに向くのを見たくないと思ってしまった。



 荷物を抱えながら山道を歩くのは思ったより大変だった。まだ気温も穏やかなのに汗をにじませた僕を、山木の鮮やかな緑葉が迎えてくれる。


 遠くに翠の後姿が小さく見えた。

 足音を聞きっとったのか、僕の接近に振り返って少女が手を振った。それだけで僕の肩に食い込む荷物の重さが軽くなる。

「いらっしゃい、彰。ねえ、そのリュックサックは?」

「君が料理を知りたいって言っただろう? そのための道具と材料だよ」


「まあ、ありがとう」

 にっと彼女が人懐っこい笑みをこぼし、それが早くも僕の疲れを癒してくれる。


「今日のメニューはペペロンチーノにしようと思う」

「それってどんなものなの?」


「シンプルなパスタだよ。まあ、見てて」

 僕はパスタをお湯で軽く茹で、麺と茹で汁を分けた。茹で汁はすぐに使うので捨てないのである。


 細かくきざんだ大蒜にんにくをナイフの腹の部分で丁寧に押し潰す。それときざんだ唐辛子を火に掛けたオリーブオイルに入れて軽く炒めた。芳ばしい匂いが立ち込め始めたところで、パスタので汁を加えたのだった。


 じゅわっと音を立てて煮立ち、これがペペロンチーノのソースになるわけだ。そこに塩で味を調整してパスタを加えた。 

 そうして切ったキャベツを軽く残った茹で汁で湯掻ゆがき、パスタとフライパンの中で絡めて、煮込んだ。

 最後にフライパンを返しながら、よく混ぜて出来上がりだ。


 翠は興味深そうに見ながら、工程の度に僕に〝これは何?〟〝これは何をしているの〟と、質問するのだった。

「これで完成だよ」

 

 フライパンの中で湯気を立てるペペロンチーノを翠が覗き込んだ。


「すごいわ! 魔法みたい」

「ねえ、食べてみてよ」


「もちろん」

 そう言って僕はフォークでパスタを巻き取って口に運んだ。咀嚼そしゃくすると大蒜にんにくの香りと唐辛子の程よい辛みが口内に広がった。こんなに簡単なのに、十分美味しく作れるのはペペロンチーノの良いところだ。


「うん、美味しい」

 予想した出来に満足げに頷いた僕を見つめる翠。


「ねえ、その美味しいって何なのかしら」

 そう問われて、はたと僕は考え込んでしまう。


 美味しいという言葉をこれまで特に考えて使ったことなんて無い。


 分かっているけど、説明し難いもの。その最たるものが味覚といった人の感覚ではないだろうか。

「人間の味覚には甘味・酸味・塩味・苦味・うま味というのがあるんでしょう? それが感じられることかしら?」


「あまり意識してこなかったけど。そうだな……バランスがとれているという感じだと思う。どれか一つが強すぎるとだめで、例えば塩味が強いとしょっぱいと感じてしまうし、刺激が強すぎると辛いと感じてしまう。その味覚に加えて香りや、噛んだ時の噛み応え、それらのバランスがとれていると美味しいと感じるんだと思う」


「ふーん、何だか難しいわね」

 その後も、僕は翠と会話しながら食事を続けた。


 翠は僕が多めに持ってきた食材の余りをしげしげと見つめ切り出した。

「ねえ、今度は私に料理させてよ。それをあなたに食べてもらいたい」

「君が料理を?」


「ええ。料理を作るってどういうことかと体験してみたいの。それにさっきあなたが作るところを見ていたから同じようにやれば出来ると思うわ」

「いいけど」

 ぎこちない所作の翠に手取り足取り僕は教えるのだった。


 おっかなびっくりフライパンを操る翠は火を止めるタイミングを誤り、大蒜にんにくを焦げ付かせていた。それに味付けの塩も多すぎる。

 

 先ほど自信はどこへやら、彼女は自身の料理を見て不満そうに呟いた。

「……難しいわ。ごめんなさい上手くできなくて」


 初めてにしてはご愛嬌だろう。それに彼女は味見が出来ないことを考えれば、十分すぎると僕には思えた。

「大丈夫、ちゃんとできてるよ」


 そう言って、僕は不安そうな翠の視線を受けながらしょっぱいパスタを食べた。〝うん、美味しいよ〟、という僕の感想に翠は満面の笑みを浮かべた。

「本当に私でも料理ができるのね」






「期末テストは終わったのね?」

「うん」

 山はいつの間にかせみが喧しく、日差しが厳しい季節に移り変わっていた。


 季節が変わったからか、翠の頭には美しさにアクセントを添える髪飾りのように大輪の黄色の花が咲いていた。僕はグリーンマンにも花が咲くんだ、と思いながらもその姿をしげしげと見つめてしまっていた。


