アルキメデスの大戦を語る

朝吹

 

「アルキメデスの大戦」とは、キャラの顔芸と肩幅が気になって話が頭に入ってこないようでいて入ってくることで有名な、三田紀房の漫画である。三田紀房といえば「東大へ行け」の広告が頭に浮かぶ。全国の少年少女に無茶ぶりしてくるあれだ。


 三田紀房なので面白いに決まっているのだが、面白いにもいろいろあって、突っ込みどころが満載で面白いという意味で、戦後八十年の節目の今年、「アルキメデスの大戦」を推したい。

 電車の中で読んではいけない。


 

 東京帝国大学数学科、おそらく主席入学の数学の天才、櫂直(かい・ただし)が、大日本帝国を背負い、日本開闢以来の国難といっていい世界情勢のなか、帝国陸海軍および、世界の列強を相手に真っ向から挑んでいく物語だ。

 実在した人物を絡めて進むこの作品、2019年には菅田将暉さん主演で映画化もされている。原作のかいは昭和の二枚目俳優のイメージなので、菅田将暉さんだとちょっと子どもっぽくみえて線が細いが、映画は映画として別腹で楽しめるのでご興味があれば。


 櫂直(かい・ただし)。初登場時、二十二歳。

 ずっと後に、戦争末期のサイパン島でその写真を目にした女からも、「すごい二枚目 映画俳優みたい」と云わしめる美丈夫。その頭脳は明晰を通り越して天才の域、多言語を操り、立ち振る舞いはスマートにして大人(たいじん)の風格を漂わせ、当時の日本が突き進もうとしていた不毛な戦争を何としても阻止し、日本をよい方向に導くのだという漢気と勇気と正義感に燃えている。全方位の要素を盛るだけ盛られた、完璧な男である。

 そんな彼の武器は、数学。

 数字で割り出した理論によって、不可能は不可能、敗けるものは敗けると、相手がどれほど目上であろうが大統領であろうが、軍部、財閥、外国要人に数字で斬り込んでいくのだ。

 ついには欧州に飛んで、ナチス親衛隊の銃口の前に身を晒し、ユダヤ人技術者を背中に庇って大陸から日本に連れてくるという具合。高速回転する頭脳は冴えわたり、当然ながらポーカーをやれば無敵である。

 ボンド顔負けの獅子奮迅、八面六臂、お前ひとりで世界を回しているのかと後頭部をはりたくなるが、こんな櫂にも弱点が一つある。

 それは、女に弱いということだ。


 いや、弱くはない。

 この美貌と性技で骨抜きにしてやるとハニトラを仕掛けてきた美しき女スパイに対して櫂は、あろうことか逆ハニトラを仕掛けて見事に仕留めている。

 数学のことで頭がいっぱいのくそ真面目な朴念仁かと思いきや、気の利いた誘い文句を上品に繰り出して、手に入れた女に対しては強い責任感をもって大切にするのだ。

 堕とした女スパイに対しても櫂は、誠心誠意、「僕も君の苦しみをともに背負っていく」と口説く。

 百戦錬磨の女スパイをして、

「抱かれた女は虜になるわ」

 と云わしめるほどの男。 

 そんな櫂直(かい・ただし)であるが、もうどうしようもなく、関わった女を不幸にしてしまうのだ。

 誰が悪いのでもない。

 櫂が惚れぬき、女も櫂に惚れ、男としても女としてもこれ以上はないであろう幸福に包まれても、女のほうが必ず不幸になる。

 もし櫂の手相をみたら、

「天賦の才に恵まれて、全てが抜きん出て素晴らしいが、女難の相がある。しかも女の方にその難がいく」と云われるのではないだろうか。


 その傾向は物語の冒頭から顕著であった。家庭教師としてお屋敷に通っていた先の財閥令嬢とこじれたのだ。

 この令嬢、かっこいい櫂先生と「あやまち」したくなり、先生に唇を寄せるのだが、そこに女中が来てしまったことで、咄嗟に櫂先生に襲われたふりをする。その代償は大きかった。

