第3話 鍵のかかったリビング

 夜の家は、冷蔵庫のうなりと時計の秒針だけが生き物みたいに息をしていた。

 リビングのドアには、新しいチェーン。銀がまだまぶしくて、玄関の小さな明かりを反射する。母が置いていったメモは、テープの端が少し浮いている。


「相談中。今日は戻りません。—母」


 22:04、玄関の鍵が回った。

 金属が金属を押し分ける低い音が、廊下の空気を硬くする。


「……何だ、これ」


 父の声は、思っていたより静かだった。その静けさが、逆に音を重くする。

 チェーンが揺れ、リビングのドアの取っ手が2回、3回、無駄に回された。


「開けろ。話をしよう。今すぐだ」


 ユナは部屋の中で立ち尽くし、合図糸を指で探す。

 イトコが、ベッドの端に腰をかけた。体の表面は、昨日より少しだけ色が薄い。


「ここは開けないほうがいい」

 いつもの柔らかい声が、薄く擦れている。

「開けない理由を、相手は理解しない」

「理解は不要。境界が先」


 ドアの向こうで、父が短い息を吐いた。ため息とは違う、音の端が尖った呼気。

 次の瞬間、ドアが1度だけ強く叩かれた。チェーンがきゅ、と鳴って止まる。


「明日、学校に行く。お前の担任と話す」


 靴音が廊下に遠ざかる。外のドアが開いて、また閉まる。

 静寂が戻った。静寂は、利口なふりをして、長居する。


「……怖い」

 ユナが言うと、イトコは小さくうなずいた。

「怖いのは、君が悪いからじゃない。境界の線が新しく引かれたとき、向こう側の人が最初に出す反応がこれだ」


「巻き戻せば、言わなかったことにできる?」

「できる。でも、明後日か来週、別の場所で起きる。ぼくは、今日は巻き戻さないほうが良いと思う」


 部屋の隅で、黒い鼻先がぴくりと動いた。

 ソファに丸まっていた柴犬のハルが、ゆっくり顔を上げる。茶色の耳が、玄関のほうを向く。

 首輪は、古い布のバンド。ところどころ擦り切れて、白い糸が見えていた。


「ハル、こっち」

 ユナが手を叩くと、ハルは伸びをして、尻尾を小さく振った。

 背中に掌を置くと、体温が確かで、匂いが土と陽の混じった感じで、心臓の早さが少しだけ落ちる。


「君の生きるほうの結び目は、今はこの子だ」

 イトコが言う。

「守り方を早めに決めよう。散歩の時間、玄関の鍵の段取り、リードの状態。細かいことほど、命に効く」


 ユナは、うなずいた。

 ハルの首輪のバックルを見た。金属の角が少し欠けている。買い替えなきゃ、と何度も思ったのに、伸ばした手がいつも途中で止まっていた。


 その夜は眠れなかった。

 天井の角に街灯の光が薄く当たり、四角い明滅がゆっくり動く。合図糸を軽く引くと、イトコが「ここにいる」と短く返す。返事は、かすれても、届く。


 朝、カーテンを開けると、空は薄い灰。雲は低く、匂いは湿っている。

 ハルの水皿を洗い、餌を量って皿に入れる。キッチンの電子秤に「90」と数字が出て、その数字がやけに強く見えた。


「行く?」

 ハルは首を傾げてから、玄関のほうへ小走りに行く。

 リードを手に取って、首輪の金具に留める。金具の動きが、いつもより鈍い気がする。

 扉を開ける前に、合図糸がユナの指を引いた。

「リード、結び直し」

 言われて、二重に結びなおす。

 玄関の外に風が入り、廊下の埃が少し舞い上がる。


 校門に着いたのは7:52。

 昇降口のドアに手をかけると、誰かが後ろから軽く押してくれた。

 新田ハルトだ。

「おはよ」

「……おはよう」

 言えた。今日は、昨日より少しだけ大きく。


 教室はざわざわしていて、黒板は空白だった。

 御影マコは窓際の席で、スマホを見ずに外を見ていた。頬に髪がかかって、耳の輪郭が見える。

 ユナと目が合う。マコは、ほんの一瞬だけ、視線を下げた。逃げる、のではない。整理する、みたいに。


 8:25、担任が入ってきて、出席を取り、連絡事項を読み上げた。

「それと——」

 教卓の横に、紙で覆った小さな木箱が置かれている。

 白い紙には、太いマジックで「思い出箱」と書いてあった。

「今週から、**“思い出箱”**をやる。今週の“光るもの”を、言葉でも写真でも入れていい。誰かを傷つけるものは禁止。見たい人は、金曜の終わりの会でみんなで見る」


 教室の空気が少し動いた。

 マコが手を挙げる。

「“光るもの”の定義は?」

「君が“光る”と思うものだ。自分の中の基準でいい。ただし、“暗いもの”を光らせたふりで入れるのは、やめてくれ」

 担任の目が、黒板の右下を一瞬だけ見た。昨日までの白い文字は、そこにはもうない。それでも、見えるものはある。


 1時間目の国語は、静かに過ぎた。

 休み時間、新田がユナの机に寄ってきた。

「箱、どうする?」

「まだ、わかんない」

「俺、音入れようかな。駅のホームの朝の音。気持ち悪いけど、光ってるときある」

「音」

「うん。録るだけで変わる。聞くために録る、とかじゃなくてさ。残すために録るの、ちょっと気持ちが違う」


 マコが横を通り過ぎた。

「音、いいじゃん。匂いは難しいし」

 立ち止まらずに、短く言う。

 ユナはマコを見て、声を出さないまま、ほんの少し頷いた。

