第十四話:『永遠』

 もう、何も考えたくなかった。


 思考することを脳が拒絶している。体育館の扉の前、冷たい木の床に座り込んだまま俺は膝に顔をうずめていた。

 すぐ隣にはアリシアとセレナがいるはずだった。その気配は確かにある。だが、その存在はあまりにも遠い。

 決して手の届かない、別の星にいるのと同じくらいに。


 俺たちの間には、見えない、しかし決して越えることのできない壁ができてしまった。同じ場所に立ち、同じものを見ているはずなのに俺たちの瞳に映る世界は全く異なっている。俺が発する言葉は彼女たちには意味をなさないノイズとしてしか届かず、彼女たちの言葉もまた俺が認識している世界とは全く噛み合わない、ちぐはぐな音の羅列にしか聞こえない。

 視覚も、聴覚も、触覚さえも。俺たちを繋ぎとめていたはずの五感の全てがそれぞれの孤独な世界を映し出すための分厚い壁と化してしまったのだ。


 これほどの孤独があるだろうか。

 この異空間にたった一人で迷い込んだあの最初の夜。あの時感じた孤独感など、今この瞬間に比べればまだ温かみさえあったように思える。あの時はまだ希望があった。誰かと出会えるかもしれないという淡い期待があったからだ。


 だが、今はどうだ。

 仲間はすぐそばにいる。なのに、一人なのだ。


 手を伸ばせば触れられそうな距離にいるのに、その温もりを感じることはできない。その声を聞くことはできても、その心を理解することはできない。その姿を見ることはできても、その瞳に映る景色を共有することはできない。

 俺はこの耐え難い状況からただ逃げ出したかった。いっそ意識などなければいい。何も感じず何も考えず、ただの物言わぬ石にでもなってしまえたらどれだけ楽だろうか。

 そんな無意味な願望だけが、空っぽになった頭の中をぐるぐると巡っていた。



 どれくらいの時間がそうして過ぎていったのだろうか。

 俺はゆっくりと顔を上げた。アリシアとセレナは俺のすぐ隣で、壁に背を預けるようにして静かに座っていた。

 アリシアは大剣を膝の上に置き固く目を閉じている。その顔はまるで石膏でできた仮面のように何の表情も浮かんでいない。

 彼女は今どんな世界を見ているのだろうか。ゴブリンがひしめき合う血なまぐさい戦場だろうか。それとも仲間を失ったあの雨の砦だろうか。


 セレナもまた静かに目を伏せていた。その長い銀色の睫毛が陶器のように白い頬に繊細な模様を描いている。

 彼女の心は今どこにあるのだろう。憎しみに燃えたあの灰色の森か。それともまだ美しかった頃の月光の森を夢見ているのだろうか。


 俺にはもうそれを知る術はなかった。


 俺は再び膝に顔をうずめた。瞼を閉じると完全な闇が訪れる。だがその闇は少しも俺を安心させてはくれなかった。むしろこの途方もない孤独感をより一層際立たせるだけだった。


 その時だった。


 閉じた瞼の裏、暗闇のスクリーンにふとある光景が何の脈絡もなく映し出された。

 それは映像ではなかった。もっと感覚的なものだ。

 まず聞こえてきたのは音だった。


 ザアア……、ザアア……。


 寄せては返す、規則的でどこまでも優しい波の音。


 次に匂い。

 少しだけ塩気を含んだ懐かしい潮の香り。

 そして肌を撫でる心地よい風の感触。


 それは俺の記憶の一番深い場所にしまわれていた、大切な宝物のような光景だった。


 幼い頃、まだ家族というものが当たり前にそこにあった頃。

 夏休みの終わりに毎年決まって訪れていた海辺の町。そこで過ごした何でもない、けれどかけがえのない時間。

 俺はその感覚に必死に意識を集中させた。まるで暗闇の中で見つけたたった一本の命綱に、必死に縋りつくように。


 そうだ。あの場所へ行きたい。

 この冷たくて孤独な場所ではなく、あの温かくて優しかった場所へ。


 俺がそう強く願った、その瞬間。



 最初に変化したのは床だった。

 俺が座り込んでいた冷たくて硬い木の板の感触が、温かく柔らかなものへと変化していた。


 目を開けるとそこにあったのは、乾いたきめ細やかな砂だった。

 太陽の光をたっぷりと浴びて心地よい温度を保っている。


 俺は驚いて周囲を見回した。


 壁が消えていた。

 さっきまで俺たちを閉じ込めていた、あの体育館の壁はきれいサッパリなくなっていた。

 つまり、天井もない。


 代わりに高く、どこまでも澄み渡った夏空が広がっていた。白い雲がゆっくりと穏やかに流れていく。


 そして、目の前には。

 きらきらと光を反射しながらどこまでも続く広大な海。


 ザアア……、ザアア……。


 優しい波の音が鼓膜を心地よく揺らす。


 ここは間違いなくあの場所だった。俺の記憶の中にある、夏の終わりのあの海辺だ。

 俺はゆっくりと立ち上がった。砂が靴の中に入り込む懐かしい感触。

 信じられない光景だった。だが不思議と恐怖はなかった。むしろ、ようやくあるべき場所に戻ってこられたかのような深い安堵感が胸いっぱいに広がっていく。


 だとしたら。


 俺は振り返った。


 そこにはアリシアとセレナが立っていた。

 俺がそうあってほしいと願った通りの姿で。


 アリシアはあの重々しい白銀の鎧を脱ぎ捨てていた。代わりに白いTシャツと動きやすそうなショートパンツというラフな格好をしている。その健康的に日に焼けた肌が夏の陽光を浴びて眩しく輝いていた。