 令嬢を溺愛している父親は激怒。婦女子を襲った汚名を着せられた櫂は、数学者としての将来を嘱望された東京帝国大学から退学処分にされてしまう。最初から女で躓いている。


 しかし櫂はおとこである。

 これ以上、お嬢さんに恥をかかせてはいけない。

 恥辱に頬を染めながらも、潔く処分に甘んじる。


 将来を嘱望された学生エリートの思わぬ挫折。

 そこで櫂はどうしたかというと、日本の大学を捨て、勉強の場をアメリカに求めて渡米を決意する。ここまではいい。

 ただ旅立つのではない。

 日本に別れを告げる前に、櫂の才能を惜しむ恩師の温情によって高級料亭での接待を用意された櫂直(かい・ただし)は、芸者遊びをするのである。

 ……ここ、よく分からないが、彼なりにやけくそだったと思われる。現在に置き換えるならば、二十二歳の男の子が銀座の高級クラブを一晩貸切るとか、そんな感じだ。

 そんなことをやってしまう。


 そしてその晩、同じ料亭に偶然にも、山本五十六をふくむ帝国海軍の高官が訪れていたことから、櫂の運命は思わぬ方向に転がりはじめる。この時、山本五十六は悩んでいた。巨大戦艦の建造計画を阻止したいのだが、それには見積もりの矛盾をことこまかに暴ける、算術にあかるい者が必要なのだ。

 芸妓を独り占めにしているのは誰かと女将にきくと、帝大数学科の学生だという。

 直談判に向かった山本五十六、そこで、酒に乱れることなく芸者ときれいな遊び方をしている櫂と対面する。


 軍人としてそれなりに大勢の男に接してきた山本五十六である。泣く子も黙る海軍高官をみても動じない櫂の風格にびびっとくるものでもあったのか、櫂の身の上をきき出し、その数学の才能を活かして海軍に入ってくれないかと若造に頼むのだ。

 櫂は断る。

 しかし、アメリカ留学に向けて船に乗船しようとしていた矢先、櫂はくるりと踵を返して、自分の使命を全うする決意をする。どんな使命かというと、恵まれた頭脳を役立て、この俺が、日本を莫迦げた戦争に向かわせはしないという信念である。数字から全てを割り出す櫂の目には、「アメリカと戦争すれば日本は敗ける」がゆるぎないかいなのであって、国内に蔓延しているど根性の精神論や、不屈の軍人魂など、話にもならぬのだ。


 根拠はひたすら数字から導き出す理論。


 櫂は超巨大戦艦にこだわる頭のかたい軍上層部に見切りをつけて、新世代の武器である戦闘機に戦争抑止力をみとめ、航空廠(製造所)に乗り込むことになる。

 航空廠で櫂を待っていたのは、これまた輪をかけて、わからんちんの面子。戦闘機の図面を持ち込んだ櫂は門前払いをくらい、顔面に酒をぶっかけられた上、航空廠勤務の男からこのように云われる。

 

 実績なんて俺達には関係ない! 評価もいらない! 

 俺達は好きなことをやるんだ!

 俺達が創りたい海軍機を造る!

 飛ばしたい飛行機を自由に飛ばす! それが航空廠だ!


 すると役職名、海軍省特別会計監査課課長の櫂はこう応える。


 実績も評価も関係ないだと?

 国家に成果でもって貢献できないならば軍人を辞めろ!

 実戦に運用可能で戦果を発揮する戦闘機を一機も開発できないのであれば航空廠は即刻潰す!

 いいか諸君!

 海軍という巨大組織で生き抜くには力だ! 力が要る!

 強い力を持たない限り自らの目標も理想もなにひとつ達成できない! 夢を語る暇があったらまず力を持て! 力とはすなわち・・・・

 実績と評価だ!


