■終章 紅を継ぐ者■

 砕けた鏡の破片が、静かに床を飾っていた。


 それはまるで、砕け散った星のかけら。

 あるいは、ふたりが過ごした夜の名残り。


 白の部屋に、少女が立っていた。

 いや、もう“白”ではない。


 そのドレスの裾は、ほんのりと紅を帯びていた。

 胸元には、名もなき温もりが宿っていた。


 それは、触れられた記憶。

 囁かれた快楽。

 失われた、誰かの愛。


 アリスは、そっと鏡の破片に手を伸ばす。


 割れた欠片に映る自分は、

 もう、あの無垢な聖女ではなかった。


 けれど、悲しみにも染まりきってはいなかった。


 ──あなたの命を、わたしは受け取った。

 ──それがどんな形でも、どんな色でも。

 ──わたしは、あなたを「愛していた」。


 外の世界は、今日も騒がしい。

 誰かが誰かを責め、

 誰かが誰かを消費する。


 それでもアリスは、扉を開ける。

 風が、そっと彼女の髪を揺らす。


 誰も彼女に、聖女の言葉を求めはしなかった。

 もう誰の希望にも、偶像にもならなくてよかった。


 ただひとつ、胸の奥に灯るものがある。


 あの紅の唇。


 あの快楽の手。


 あの命の祈り。


 アリスは、そっと目を伏せる。


「いま、わたしの中にあなたがいるなら……」


「ねえ、女王様。わたし、ちゃんと生きるよ」


 空を見上げたその瞳には、

 もはや恐れも、迷いもなかった。


 鏡の向こうで、誰かが笑った気がした。


 風の中で、紅いドレスの裾がふわりと揺れた気がした。


 それはきっと、

 彼女が世界に遺した、最後の愛の名残。


 ──誰かを愛し、壊れ、消え、それでも生きる者へ。


 アリスは、歩き出した。


 紅を継いで、白を脱ぎ捨てて。

 祈りも、快楽も、命も、すべて抱えて。


 ただ、前へ。


 終わりにして、始まり。

 それが、ふたりの物語。


〈終演〉

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『鏡の檻で、君を待つ』 鈑金屋 @Bankin_ya

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