第34話 表裏

崖下で揺れる龍灯の光だけが、頼れる道標だ。

視線を落とすごとに重心を微調整し、乱れかけた呼吸を無理やり整えながら進む。冷えた鎖の重みと足裏に伝わる岩肌のざらつきが落ちれば終わりだという現実を、いやというほど突きつけてくる。

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視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア


34 -表裏


ひと呼吸ごとに膝を岩角へ掛け、そこで重心をいったん固定する。そこから鎖を指先でそっと滑らせ、探り当てた小さな突起へ足を移す。片手は鎖、もう一方は岩壁、二つの支えを頼りながら、少しずつ下降していく。


指先に力を込めるたび冷たい鎖の重みがじわりと掌へ食い込み、まだ残る手の痺れが微かに痛みと絡み合った。みぞおちの奥がひゅっと浮いただけで呼吸が乱れ、重心がふっと逃げかける。そのたび、自分を落ち着かせるように岩肌のざらつきと鎖の硬さを確かめ、次の一歩へ集中した。


「大丈夫……大丈夫……」


自分にそう言い聞かせる声が、耳に戻ってくる。

足元は頼りなく、先の大雨で濡れた岩肌は触れるだけで滑りそうだ。足先が崖の縁の小さな岩片を弾くと、それは暗闇の底へ向かって音もなく滑り落ちていった。

それでも目を光の道標に戻し指先と足先の感覚を研ぎ澄ませ、ひと呼吸ずつ高度を下げていく。


少しずつ、体は崖下りのリズムを覚えていった。足の置き方、鎖の握り方、体の傾け方――どれも以前より確かで、無駄な力が抜けている。恐怖はまだ胸に残るが、心は少しずつ落ち着きを取り戻し、目の前の岩肌と鎖に集中できる手応えがあった。体が思った以上にしなやかに動く。


(なんだ、自分もやればできるじゃないか)


そっと息を吐き、稽古で負った手の甲の痺れを確かめるように肩の力を緩めた︎——その微かな油断を狙うかのように、鋭い風が体を攫った。


崖を駆け上がる冷気が一気に吹き上がり、体にぶつかる。

鎖がしなり、握った手がずるりと滑った。

反応する間もなく体は宙をまっすぐに落ち、視界いっぱいに崖下の暗闇が広がった。


「うわっ!」


重力に逆らう体の感覚が、頭の中の理解を追い越した。

鎖から手を離した記憶はあるのに、なぜ自分が宙にぶら下がっているのか頭が整理できない。

慌てて顔を上げると、龍造犬のムギがジュナの足履をしっかり噛み、尾の先端の節を二又に開いて、鋭い尾先を岩の突起に突き刺していた。尾の強靭な刃が岩に食い込み、揺れる体を力強く支えてくれていたのだ。


「助かったよ……ムギ」


頭を下にしたまま、体をうねらせてどうにか鎖へ手を伸ばす。

指先があと少しで届く——

その刹那、指示もしていないのにムギが動いた。


ジュナの腰に、刃のない尾がぎゅっと巻きつく。

続けざまに、頼みの綱だったもう片方の尾刃が岩壁からふっと外れた。


「っえ!?」


落下を覚悟した瞬間、ムギが勢いよく駆け出し、体がぐいと下へ引き下ろされる。


「嘘だろ!待っ──!」


ジュナはムギの胴にしがみつき、首元へ腕を絡めて必死に抱きしめる。

ムギはヤギのように岩を蹴り、跳ねるように下降していった。止まる場所がないときは尾の刃を岩に強引に差し込ませ、中空で体勢を無理やり安定させた。尾の刃だけで体を支えるムギは、崖の幹に食い込んだ枝のように身を固定し、その枝にしがみつく自分は風に揺れる葉のように翻弄されるばかりだった。


跳ね上がるたび、宙で体が大きく振られ、内臓が浮くような感覚に息が詰まる。

視界の端で、崖下の闇だけが膨らんでいく。

ジュナはムギの体に腕も脚も縋りつき、離れまいと歯を食いしばり、目を固く閉じた。来るかもしれない衝撃に備え、全身をこわばらせることしかできなかった。


やがてムギの動きが止まり、音がすっと引く。

その静けさを破るように、拍手めいた手の音が近くで鳴った。


そこにはフリージアの姿があった。


「すごいです!

