第33話 淡光

視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア


33 -淡光


青を基調とした礼服とカーキ色の礼装用下衣に着替えたジュナとセピアは、粗末な木製の塀に掛けられたフリージアの制服へ視線を向けた。


「まだかかりそうか?」


セピアの問いに、塀の向こうからフリージアの声が届く。


「私はまだやることがありますから、先に崖まで行っててください!」


返事の直後、フリージアの方から金属同士が軽く触れ合うジャラジャラという音が聞こえてくる。ジュナは思わずセピアを見やった。一体、フリージアは何をしているのだろう。


「なんでもいいから急げよ」


セピアは短く言い残すと、蔵を出ていった。

ジュナも出入り口に掛けられた赤のマントル(外套)を取り、フリージアに声をかけて彼の背を追った。


真っ暗な道を進みながら、ジュナは蔵の前で待機させていたムギを引き連れ、額の龍灯で先を行くセピアの背を照らした。

崖に近づくにつれて足元の草は途切れ、代わりに岩がごつごつと顔を出しはじめる。ジュナは躓かぬよう踏み場を確かめながら進んだ。

やがて群落を抜けて木々がまばらになると、月光が葉の間から差し込んで地面と樹影を淡くまだらに浮かび上がらせた。


遮るもののない風が肌を突き刺すように吹きつける。

朱鯉池の断崖に立つと、足元から直下の奈落まで切り立った崖が続いていた。下で光る龍灯は遠く、足を一歩踏み出すたび背筋に沿って冷たい感覚が広がってくる。


風に乗って砂利が小さな音を立てて崩れ落ち、闇に消えていくのをジュナはじっと見つめた。


「……本当に下りられるのか?」


「ここを下りれば、孤児院まで一直線です」


いつの間にか隣に立っていたフリージアは、ためらいもなく一歩を踏み出した。

駆けてきたせいかかすかに荒れた息が混じる声だったが、その響きには揺るぎがない。


「お待たせしました。これを用意するのに少し手間取ってしまって」


彼女の肩には蔵の梁から引きずってきたのかもしれない、途方もなく長い鎖がずっしりと巻きついていた。その重さをものともせず平然と立つ姿に、ジュナは思わず、一歩後ずさった。


フリージアは周囲を見渡すと、

「ほら、ここにちょうどいい岩があります。これを頼りにしましょう」

と指を差した。


「崖下りは久しぶりです。兄とよく競争したんですが、あと少しのところで毎回負けてしまって」


まるで日常の作業のように鎖を岩に巻きつけると、勢いよく崖下へ投げ込んだ。

「ふぅ」

軽く手を払う仕草をしながら、彼女はこちらを振り返った。


「私から下りますね。月明かりも龍灯もありますし、視界は十分かと。ただ風が強いですので、それだけはお気をつけください」


片手で鎖を確かめるように握り、背を奈落へと向ける。そのままもう一方の手でこちらに軽く手を振った。


「下に着きましたら、龍灯の光を点滅させます。合図を見たら下りてきてください」


「お先に失礼します」

最後にそう付け加えると、フリージアは軽く崖を蹴った。風が衣をはためかせ、彼女の姿は闇の中に溶けていく。

暗闇の底で、かすかに鎖が軋む音が響いた。龍灯の光だけが彼女の居場所をかろうじて知らせている。


「さすが“ロゴス一”と謳われる火龍騎士団で鍛えられただけある。やることが豪快だな」

崖下の光がみるみるか細くなっていくのを見つめながら、セピアはいつものように軽口を言った。


「次は俺が下りる。馬車を先に手配しておきたい」


言葉は淡々としていた。

さっきまで孤児院の子どもたちを諦めたように語っていたはずなのに、足先を細かくずらし、腕を何度も組み直す仕草には隠しきれない心配が滲んでいる。それが痛いほどジュナに伝わってきた。


