第7話 心身を蝕む痛み
硝子窓から差し込む光が瞼を透かし、朝が来たことを否応なしに教えてくれた。楽しげな小鳥の
「——痛っ!」
目を覚ました鈴音が起きあがろうと腕に力をこめると身体のあちこちに鈍い痛みが走った。あまりの痛さに
(……痛い)
身体も、心も。全てが痛くて仕方がない。
眠っている間に解けたお面をつけることもできず、鈴音は布団の下で丸くなった。昨夜の記憶は悪夢でも見たと思いたいが心身の痛みが本当にあったことだと教えてくれる。
(……お母様)
今すぐ、鷹司の屋敷に戻り、母に抱きつきたい。泣きながらなにがあったのかを話して、母に優しく頭を撫でられたい。きっと母が自分のことのように鈴音を心配してくれるはずだ。
けれど、
——あの時、殺してしまえばよかった!!
あの日に聞いた母の慟哭が脳内をよぎったことで鈴音は考えを
鈴音は重たい身体を引きずって、鏡台の前に移動した。引き出しを開けて、櫛を探した。蝶が乱舞するあの櫛を。悲しい時や寂しい時はあの櫛を胸に抱くと不思議と気分が晴れた。きっと今の陰鬱な気分も晴らしてくれるに違いない。
けれど、見つからない。いつも置いてあるはずなのに。
次に下の段を開けた。一段目と同じように空白が広がっている。次の段も、その隣の段も全て開けて奥まで確認するがなにもない。
「な、んで」
ここに置いてあるはずなのに。どこにもない。
「どこ! どこにいったの?!」
声を荒げて、空っぽの引き出しを逆さにして櫛を探していると背後から
「お母さ——……き、きょうさま」
そこにいたのは母ではなかった。昨日とは
「あら、鷹司家のご令嬢とは思えない、無様な格好ですこと。一瞬、どこの夜鷹かと思いました」
軽蔑と怒りが宿る目は鈴音の肢体を舐め回すように辿る。
「身体もとても貧相で、真宵さまがお可哀想ですわ」
確かに豊満な肢体を持つ桔梗と比べて、鈴音の身体は貧相だ。慎ましかといえば聞こえがいいが、実際は微かな膨らみがある程度。それに加えて、薄い腹部に小さな
鈴音は布団を掴むと身体に巻きつけた。これ以上、女性として魅力的な桔梗の前に貧相な自分を曝け出したくない。
「それに、その目……」
は、として顔を伏せる。お面が外れていたことを忘れていた。
「なんとも気味が悪い」
「……すみません」
「人ならざる色の瞳など、真宵さまが本当にお可哀想でなりませんわ。我が君は紛い物をつかまされたのですね」
鈴音は顔をしかめた。反論することもできず、ただただ時間が過ぎ去るのを待とうとしていると桔梗が鼻で笑った。
「わざわざ荷物を運んで差し上げたのに、感謝の一つもないのですね」
桔梗が腰に手を当てると顔を左右に振った。柔らかな尾と耳もそれに合わせて揺れる。
鈴音が垂れた前髪の隙間から様子を伺うと、桔梗の背後には昨日鷹司の屋敷から運んできた荷物の山が築かれていた。
「すみません。その、眠ってしまって、運ぶのを忘れていました。ありがとう、ございます」
自分で運ぶと言ったのに忘れていた。その事実に鈴音は顔を真っ青に染めると深く頭を下げた。畳に額を擦り付けて、今自分ができる精一杯の誠意を見せようとすると桔梗がまたもや鼻で笑った。
「いいご身分ですこと。さすが鷹司家のご令嬢さまですわ。人を使うことになれているだなんて」
くすくす、と軽やかに笑いながら桔梗は部屋から出ていった。
一人残された鈴音は自分が泣いていることに気がついた。なぜ泣いているのか、自分でもよく分からない。ただ、目尻からはとめどもなく涙が溢れてきて、
涙を止めようと手の甲で擦るが、なかなか止まらない。
(お面をつけたら、止まるはず)
お面は感情を全て抑え込んでくれる。
それに、これを付ければ、誰も鈴音が泣いているとは思わない。
幼い頃からそうだ。鈴音が父から向けられた悪意の言葉に泣いていた時でさえ、母は気が付かなかった。
そう考えてお面をつけて、紐を結ぶが涙は止まる気配すらない。それどころか、より一層と涙があふれてくる。
お面が顔に張り付く不快さを感じながら、鈴音は自らの腕に爪をたてた。真宵の手形が残る肌に爪を食い込ませると、痛みと共にじわりと血が
涙で濡れた畳に、赤い花が咲くのを見て、鈴音は
(……いっそのこと、死んでしまいたい)
ふと、脳裏を過った言葉は普段なら馬鹿馬鹿しいと一蹴するが、今の心身がすり減った鈴音にとって、とても魅力的な提案だと思えた。
死んでしまえば、お家のことも、お国のことも考えないで済む。父から幻滅されることも、これ以上母を悲しませることもない。時哉との約束を
鈴音が死んでも悲しむ者はいない。
それよりも死んだほうが今よりも物事がうまく進むはずだ。忌み子である自分がいなくなれば父は喜ぶ。生まなければよかった、という母の願いは叶う。自分のような厄介な存在を抱えずに時哉は鷹司を継げる。
(最初から、そうすればよかったのだわ)
そう考えた鈴音は、羽織だけ纏うと桔梗が運んでくれた荷物の山へと向かった。その中からあの櫛を取り出すと、両手で包み込むように胸の上に重ねた。
「……お母さま、ごめんなさい」
——親不孝でごめんなさい。
——普通の眼で生まれなくてごめんなさい。
——最後まで悲しませて、ごめんなさい。
これで許されるとは思わない。
それでも、今は謝罪を繰り返すしかできなかった。自分の存在のせいで、歪んだ全てに。鈴音は何度も謝り続けた。何度も心の中で謝罪の言葉を繰り返すしかなかった。
次の更新予定
狐が来たりて鈴を鳴らす 荻原なお @iroha07
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