ジェットバス
壱原 一
常軌を逸した短納期の世紀末的デスマーチを終え、平日昼下がりの温浴施設に来た。
ノーマルな広い風呂の他、ジェットバス、打たせ湯、サウナに加え、温水プールやマッサージコーナー、休憩室に食堂も付いた健康ランドと言うやつだ。
民家と果樹園の合間の山裾の辺りに建っていて、交通の便も眺めも良くない。野暮ったい事この上ないがその分ほどほどに空いている。
特に平日昼下がりと来れば主要客層たるお子様連れご家族は
いざいざ浴場へ入ると嬉しい事に貸し切りらしい。
正面に大きな窓が据わり、右手に洗い場、左手にサウナと水風呂、窓沿いの4分の3程にノーマルな大風呂が広がる。
イミテーションの観葉植物が腰高の仕切りの天面に飾られた向こうで、残り4分の1程の窓と垂直に、特に気に入りのジェットバスがじゃぼじゃぼと待ち構えている。
浴槽に5人が横列して仰向けに寝られる構造で、壁沿いの
せっかく窓辺の配置だが、景色は手入れのぞんざいなツツジが土埃の鱗を纏う硝子越しに結露塗れで見えるだけなので、いつも窓から2番目の、寝ると辛うじて空が見える所を贔屓にしている。
厳しい納期を乗り切った自身を称えて丁寧に洗い、無人の各所に気を良くしながらお待ち兼ねの湯舟へ身を委ねる。
首や肩、背中や腰、腿や足裏の辺りに力強い水流と気泡が噴出され、セミドライジャーキーの如く凝り固まって血流の滞った筋肉が、ふんだんなお湯にふやかされながら解されてゆく心地に耽溺する。
あー最高。
最高だ。
ほっこり
一通り巡って上がったら、食堂で餃子とビールだな。
にやつく唇を噛み締めて、枕状の縁に頭を乗せ、深く長い溜め息を吐く。
そうした次の瞬間には睡魔に魅入られていたようで、縁に預けていた頭が横へつんのめって目が開いた。
*
ああ上がらなきゃと思うのに本能が抗っている。こんなに温かくて快くて心身がリラックスしているのに、此処で寝ないなら次いつ寝られるんですかと凄まじい眠気を醸してくる。
余りにも気持ちが良い。深い眠りに入るべく血圧も下がっているのか、くわんくわんと目が回るくらい体が安らいで動かない。
どうにか発破を掛けようと、湯気なのやら眠気なのやらでフワフワほわほわにぼやける両目をぐっと瞑ってぱっと開く。
すると胡乱な意識ゆえ今の今まで見落としていたのか、隣の窓側の所に新たに人が入っていた。
長めの黒髪が特徴的で、50代よりは下だろう。自分と同じく仰向けで縁に頭を乗せ、窓に顔を向けている。
滅多に隣は埋まらないので眠い中にも面食らう。こっちは5人横並びの2番目に居たのだ。反対の隣を1つ空けるなり端っこなりじゃ駄目だったんだろうか。
窓辺が良いのか、又は世に聞くトナラー(人の隣に落ち着きたがる人)なのか、こっちが寝こけていて隣に来る心理的ハードルが低かったのか。
まあ丁度よいきっかけだから此れを機に起きて上がろうと己に言い聞かせた傍から、不意に見付けた隣人を検分し終えて注意が散じ、すかんと目蓋が落ちる。
数秒置きに開けては閉じて、こくりこくりと舟を漕ぐ視野に、少しの空と湯煙と窓を向き此方へ後ろ頭を向ける隣人の姿が見えては暗む。
今みえているのは現実か、それとも寝しなの残像か、煮詰められた睡眠欲の粘りがへばって切り離せず、いやあ此れはもう寝ちゃおうかなあと睡魔に寝返り掛けた時、
窓を向く隣人の肩から上が、するする湯舟へ下りて行き、ぽこぽこ噴き出る泡音に紛れて沈む音の一つも立てぬまま、特徴的な長めの黒髪の僅か毛先のみ水面へ残してすっぽり湯舟へ浸かって仕舞った。
即座に
分かる気持ち良すぎて眠いよねと、半睡で共感しつつ当然の展開を待ったのに隣人は一向に出て来ない。
そういう事ってあるんだっけ。
どういう時そうなるんだっけ。
こういうの駄目なんじゃないのと薄ら疑念が立ち込めて、そうだよこれ溺れてるんじゃと思い至って戦慄する。
直後、湯の中で丁度となりから手を伸べて鷲掴みにされた風な感触が太腿の隣側に食い込んだ。
わなわな震えて制御が利かず勝手に握って仕舞ったような、偶然手に当たった物に咄嗟に縋り付いたような、素早く乱暴な動きだった。
本当に不味いと察知して脳が一気に覚醒し、心臓が嘔吐くほど膨縮し、前のめりに上体を乗り出して溺れる隣人を確保する。
全力で突っ込んだ両腕は、底にぶち当たって爪が剥けた。
焦ってじゃぶじゃぶ湯を掻いて、隈なく隣人を探索し、やばい居ない沈んじゃったかと甚大な冷や汗を掻いた。
指の痛みを堪えつつ、こんなに浅い所なのに何処いっちゃったんだと歯噛みした。
こんなに浅い所なのに居ないのは変だと気付き、こんなに変な現象は実際に起こり得ないから、あれは夢現の幻覚か、むしろ夢その物だったのだと己に整理を付けるまで、とにかく鮮明だった故、暫くの時間を要した。
*
其処へ頻繁には行かない。だからもしかするとご無沙汰の間に事故なぞあったかも知れない。
調べてみれば分かるだろうが、今後も利用するつもりで、敢えて知らずに居たいので、わざわざ調べる予定はない。
餃子とビールを堪能後、休憩室で仮眠して帰った。
次に慰労に行く時は、事前にしっかり寝ておいて、浸かるのは窓から3番目以降と固く心に決めている。
終.
ジェットバス 壱原 一 @Hajime1HARA
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