「何?」

 後ろに手を組んでこちらを見上げて問う翠。急に気恥ずかしくなり、僕は少しだけ視線を彷徨さまよわせた。


「いや、花が咲くんだと思って」

「植物ですもの、少しの間だけど花だって咲くわよ」

 そう言って翠は笑う。


 いつものように彼女は僕が持ってきた食材と道具で料理を始める。これはもう僕たち二人の決まりになっていた。あれから何回も彼女の元を訪れ、僕は料理を翠に教えていたのである。


 彼女の姿を目に焼き付けておきたかった僕は、料理する翠の姿をじっと見つめていた。淀みなく調理する彼女の技術は既に確かなものになっていた。同時に僕の中の恋情も時間と共に育まれ、とうに明らかなものになっていた。


「大分上達したね」

「ふふ、ありがとう」

 

 舌を巻くほどの上達速度であり、実際に彼女が作る料理も完全に僕の再現だ。もし我が家で出しても親は特に違和感を覚えず、手放しでいつものように褒めるに違いない。


「もうそこらへんの人より上手だと思う。そのうちレストランも開けるようになるかも知れないよ?」

 僕の安直な感想に翠は噴き出した。


「――――それならグリーンマンで初の料理人ね。そう言えばアメリカと呼ばれる地域ではグリーンマンを人間として扱って、人権を与えようっていう人達がいるみたいよ。もともとあの地域では体色で人間を区別していたのでしょう?」

「白人黒人の問題だね」 


「ネットではグリーンマンの登場で白人と黒人の対立が融和されたという話を聞いたの。確かにブラックだ、ホワイトだ、で揉めている渦中に〝私はグリーンだ〟なんて奴らが現れてしまったら、争っている場合じゃないいものね。ふふふ」

〝人間って面白いわね〟と彼女は手を止めずに愉快そうに笑った。


「でも、グリーンマンに人権ね……」

 少し考え込むような口調な翠は言った。


「だって、会話も出来るし、姿だって僕たちに似ているじゃないか?」

「それだったらロボットだってそうでしょう? 彼らには人権はないの?」

「いや、ロボットは生きてないし……」


「なら生命活動をしていて意思疎通が取れればいいの? チンパンジーは人間?」

「チンパンジーはチンパンジーだよ」


「でもチンパンジーは今いる生き物の中で最も人類に近いわ。私たちグリーンマンは植物ですもの、人間とは生物学上とてもかけ離れている」

 返答に窮し曖昧な表情で見返す僕に、〝ほら〝と彼女は髪飾りのようになっている花弁を、植物の証を指さした。






 四時間目の授業が終わった昼休み。

 僕はかばんから弁当箱を取り出して、学食に行く友人たちを見送りながらに食べ始める。お昼を持ってきている僕は学食に行く必要もないし、クラスの女子たちみたいに、とわざわざ席を寄せ合ってお弁当を囲むようなこともしない。


「結城君のお弁当って、いつも野菜ばっかりね」

 そこに隣の席の椎名さんが珍しく話しかけてきた。彼女は僕のお弁当箱を見ながら眼鏡の奥の眼を細める。


 椎名さんは落ち着いた女の子だ。

 いつも女子グループの喧騒を遠巻きに、本を読みながらお弁当をつついているのだった。僕はがやがやと騒ぐ女子たちよりは彼女の隣の落ち着くため、結構気に入ったのである。


「何となく肉ってだけで嫌なんだよ。動物を苦しめてるみたいで」

「でも合成や培養よ?」


 国際的に動物の権利が認められたのはもうずっと前のことだ。それ以来、人間は動物を殺すことを遠ざけた。僕らは野菜や果実、そして合成肉や培養肉を食べている。


 畜産業は無くなり、その広大な土地は畑に転換されたのであった。

 肉を食べずに動物性の栄養素をとるためには、より広い耕作地が必要になったのである。植物性の食事だけではとりづらい一部のアミノ酸やビタミンがあり、それ強化した品種をサプリメントのために大量に栽培するためである。


 僕は植物性とは言え、合成肉も培養肉も苦手だった。

 小学生の頃、理科でカエルを解剖する映像を見せられた。クロロホルムで眠らされたカエルのお腹をハサミで切り開くと、鮮やかな色の内臓が露出する。それをこれは肝臓、これは肺、これは心臓というふうに一つ一つ切り取っていくのだ。

 

 時に刃を入れた時にピクリと震える手足は僕には嫌がっているように見え、最期に体の中を伽藍堂がらんどうにされたカエルは〝どうしてこんなことするの?〟と濁った眼でこちらに問いかけているようだった。