「セピア、本当に大丈夫か」


気づけば声が漏れていた。


「何がだ?」


崖下を見据えたまま、こちらを射抜くような気配だけがある。

その一瞥には、”これ以上言うな”とでも言うような警告の色が混じっていた。


それでもジュナは、言葉を続けた。


龍造鼠ダナトスと接続が取れれば、カリオンのおおよその所在は分かる。カリオンを捕まえて、子どもたちのことが確認できるまでは……待っていてくれても——」


「それ以上言えば、ぶん殴るぞ」


低い声が遮った。

龍灯の薄光がセピアの顔を照らし、真っ黄色の瞳が鋭く光を帯びたように見えた。


「お前らと一緒にするな」


吐き出した瞬間、自分の声にわずかに眉をひそめたようだった。

その後、彼はこめかみを押さえ短く息を吐いた。


「すまん……本心じゃない。

……お前たちには感謝している」


風にかき消されそうなか細い声が、どこか自分を責めるように響いた。

短い沈黙ののち、セピアは髪をかき上げ、頭を掻きむしる。

「ああ、くそ……」

恥ずかしさを誤魔化すように視線を逸らし、再び崖下に目を戻した。


風が止み、崖の下からは虫の音だけが微かに届いた。

セピアは無言のまましばらく闇を見下ろしていたが、やがてはっとして指を差した。

「ジュナ、見ろよ。お嬢が台地を下りきった合図だ」

ムギを撫でる手を止めて覗き込むと、暗闇の底でかすかな龍灯の光が点滅を繰り返していた。


セピアが肩や背を軽く伸ばすのを見て、ジュナはポケットから額に装着する龍灯を取り出した。


「セピア、これをまだ渡してなかった」


「俺は必要ねえよ。まあ、下るのは苦手なんだけどな」


首から下げた龍石を軽く指で弾くと、燐光がセピアを包み、瞬く間に黒猫の姿へと変わった。ジュナに向けてひと鳴きすると、そのまま崖際に身を預け、暗闇の中へ滑り込む。

岩肌を蹴って宙を飛び、台地の縁を軽やかに伝うその動きは、闇を切り裂くように俊敏だった。月明かりに照らされる岩の突起や木の枝を見極めながら、音ひとつ立てずに下へ下へと駆けていく。


セピアの姿が闇に溶けるのをジュナは息を飲んで見送った。

もともと痺れの残る手がわずかに強張る。訓練場でサルウィンに打ち込まれた衝撃がまだ手の甲の奥に鈍く居座っていた。


ようやく腰を上げ、ムギと目を合わせる。

身につけていたマントル(外套)の端をしっかり掴むと、ムギの長い尾がしなやかに持ち上がり、先端の節が二又のように開いた。その狭間から銀色の刃がすっと姿を見せた。

命じるまでもなくムギは尾をひねり、布を音もなく裂いた。

「よくやった、ムギ」

裂けた布を手に巻きつけ、ジュナは指をそっと締め直した。青あざのあたりがうずかないか確かめるように力の具合を丹念に探る。


次に体をほぐそうと、セピアの真似をして腕を回し背を伸ばした。

だが動くたびに足が小さく跳ね、どこかぎこちない。

その情けない動きに口の端が引きつき、苦笑が漏れそうになったが慌てて押しとどめた。

緊張のせいで背筋が固まり、思うように体が動かないことは分かっている。それでもここまで運動面の拙さを痛感すると、我ながらあきれるしかなかった。


ふと視線を巡らせると、ムギがいつの間にか崖の縁へと歩み寄り鼻先を突き出して下を覗き込んでいた。

あまりの無防備さに胸の奥がひやりとする。


「ムギ!こっちに来るんだ」

思わず声が強くなった。


ムギの性能ならこの斜面を伝い降りること自体は造作もない。

だがジュナの警戒が向いているのはそこではなかった。


これから向かうのは西区——カリオンが数多の龍造犬を従える巣窟だ。

ムギには“悪意”という概念がない。同じ龍造犬を見れば、尻尾を揺らしてまっすぐ近寄ってしまうだろう。

人の手のぬくもりだけで育ってきたムギにそんな思いは決してさせたくない。どんな状況でも危険にだけは晒すまいと決めていた。


ムギは鼻息を荒げ、「ふん」と小さく声を漏らしながら、金属の爪先で地面をちょいちょいと叩き、退屈そうに背を伸ばしている。


「帰ってきたら、いっぱい遊ぼうな」


ムギが池に戻っていくのを見届けて、ジュナはゆっくりと視線を崖下に落とした。

そこでは龍灯の光が幾度も点滅している——下ってよいという合図だ。


崖の端に立つだけでも胸が詰まる。

でも、これは自分で選んだ道だ。弱音なんて吐いてはいけない。

フリージアさんもセピアも無事に下りきったんだ。

僕だって、やれる……はずだ。


額の龍灯をもう一度調光し、そっと視線を下へ送る。体を傾ける角度を確かめながら、膝で慎重にバランスを取り直す。足場が抜け落ちる情景が、動くたびに嫌でも脳裏をかすめた。震えの残る足を岩の突起へそっと置き、滑らないよう感覚を研ぎ澄ませながら片手で鎖をゆっくり滑らせて、ひと呼吸ずつ降りていく。


風がないことが、ただただありがたい。

ひとたび吹かれれば鎖は揺れ、握った手が滑る恐れがあった。冷たい鉄の感触だけでも神経が張りつめているのに、そこへ風が混じれば一瞬の油断がそのまま崖下へ直結する。肩を小さく竦め、指先に力を込め直して鎖を握りしめた。


崖下で揺れる龍灯の光だけが、頼れる道標だ。

視線を落とすごとに重心を微調整し、乱れかけた呼吸を無理やり整えながら進む。冷えた鎖の重みと足裏に伝わる岩肌のざらつきが落ちれば終わりだという現実を、いやというほど突きつけてくる。

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