龍造犬に乗って崖下りだなんて!」


龍灯に照らされた彼女の瞳は爛々と輝き、普段の彼女らしくない小さな動きで、気持ちの高ぶりを体に表していた。


「ジュナ様には鎖など必要なかったのに、つい念には念をと思い準備してしまいました。お節介が過ぎましたね。深く反省しています。

もちろん、私も鎖がなくても問題なく下れましたが……ついジュナ様には必要かと思ってしまって。

考えてみれば次期当主であるジュナ様に私が手を貸そうとすること自体、恥ずべき行いでした」


手を小さく前後に振りながら、早口でまくしたてるフリージアの声は次第に興奮を増していく。


「あの断崖絶壁を龍造犬にまたがって駆け下りるなんて!すごいです!

今度、崖下りする機会があれば、ぜひ私にも同行させてください。約束ですからね!」


フリージアさんの自分に対する評価が不当に高まった気がする……。

ジュナはムギの背からどうにか降りたものの、生まれたての子鹿のように足をぐらつかせ、地面に足をつけるだけで精一杯だった。


「はは……もし今度があれば……ぜひ」

訂正する気力も残っておらず、口をついて出たのはそれだけだった。



♦︎♢♦︎


セピアが馬車の手配をするまで、二人と一匹は台地を囲む環状交差路の縁で、しばらく休憩した。

ジュナはムギに水と軽食(穀物粉と蜂蜜を混ぜた携帯食)を口から出すよう命じ、セピアの分を取り分けたうえで、フリージアと半分ずつかじっていた。


そのひと口を飲み込む前に背後から砂を踏む足音が近づき、続いて聞き慣れた声が落ちてくる。


「奥まで案内してくれるやつを確保できた」


思わず振り返った。

セピアの視線はまずフリージアに向けられ、それから一拍遅れて、腰を下ろしている自分に気づいたらしく、目がこちらへ移った。


「お、ジュナもいたのか。

俺より速く下ったんじゃないか?やるな!」


「まあね……」

フリージアに嘘をついた手前、セピアにだけ素直に返事をするわけにはいかなかった。

辺境伯の息子として取り繕った賛辞にはとっくに慣れている。だがああいう飾り気のない言葉にはつい肩の力が抜けてしまう。


心の奥に微かな安堵を抱えつつ、ジュナたちはセピアを先頭に西区へ足を踏み入れた。


初めのうちは道の様子もそれほど変わらず、足取りは軽かった。しかし進むにつれて舗装はところどころ擦り切れ、足元はわずかに凸凹してきた。


西区の大通りには、道に沿うように夜の街を明るく照らす巨大な龍灯が並び、夜とも思えないほど人であふれている。人々のざわめきや呼び声の合間に、大通りのさらに奥にある闘技場から歓声がかすかに響いてくる。

その雑踏のざわめきは単なる賑わいではなく、叫び声や怒声、緊張と押し殺された苛立ちが入り混じっていた。


——西区、通称(裏茸区)。

南端サウスエッジの中でも最も荒れた区域で、歩道の整備もままならない。

ここには無料でパンと交換できる引換札が配られる配給所と、人間が舞台に立つことを前提に設計された闘技場がある。龍造人形や獣を使った興行もあるが、観客が本当に求めるのは、人が迷い、選び、命の重さを背負ったまま剣を交える瞬間だ。

だからこそ、この区域では人間が文字通り「命を懸けて」舞台に立つことが常態となっている。


上流の者たちの間では、『西区に足を踏み入れるとまず匂いが変わる』と、戯れ言めいた常套句として繰り返し語られてきた。

生計を立てる手段を持たず、社会的な責任を引き受けようとしない者たちが寄り集り、何もかも雑多でありながら金にはやたらと固執する――その熱気に混じるどろりとした汗の匂いは遠くからでも鼻につくのだ、と。


もちろんこれは彼らの厚顔無恥な偏見に過ぎない。

それでも、足を進めればすぐにこの区域に漂う余裕のなさが肌に触れるのは確かだ。


ここを訪れるのはこれが初めてではない。

それでも、この感覚だけは何度目になっても変わらなかった。


誰もが目を光らせ互いの存在を測り合う。

顔の奥に潜む冷たい視線には、信用の薄さとほんの少し足を滑らせれば蹴落とされかねないという恐怖が、絶え間なく張り付いている。






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龍の子らの饗宴 茎乃ハル @siba0101ryo

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