 セレナもあの森の民を思わせる深緑の衣ではなく、涼しげなワンピースを身にまとっていた。風に揺れるその裾が彼女のしなやかな足の線を美しく描き出している。


 そして何よりも違っていたのはその表情だった。


 二人とも穏やかに、優しく微笑んでいたのだ。

 その笑顔は俺がずっと見たかった心からの笑顔だった。


「……やっと晴れたな」


 アリシアが気持ちよさそうにぐっと背伸びをしながら言った。その声は、とてもはっきりと明瞭に俺の耳に届いた。


「ええ、本当に。さっきまでの、あの薄暗い場所が嘘みたいですね」


 俺は自然にそう答えていた。


「……気持ちのいい、風」


 セレナが目を細めて潮風に銀色の髪をなびかせながら、静かに呟いた。


 彼女たちの言葉は、俺が見ているこの世界と完全に一致していた。


 俺は嬉しくて、泣きそうになった。

 ようやく俺たちは同じ世界を共有できたのだ。


 俺は心のどこかでこの場所の不都合さを分かっていた。

 だが、それでも構わなかった。



「なあ、ケイ。あそこまで競争しようぜ!」


 アリシアが悪戯っぽく笑いながら、遠くに見える小さな岬を指さした。


「ええっ、競争ですか? 俺、運動は苦手なんですよ」

「なんだよ、情けねえな! よーい、ドン!」


 彼女は俺の返事も待たずに砂浜を蹴って駆け出した。

 その足取りはまるで羚羊のように軽やかだった。

 俺は苦笑しながらその後を追いかけた。


 セレナは競争には加わらず、俺たちの少し後ろを穏やかな笑みを浮かべながらゆっくりと歩いてくる。


 俺たちは子供のようにはしゃいだ。

 波打ち際を走り、冷たい海水をお互いにかけ合う。疲れたら砂浜に大の字になって寝転がり、流れていく雲をただぼんやりと眺めた。


 アリシアは俺に彼女の世界の冒険譚を楽しそうに語ってくれた。ゴブリンとの戦いの話もドラゴンの巣から宝を持ち帰った話も、ここではただの面白い物語として俺の耳に届いた。

 セレナは浜辺に打ち上げられた色とりどりの貝殻や、綺麗な丸い石を拾い集めていた。そしてそれを使って砂の上に精霊をかたどった美しい模様を描いて見せてくれた。


 俺はそんな二人を見ているだけで幸せだった。

 ここには孤独も恐怖も絶望も、何一つない。


 ただ、穏やかで優しくて温かい時間だけがゆっくりと流れていく。

 俺はこの時間が永遠に続けばいいと心の底から願った。

 もう、あの薄暗くて狂った世界には戻りたくない。


 ここに来る前に感じていたあの息苦しい人間関係の中にも戻りたくなかった。



 やがて空がゆっくりと茜色に染まり始めた。

 昼間の喧騒が嘘のように海は静けさを取り戻していく。


 俺たち三人は砂浜に並んで座り、沈んでいく夕日をただ黙って眺めていた。

 太陽が水平線の向こうへとその最後の光を放つ。世界が一瞬だけ金色に輝いた。


 それは俺があの校舎の窓から見た夕焼けよりも、ずっと、ずっと美しい光景だった。

 何よりも、この感動を隣にいる二人が同じように感じてくれている。その事実が俺の心を温かいもので満たした。


「……綺麗だな」


 アリシアがぽつりと呟いた。


「……ええ。本当に」


 俺は頷いた。


「……ずっと、見ていたい」


 セレナが静かに言った。


 その言葉に、俺は決心した。

 俺はゆっくりと二人の顔を見た。彼女たちは夕日に照らされた横顔に穏やかな笑みを浮かべている。


「もう、大丈夫だよ」


 その俺の言葉は二人に向けいているようでいて、実は俺自身に言い聞かせている言葉だったのかもしれない。


「もうどこへも行かなくていい。戦わなくてもいいんだ」


 そうだ。

 この世界について調査することも。

 ここから脱出しようとすることも。


 全て、もうやめだ。そんなことに何の意味もない。

 そんなことをしなくても、幸福はここにあるのだから。


「ずっと、ここにいよう」


 俺は微笑みながらそう言った。


「三人で、ずっと。この綺麗な世界で」


 俺の言葉にアリシアとセレナはこくりと静かに頷いた。そしてこれまでで一番優しい笑顔を俺に向けてくれた。


 ああ、俺はなんて幸せなんだろう。

 俺は、ようやく本当の安らぎを手に入れたのだ。


 俺は満足感に包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。

 寄せては返す優しい波の音が子守唄のように俺の意識を心地よい眠りへと誘っていった。

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