 それ以来、僕はたとえ偽物の肉でも忌避感を感じるのだ。

「何だか可哀そうな気がして」

「それは動物が痛みを感じるから?」


「—―—―そうだと思う」

 僕は頷いた。


「でも知っている? 植物も痛みを感じているらしいわ。確かに植物には痛覚を感じる神経はない。でもそれと痛みを感じないかはイコールじゃない。植物は自身に危害を加える刺激に反応していることは科学的に確かめられているんだって。これと動物が痛みに悲鳴を上げて身悶えするのとは違いは無いと思わない?」

「動物と植物は全然違うじゃないか。動物は—―—―」


「本質的な違いなんてないわよ。動物は従属栄養で植物は独立栄養と生物で習うけど、これは違いにはならないわ。植物の中には虫を栄養源にする食虫植物もいるし、土壌から吸収する養分だって、それは動物が分解されたものよ。生き物は他者の命を頂いているのよ、そこに違いはない。どんな生き物でも自然の中では巡り巡って他の生き物のかてとなる」

 いつになく饒舌じょうぜつに話す椎名さんを僕は無言で見つめることしかできない。


 彼女は肉を食べようとしない僕の欺瞞ぎまんを指摘したいのだろうか。


 困惑している僕に気づき、彼女は申し訳なさそうに目を伏せて〝ごめんなさい、別に糾弾したいわけじゃないの〟と謝った。


「私はずっと不思議に感じているの。動物も植物も人間も何がそんなに違うんだろうって」

 彼女は廊下を指さした。彼女が示す先には教室のドア越しに、花を生けられた花瓶が覗いていた。


「あの花をどう思う?」

「……綺麗な花だと思うけど?」

 彼女の意図が分からず、歯切れ悪く僕は応じた。


「私にはね、あの切り花がずっと生首に思えてしまうの。そして目が合ったら〝どうして?〟と尋ねられているような気がするのよ。笑っちゃうわよね」

 そう言って彼女は皮肉げな笑みを浮かべるのだった。





 動物と植物に本質的な違いなんか無い。

 僕は帰り道、彼女の言葉を反芻していた。

 確かにそうかも知れない。

 

 そう思うと同時に、でもそれは認められないという願いもあった。

 もしだ、もし仮に野菜達が刃物を入れられた時に、僕には聞こえない苦悶の声を上げているのだとしたら—―—


 そう思うと、解剖されたカエルを見ている時以上の後ろめたさ、生き物を身勝手に殺して、きざんだり、煮たり、油で揚げたり、その死体を弄んできたという罪悪感が湧き上がってくるのであった。


 椎名さんのように、自然の理なんだから仕方ないと、諦観ていかんとともに強く思えれば良かったのかも知れない。だけどそうするには、植物が雨水を必要とするように、清白さを手放すことが僕の心には出来なかった。


「……植物も痛いのかのな?」

 ぽつりと出た僕の呟きは風に攫われて周囲に溶けた。それに応じるように水分を孕んだ風が草木たちをざわざわと揺らす。

 

 翠なら正解を教えてくれるのだろうか、だって彼女はグリーンマンなんだから。でも僕はその真実を知りたくなかった。

 もし真実を知ってしまったら、僕はもう分からなくなってしまう。陰りつつある陽ざしを仰いで頭を振った。


 だからこそ、きっとそんなことはないと思い込むことにしたのだ。

 翠はこれまでも野菜を使って料理している。つまりは植物が植物を料理している訳だ。もし悲鳴が聞こえているなら、翠は料理なんて出来っこないに違いない。






「ねえ、どうかしら?」

「うん美味しいよ」

 翠は手料理を食べる僕を見ながら、満足そうに頷いた。


 それからも翠は腕を上げ、遂には僕の知らない料理を作るようになっていた。今僕が食べているのもイランの何とかという郷土料理だそうだ。ヨーグルトベースのスープはコリアンダーの香りがして、雛豆ひよこまめとご飯が一緒に煮られていた。

 

 彼女は今やアンダーネットで調べたレシピを、僕が持ってくる食材で再現しているようだった。


「ねえ、来週はこれ持ってきほしいわ」

 そう言って、翠は僕に必要な食材をメモ帳に書いて渡してくるのもお馴染みになっていた。


 季節はもう暑さの盛りを過ぎて、遅れて羽化したセミの声がさびしそうに夏を惜しんでいた。彼女の頭に咲いた花もとっくに無くなっている。

 

