夏季限定ナポリタン

烏川 ハル

夏季限定ナポリタン

   

 駅から歩いて十数分。

 住宅街の片隅に、一軒の喫茶店があった。

 レンガ造りのレトロな雰囲気の店構えで、中に入ると、マスターのバリトンボイスに迎えられる。

「いらっしゃいませ」


 来店したのは、灰色のスーツを着たサラリーマン風の男。

 彼は数ヶ月前、たまたま仕事帰りに立ち寄ったこの店で、コーヒーと一緒にナポリタンを注文。コーヒーの方は可もなく不可もなくだったが、ナポリタンには感銘を受けた。

 近年のパスタ専門店で出てくるような、洒落たナポリタンではない。小さい頃、両親に連れられて入った喫茶店で食べたような、昔ながらの懐かしい味だった。

 それ以降、彼はこの店に通い詰めるようになり……。

 ある時、顔見知りになったほかの常連客から、面白い話を聞かされた。この店には裏メニューがあるという。

 具体的には、夏季限定の特製ナポリタン。八月のなかば過ぎという極めて限定的な期間だけ提供される、常連向けのサマースペシャルだ。

 是非それは食べてみたい! そんな想いから、さらに頻繁に通い続けた結果。

 ついに今日、その夏季限定ナポリタンを用意してもらえることになったのだ。

   

――――――――――――

   

「お待たせしました。これぞ夏季限定、サマースペシャルのナポリタンです!」

 カウンター席で待つ男の前に、マスターがスパゲッティの皿を置く。


「おお、これが……!」

 期待を込めて、フォークを握りしめる男。

 一見したところ、いつものナポリタンとそれほど変わっていなかった。外見的な違いは、大きなナスの切り身が、いくつか乗せられているだけ。

 男はふと「秋ナスは嫁に食わすな」ということわざを思い浮かべる。しかしナスは本来、夏野菜であり、そのしゅんが既に始まっていることも、男はきちんと承知していた。

 とりあえず、まずは一口分のスパゲッティをフォークで巻き取り、ナスと共に口へ運ぶと……。


「うまい!」

 思わず男は叫んでいた。

 まろやかな口当たり。それでいて濃厚……。

 いや、そんな月並みな言葉では表現しきれない。もっと心の奥底から揺さぶられるような、この味覚は一体……?

 男が顔を上げると、カウンター越しにマスターと目が合った。

 こちらから尋ねるまでもなく、マスターが口を開く。

「味の秘訣ですか? 詳しくは言えませんが、まあ、魂こめた料理ですからね。フフフ……」

   

――――――――――――

   

 同じ頃。

 遠く離れた地では……。


 あの世の鬼たちが、頭をかかえていた。

「また今年も、いくつか帰ってこないぞ……」

「『いくつか』どころじゃない。未帰還、明らかに去年より増えてるじゃないか!」


 お盆のために、一時的に現世へ戻ることを許された霊魂たち。

 現世で過ごしたあとは、精霊馬しょうりょううまの風習にのっとって、向こうで用意されたナス――牛に見立てたナス――に乗り、あの世へと送り帰されるはずなのに……。

 そのナスごと行方不明になっているのだった。


「現世で彷徨さまよっているのかと思いきや、向こうまで探しに行っても見当たらないし……」

「どこ行っちゃったんだろ? 完全に消えちまったよな。まるで悪魔に食べられたみたいに……」




(「夏季限定ナポリタン」完)

   

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏季限定ナポリタン 烏川 ハル @haru_karasugawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