8話
誠一の目の前には、村の境界を示す古い石碑がある。その向こう側にはアスファルトの道が続き、数百キロ先にはかつての自分の居場所だった東京がある。逃げ出そうと思えば、今この瞬間に駆け出すこともできるはずだった。
だが、誠一の足は、見えない鎖に繋がれたように一歩も動かない。
「逃げても無駄ですよ、佐伯さん。お前のあの動画、そして股間を晒して泥を啜る今の姿……すべては記録されている」
多田の言葉が、耳の奥で呪文のように繰り返される。
誠一を縛り付けているのは、彼が命よりも大切にしてきた「虚栄心」という名の監獄だ。
(もし逃げ出せば、あの映像は全世界にバラ撒かれる。。広告代理店時代の同期、IT長者の知人たち……あいつらに、僕が女子高生を襲い、その残影に縋って自慰を繰り返す『変質者』だと知られる。そんな屈辱に耐えるくらいなら、ここで『死んでいる』方がマシだ……)
都会で培った「他人の目」という感性は、今や自分を処刑するための刃となっていた。彼は自分の尊厳よりも、都会の知人たちに「敗北者」として見下されることを何よりも恐れていた。誠一は、自らのプライドという重石によって、自らを奥ノ沢という檻の中に永遠に閉じ込めたのだ。
かつて誠一が「理想の終の棲家」として購入した古民家。今、その主は誠一ではない。
座敷の中央、誠一が選んだ高価な一枚板のテーブルに座り、誠一の愛用していたエルメスのマグカップで茶を飲んでいるのは、村の猟師である「長谷川」という男だった。誠一は今や、長谷川と奈緒という「夫婦」の生活を支える下男へと成り下がっていた。
「おい、誠一。裏庭の汲み取りが溢れそうになってるぞ。早く片付けてこい」
誠一は反射的に「承知しました!」と頭を下げた。壊れかけた彼の精神は、もはや現実をまともに受け止めることを拒絶していた。彼は、真っ暗な画面のまま電源の入っていないスマートフォンを、ガムテープで胸ポケットに無理やり固定している。
誠一は股間の開いたズボンで、誰にも届かない「実況」をブツブツと呪文のように呟きながら、汚泥の中に手を突っ込んだ。その様は、もはや狂気そのものだったが、彼はそうすることでしか、今の自分を正当化できなかった。
昼下がり、陽光の差し込む縁側で、奈緒と長谷川は茶を飲みながら談笑していた。その様子は、どこにでもある仲睦まじい夫婦の光景だ。
「ねえ、あなた。今朝、本殿の裏に白い鳥が三羽降りたのよ」
奈緒が、今日会った友人の話でもするように、穏やかに言った。
「そうか」
長谷川が短く応じる。奈緒の口から紡がれる言葉は、意味を剥ぎ取られたシンプルな「予言」だった。しかし彼女の口調はあくまで日常的で、昼食の献立を相談するのと変わらない軽やかさがあった。奈緒はすでに村の意思を代弁する巫女として、この地の「道理」を書き換える存在になっていた。
「……よく教えてくれたな。多田さんたちに伝えなきゃならん」
長谷川は満足げに頷くと、昼間から奈緒の肩を抱き寄せた。奈緒は艶やかな微笑みを浮かべ、長谷川の厚い胸板に身体を預ける。二人はそのまま、誠一が庭で「実況」しながら泥にまみれているのも構わず、開け放たれた縁側のすぐ奥で愛し合い始めた。
庭の隅で便所の汲み取りをしていた誠一の耳に、奈緒の甘い喘ぎ声と長谷川の荒い吐息が届く。
誠一は必死に、胸のスマホに固定された死んだ画面へ向けて、唇だけを細かく動かした。
だが、どんなに妄想を広げても、手に触れる汚物の感触と、鼻を突く悪臭が彼を現実に引き戻す。
完全に壊れてしまえば、どれほど楽だろうか。すべてを「演出だ」と思い込み、狂気の淵に完全に沈めたら、この地獄も終わるだろう。
しかし、広告代理店で磨き上げた彼の「冷徹な客観性」が、残酷にもそれを許さなかった。
(違う。僕は今、股間の開いたズボンを履いて、他人のクソを汲んでいる。そして僕の妻は、僕の目の前で、村の男に種を付けられている。これが、僕が選んだ『スローライフ』の、唯一の真実だ)
壊れきれない知性が、彼に鮮明な絶望を与え続ける。
誠一は泥まみれの手で、真っ黒なスマホの画面を撫でた。彼は、都会の虚像としての「自分」を守るために、この村で永遠に「汚物」として生き続ける道を選んだ。
「……幸福です。奥ノ沢は、すべてが約束された天国です……」
誠一は、もはや誰にも届かない「実況」を呟きながら、自らの知性を殺すように、次の桶の汚物を掬い上げた。
奥ノ沢の霧が、すべてを飲み込み、今日も村は静かに廻り続ける。
ハラヤドリ 九式 @rI3jwo22oOdo
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