肉を食べる

白川津 中々

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 世界的な大不況においてはサラリーマンの給料も大幅カットを免れなかったわけだが牛丼屋はいつもの値段、いつものクオリティであった。


 護国救済の立役者である。貧し、渇いても月に一度の肉が市民の心を満たす。家族の外食は焼肉から牛皿へと変わり、七色の油滴る薄肉に子供達は狂喜乱舞。規定量を守ればかろうじて健康被害のない物質を混ぜた合成ビールとお新香で晩酌をする父親も得意顔である。「ほらお前達、幸せだろう。肉が食えるんだから」そんな台詞が語らずとも聞こえてくる。業績振わぬ仕事に必死で食いつき金子を得るという、まるで砂を喰むような苦労も子供の笑顔でひとっ飛び。U字型のカウンターで感じる底辺家庭の暖かさに仕事帰りのサラリーマンも思わずほっこりもらい笑いといったところ。中には頭大盛り単品カルビ焼き、単品ホルモンと悦の限りを尽くし細やかな幸福に水を差す野暮な輩もいたものだが瑣末な問題であろう。本質は、誰もが肉を貪れる環境がそこにあるという状況にある。生物が備え持つ食欲と味覚刺激。それを困窮にあっても満たせる手軽さ。少なくとも、食に対しての根源的な不満が解決できるという社会状態は市民にとって求めるべき福祉であり、反乱を未然に防ぐ防波堤にもなっていた。日本人は食に対して異様な執着を持っている事から、腹と舌さえ満ちていれば、余程の事がない限り大人しくしているのである。 


 一方で牛丼屋の重役は毎晩のようにポンド単位でステーキを口に運んでいた。

 一杯600円の牛丼が吸い上げられ、100グラム10,000円の肉に化ける。これが社会構造である。

 多数の小さな幸せと大きな苦労の上に、愉悦がある。この愉悦がなければ市民に僅かばかりの充足さえも行き渡らない。市民が肉を我慢して投資や貯金に回せば彼らはナイフとフォークを持てないが、そうなれば必然的に人は肉を失う。渇望と希望。どちらの欲がより強いかは、市中を見れば事足りる。


 富める者も貧する者も肉を食う。

 幸せのため,悦びのため、腹を満たす、そのために。

 

 

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