 爽やかな秋風が僕たち二人の紙片越しに繋がった手を撫でた。

「大分涼しくなってきたね」

「そうね」


 柔らかい風に髪をなびかせながら、翠は風の行方を目で追う。そして、いつもの笑みで彼女は僕に問いかける。

「ねえ、もし私が料理のレシピを開発してみたら、あなたはその通り作ってみてくれる?」


「すごい! そんなことも出来るようになったの? 勿論そうするよ」

「約束よ」






 秋も深まり、冬を目前としたこの日は肌寒い風が吹きすさんでいた。ジャンパーをひっかけた僕を、葉を落としつつある木々のこずえが風に揺られながら迎えるのだった。落ち葉を踏みしめて、いつもの道を辿る。


 その先で弱弱しく立ち上がった翠を目にしたのである。嫌な予感に僕は彼女に走り寄った。

「どうしたの?」


「ねえ、もうすぐ私は枯れるわ」

 翠は僕を見上げて薄く微笑んだ。


「な、なぜ?」

「だって私は一年草ですもの。冬には枯れるのよ」

 一年草、それは春に芽を出して、花を咲かせ、やがて冬には枯れてしまう植物。突然すぎる別離の告白だった。唖然としている僕に彼女はいつもの笑みを作る。


「ねえ、最後のお願い聞いてくれる?」

 翡翠の瞳が僕を覗き込んだ。その吸い込まれそうな色に魅入られた僕は、茫然としながらも頷く。


「う、うん」

「私が生きた意味を考えていたの―—―—」

 僕は彼女の顔を見つめる。


「それでね、あなたと過ごした時間はあなたにとっては人生のわざかなひと時でしかないかも知れない。でもそれは私にとっては大切な宝物。私の生はあなたのために使いたい」

「……」


「だからね、私はこのレシピを考えたの」

 そう言って翠はいつものメモ帳を差し出した。


 彼女の示したページを僕は理解できなかった。 


 いや飲み込むことを拒んでいた。

「私を料理して、あなたに食べて欲しい。このレシピ通りに料理したら、きっと私は美味しくなると思うの。それに食材も余さず使えるわ」


 思いがけない提案に僕の喉の奥がきゅっと締め付けられた。


「何で……」

「私はあなたに食べて欲しいと思ったの。この体があなたのためになるのよ。とても素敵なことだと思わない?」


「そ、そんな……できないよ」

 掠れた僕の声は、風が吹き止んだ静寂の間を上滑りしていった。


「どうして? 前に約束してくれたじゃない」

「翠を殺して、食べるなんて僕にはできない」


「でも、あなたは毎日野菜という植物を食べていたじゃない。私と野菜と違いなんて無いでしょう?」

「全然違うよ。植物は喋らないけど、翠は喋れるじゃないか」


「そっか、あなたには聞こえてなかったのね。あなたが料理している時も野菜達は叫喚を上げていたわよ。彼らにも意思はある、でもそれが人間には分からないだけ。」


 これまでのよすがにしていた物が急に失われたような、足元が崩れたような感覚に僕は呼吸まで荒くなる。


「ふふ、わかっているわ。人間は動物を殺す罪悪から逃避を選んだんですもの。私はあなたに植物も動物同様に痛みに声を上げると教えてあげただけ。そんな植物である私を料理して食べる、それによってあなたの中に何が生まれるのか……あなたはどうなってしまうのか……これが私があなたに残せるもの、いわば種なのよ」


 彼女は僕のリュックからナイフを取り出した。そして自身の腰と地面を繋ぐ唯一の紐帯ちゅうたいである根を惜しげもなく切断した。


「これで私は土から完全に切り離された。あとは本当にただ枯れていくだけ」

 翠は口の端を少し持ち上げてはかなく笑ったのだった。


 そして、彼女はナイフを僕は握らせた。


 持ち手の重みが僕に料理が始まることを実感させる。僕はこの場から逃げ出したい衝動に眩暈めまいがした。


 翠のしなやかな指が僕の頬を撫でた。

 

 彼女は僕の手中のナイフをその体に導いた。

 刃が彼女の緑色の表皮を貫き、そこから透明な液体が溢れ出す。嗅ぎなれた青臭い匂いが僕の鼻をつき、少女から苦痛のうめきが上がる。


 僕はそれを茫然と見ていた。

「あなたの中で私の種が芽吹いて花を咲かせた時、何が起きるのかしら? 楽しみね」


 翠は小さい声で陶然とうぜんと呟いた。


 彼女は一つだけ間違っていた。

 僕の中では、彼女との邂逅をきっかけに芽吹いた種は、今この瞬間に花を咲かせたのだった。ただ僕はその花から目を背けていた。その花弁の色はきっと僕という人間の本質を暴いてしまうだろうから。





 了



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