第十五話『箱庭』
目を覚ますと、いつも潮騒の音がする。
どこまでも優しく、寄せては返す波の音。それが、この世界の始まりを告げる合図だった。
俺はゆっくりと身を起こす。肌に触れる砂は、夜の間に失われた熱を朝日と共に取り戻し始めていて、ほんのりと温かい。見上げれば、高く澄み渡った空に白い雲がゆっくりと流れていく。
「お、起きたか、ケイ。寝坊助め」
声がした方を見ると、アリシアが波打ち際で水切りをしていた。ラフなTシャツとショートパンツ姿の彼女は、朝日を浴びて眩しいくらいに輝いている。彼女が投げた平たい石は、水面を何度も跳ねて、やがてきらりと光る飛沫を上げて海に沈んだ。その動きには、一切の無駄がない。
「おはようございます、アリシアさん。今日は調子がいいみたいですね」
「まあな。さっきは七回だったが、今度は九回までいったぞ。次は十回を超えてやる」
彼女は誇らしげに胸を張って笑った。その笑顔には、心からのモノで幸せそうだった。
少し離れた場所では、セレナが砂浜に座り込んで何かを描いていた。風に揺れるワンピースの裾が、白い砂の上に繊細な影を落としている。彼女は拾い集めた貝殻や流木を使い、鳥のような、あるいは花のような、不思議で美しい模様を緻密に作り上げていた。俺が近づくと、彼女は顔を上げて、穏やかに微笑んだ。
「……おはよう、ケイ」
「おはようございます、セレナさん。また新しいのができたんですね。すごく綺麗です」
「……この浜辺には、綺麗なものがたくさんある」
セレナの声は、鈴が鳴るように澄んでいた。
これが、俺たちの日常だった。
戦いも、逃走も、恐怖もない。ただ、穏やかで、満ち足りた時間が続いていくだけの、平穏な日々。
◇
その日、俺たちは少しだけ遠くまで歩いてみることにした。
いつも遊んでいる砂浜から岬を一つ越えた先にある、小さな入り江を目指す。そこは静かで、プライベートビーチのような趣のある場所だった。
道中、アリシアはいつものように、かつての冒険の話をしてくれた。
巨大な蛸の魔物が守る海底神殿から、伝説の秘宝を持ち帰った時の話だった。彼女は身振り手振りを交え、まるで昨日のことのように生き生きと語る。
巨大な蛸、海底神殿、伝説の秘宝。そのどれもが、聞き覚えのあるキーワードだった。
なにせ、もう何度も聞いた話だ。しかし、こんなに楽しい話の腰を折る必要はない。
「それでな、その盾で魔王の一撃を防いでやったんだ! すごいだろ!」
「はい、すごいですね!」
俺は相槌を打ちながら笑った。アリシアも満足そうに笑っている。それでよかった。
入り江に着くと、セレナが波打ち際でひときわ美しい貝殻を見つけた。
螺旋を描くその貝殻は、内側が虹色に輝いていて、まるで人工的に作られた芸術品のようだった。あまりにも美しくて、それはどこか作り物めいて見えるほどに。
セレナは、その貝殻を手のひらに乗せ、じっと見つめていた。
その横顔が、ほんの一瞬だけ、何かを訝しむような表情になったのを俺は見逃さなかった。
だが、それも本当に一瞬のこと。
彼女はすぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべると、その貝殻を宝物のようにそっとワンピースのポケットにしまった。
昼食は、た新鮮な魚と果物だった。
アリシアが豪快に焼いた白身魚は香ばしく、セレナが切り分けてくれた果物は瑞々しくて甘かった。
俺たちは、腹が満たされると砂浜に寝転がり、流れる雲を眺めた。
俺が望んだ、俺が選んだ、幸福な現実。
◇
太陽がゆっくりと西の空に傾き、世界が茜色に染まり始める。
俺たち三人は、いつものように砂浜に並んで座り、その日の終わりを告げる光景を眺めていた。寄せては返す波の音が、世界で唯一のBGMだった。
水平線に沈みゆく太陽が、最後の光を放つ。空と海が、一瞬だけ燃えるような金色に輝いた。
美しい、と心から思った。
この感動を、アリシアもセレナも、全く同じように感じてくれている。その事実が、何よりも俺の心を温かく満たした。
俺は、この幸福な時間が永遠に続くことを、心の底から願っていた。
どこまでも穏やかで美しい夕焼けが広がっているだけ。
ザアアア……ン……。
何の音が俺を包み込んでいく。
「……どうした、ケイ?」
アリシアが、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「いや、このままずっといたいな、と。そう思ったんです」
「そうか」
俺たちは、それ以上何も話さなかった。
ただ黙って、夕日が完全に水平線の向こうへと消え去るのを、見届けていた。
ああ、これでいいんだ。
もう、何も考えなくていい。
何も感じなくていい。
俺は二人に向かって、にっこりと微笑みかけた。
アリシアも、セレナも笑顔を返してくれた。
バベルの塔 ~僕らが築くはずだった理想郷~ 速水静香 @fdtwete45
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