 出ていけと掴みかかられても何のその、まったく臆せず一歩もひかず、「ドラゴン桜」式の熱い檄を飛ばして、櫂は持ち込んだ機体の図面を彼らに納得させるまで熱い勝負を仕掛けていくのだ。

 経理局にいる櫂は信念をもって動いている。その信念とは、

【国民の血税を役にも立たない不要なものには決して使わせない】という数字上の信念である。

 無駄の最たるものが、見栄でしない無用な軍備および、勝ち目のない戦争なのだ。


 ところが、軍内部で孤軍奮闘するこの櫂の信念は、理詰めであるがゆえに、


 どうしても、どうしても、世界一の軍艦を造りたい。海に浮かべてみたい……どうしても、大日本帝国ここにありと欧米列強に存在を誇示したい……世界最大の巨大戦艦を造れば、日本の造船技術の高さをみた世界は日本と戦争をするのを躊躇するんじゃないかな……?


 そんなドリーマーたちの妄念と執念にはことごとく吹き飛ばされて負けてしまうのである。

 軍議に出たとて、数字から弾き出した櫂の説く作戦案は、一顧だにされぬ。

 ここに櫂直(かい・ただし)という天才の悲劇がある。

 魚豊の漫画「チ。―地球の運動について」において、真理に到達しようと足掻く人間の動機が、「疑問を持つこと、心をふるわせる感動」にあるのならば、櫂の場合はまず、まっすぐに真理に辿り着いてしまい、そこから下界に降りてくるという手順になるのだが、どれほど理を説いたところで、


 おおきなおおきな戦艦を造って海に浮かべてみたい


 そんな純粋な、「人類の抱く見果てぬ夢と、胸をうつ感動」には敵わないのだ。

 悲劇である。

 悲劇ではあるが、一歩間違えれば、

「一機で数千の敵兵を殺せるのならば、特攻を採択するべきだ」

「核だ。核を保有しよう。核を落とせば戦争はすぐに終わる」

 とおもいつくのも、意外と、櫂のような男だったかも知れない。なにしろ全てが対費用効果で考えていますから。



 作者の三田紀房は、「電灯顔」を多用する。電灯顔とは、懐中電灯を顔の下にあてて照らした時のホラーなあの陰影である。

 べつにここで電灯顔をつかわなくても、という場面であっても、潔くこのホラー的な表現方法を用いる。当然だがものすごい顔になる。そんなところにそんな光源ないでしょ? という場面でもいきなり暗転と懐中電灯だ。

 すごいな、と思うのはたとえ電灯顔であっても櫂の男前ぶりには影響がないことだ。まるで行灯あんどんの前で刀を睨む幕末の志士のごときである。そしてやはり、肩幅が気になる。


 そんな櫂。

 女に恵まれるが、恵まれない。

 わたしは本稿の冒頭で「面白い」と書いたのだが、物語は文句なく面白いのだが、く、という意味でも面白いのだ。

 生涯をかけて櫂が愛したのは、佳つ世(かつよ)という芸者だ。数学に強いのはなにも櫂だけではない。山本五十六に説き伏せられて海軍省経理局に入省した櫂はさっそく、戦艦A案versus戦艦B案の、激烈な数学対決を省内の老獪な造船技術者相手に繰り広げることになるのだが、その激闘を制した櫂が寝て起きたら隣りにいたという女が、佳つ世だ。

 どうも櫂は、薄幸な美女にころっといくようで、そのまま佳つ世とは小さな家で同棲することになる。佳つ世と暮らしたこの頃が櫂にとって、もっとも倖せな時であっただろう。

 ありあまる才覚をもつ櫂であるが、約束された栄達もすてて女のために生きると本気で女に云うことができる。「人に尽くして見返りを求めず、人を守りて己を守らず」平民宰相、原敬はらたかしが唱えた宝積精神を生まれつき有していることに加えて、


 命をかけて国を守るのも、ひとりのおなごを守るのも、男子の本懐


 これを地でいっているからだ。

 櫂は、芸者である佳つ世に結婚を申し込む。

 その佳つ世であるが、将校は芸者と結婚してはならないという海軍の規約を山本五十六から直々に説かれて、櫂のために消えるように身を引いていく。



 ここまでお読みになった方は、なんと惚れ惚れするような日本男児ではないかと、櫂直(かい・ただし)のことが好きになっているかもしれない。しかしやはり天才は紙一重なのだ。凡人には到底推し量れない領域にその嗜好が飛んでいる。

 幼少期、数字に強い子どもだった櫂に、父親は、巻き尺(メジャー)を与えた。気になるものは何でも測ってしまうその癖は大人になっても欠けることがなかったとみえて、さっきまで布団の中でやさしい目をして佳つ世に寄り添っていた櫂、やおら巻き尺を取り出して、女体の部位の計測をはじめるのである。

 ファンの間では「計測プレイ」と呼ばれているこの奇行。

「女体の神秘を数学的に解明するのだ」

 はだかの女に対する布団の上でのこの奇癖。挙句は、

「君は真白なうるわしき軍艦だ」

 なんだそれな激賞を佳つ世に贈る。どんな顔をしてきけばいいのだこれ。

 佳つ世さんはよく耐えた。

 それとも耐えられなかったから姿を消したのだろうか。


 君は真白な麗しき軍艦だ


 こんな珍妙な褒め言葉をきいた女性が他にいたら、ぜひ、その時の感想をきかせて欲しい。

 櫂の変態ぶりは、これで最後ではない。

 乗り込んだ航空廠には奇縁にも、に惚れていたという男がいて、櫂に佳つ世を奪い取られた怒りを隠そうともしない。

 ところが櫂は顔面に浴びせられた酒を落ち着いた仕草で拭うなり、

「たしかに佳つ世さんはいい女だ」

「それは幾何学的にも証明できる」

 いつも携帯している手帳を開く。


「これは佳つ世さんのおっぱいの表面積と体積を計測した数値です」


 海軍省から何やら偉そうな若い男がやってきた、泣きっ面をかかせて追い返してやると男たちが腕をまくっていたところへ現れたのは、想像の斜め上の変態、櫂。

 急に笑わせてくる、ド変態である。

 日本を救うにはどうすればいいのだ、そうだあれだ、と眸をかがやかせて空を飛ぶ複葉機を見ていた男とはとても思えない変態ぶりを発揮して、櫂は、いきり立っている男を前に『実地に入手した佳つ世の数字』を並べ立てていく。

 天才の口から出てくるおっぱいは一味違う。

 小さなコマ割だがこの時の櫂は、頭から人を喰うような、ものすごく悪い顔をしている。おもえば、三田紀房お家芸の懐中電灯顔の時であっても正義の人であるはずの櫂はまるで一番の悪役であるかのような、迫力のあるこわい顔をしている。蝋燭のあかりに照らされた真夜中の仏の顔とでもいおうか。

 数学という絶対的な価値基準への自信と共に、腹の底に溜めたこの勝負師の覚悟と挑発があればこそ、度胸満点、この男はヒトラーやルーズベルトの前にも出ていけたのであろう。


 ご興味のある方は漫画を読んで、櫂直(かい・ただし)の変態的な生きざまをご確認下さい。数字で世界に挑み、そして、敗れ去った男の話だ。



 

 [了]


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(余談)

「チ。―地球の運動について」、少女ヨレンタさんは井戸に降りてのち、狭い横穴を匍匐前進して真上で行われている講義を盗み聴きするのだが、その状態でずりずりと腹ばいで戻り、井戸の底で方向転換した後に井戸に垂れている縄をよじ登って地上に戻っていたということでいいのだろうか。

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