 マコの気配が、前より棘少なめで、でも油断できない感じに変わっている。昨日の屋上の風が、髪にまだ絡んでいるみたいだった。


 2時間目が始まる前、職員室から呼び出しの紙が来た。

 「河合ユナ、3限後、相談室へ」

 紙の端に、担任の手書きで小さく「見届け」と書き添えてある。


 3限目が終わって、廊下を歩く。

 相談室のドアは半分開いていて、中にスクールカウンセラーの女性がいた。薄い青のカーディガン、小さなピアス、机の上に温かい飲み物。

 担任は少し遅れて入ってきて、椅子に腰をかけた。

「昨日の件、少し話そう。——君の家のことも」


 ユナは、息を吸って、吐いた。

 イトコの糸は、指に軽くかかっている。

 言葉が出ない時間が、少し続いて、それでも止まらなかった。

 父の声、チェーンの音、母のメモ、屋上の風、黒板の白い文字、グループの画面、ハルの温度。

 全部が、順番に並ぶわけじゃなく、重なりながら出ていく。


 話している間、担任は手元の紙に時刻と単語だけを書いた。「22:04」「チェーン」「今すぐ」「相談」「ハル」。

 カウンセラーは、相槌が少なく、目線が逃げない。

「ごめんなさい」

 ユナが言うと、担任は首を横に振った。

「謝らなくていい。謝罪の位置が違う」


 面談の最後に、担任が言った。

「今日の放課後、御影にも話を聞く。君は帰っていい。ただ——帰る前に、用務員さんにお願いして、屋上の階段の南京錠を新しくしてもらう」


「新しく」

「うん。鍵番号を変える。管理簿も。空白の時間がある。埋める。手続きで縫えるほつれは、手続きで縫う」


 ユナは頷いた。

 相談室を出ると、廊下の向こうからマコが歩いてくる。

「呼ばれた?」

「うん」

「わたしも」

 ふたりはすれ違いかけて、足を止めた。

「昨日の……ありがとう」

 ユナが言うと、マコは首を横に振る。

「ありがとうは、早い。今日のぶんがある」


 午後の授業は、耳に入ったり入らなかったりした。

 終わりの会で、担任が「思い出箱」を教卓から前に出した。

「入れたい人は入れていい。無理に入れなくていい。入れたくないものは入れない。でも、消したいものを入れるふりをするのはやめよう」

 箱の紙が、手の汗で少ししわになっていた。


 昇降口で靴を履き替えていると、新田が来た。

「帰る?」

「うん」

「俺、寄り道。駅、録ってくる。……これ」

 小さなUSBメモリを見せる。

「録音、これにも入れとく。箱に入れる前に、コピーしとこうぜ。消されたりしたらやだし」


「——」

 ユナは言葉を探したが、見つからず、頷いた。

 USBの表面に、指の汗が薄く残る。

「じゃ、あとで」


 家までの道は、湿った風が吹いていた。

 マンションのエレベーターの鏡に映る自分は、目の下が少し黒い。

 玄関の鍵を開ける。

 リビングのチェーンは、そのまま。

 ハルが尻尾を振って出てくる。

「ただいま」

 小さな声が、部屋の空気に吸い込まれる。


 ハルの餌を入れ直し、水皿を洗って、首輪を確認する。

 金具が、やっぱり心配だ。

「明日、買いに行こう」

 自分に言うみたいに口に出す。

 台所の椅子に座ると、スマホが震えた。

 母から。


「今夜も戻らない。鍵は替えたままで。何かあれば、下の人に頼んで。—母」


 下の人——管理人室。緊急のときのことは、いつもメモに書いてある。

 ほんとうは母に「一緒にいて」と言いたい。

 言ったところで、母がもっと疲れる顔をするのが目に浮かんで、喉の奥で言葉が固まる。


 ハルは、ソファの上で丸くなりながら、時々耳だけを動かす。

 外の廊下で、エレベーターの音がして、足音が3つ通り過ぎた。

 19:11、エレベーターがもう一度止まる。

 ユナの心臓が、胸の中で位置をずらす。

 鍵が回る音。

 ドアノブが叩かれる音。

 チェーンが鳴る音。


「開けろ。話をしよう。今すぐだ」


 同じ文。昨日よりわずかに低い。

 ユナは立ち上がり、玄関との距離を測るみたいに廊下の真ん中に立った。

 合図糸が、指先で軽く引っ張られる。

「管理人室に電話を」

 イトコの声が、短く、速い。

 ユナはダイヤルを押し、内線がつながるのを待った。

 コール音が2回鳴って、機械的な声が出る。

「はい、管理人です」

「上の……いえ、自分の家の前で、父が。チェーンをしてるので、入れないんですけど、ドアを——」

「すぐ行きます」

 電話が切れて、足音が階段を上がってくる気配がする。

 玄関の向こうで、父の呼吸が近い。

「開けろ」

「管理人さん、来ます」

 声が出た。思ったよりも落ち着いていた。

 父は2秒だけ黙ってから、舌打ちを小さく1つ。

 それから、声を低くして言った。

「犬の餌はどうした」


 唐突な単語。

 ユナは、台所の皿を見た。ハルはもう食べ終えて、床を鼻で押している。

「食べた」

「散歩は」

「朝、行った」

「首輪は」

「付けてる」

 会話が、妙に数字っぽい。0か1かの確認みたいに。


 エレベーターの音がして、管理人の小走りの足音が近づく。

 「どうされました?」の声と、父の短い応答、チェーンの問題、苦情、といった単語が交互に重なる。

 やがて、父の声が遠ざかった。

 それでも、いつ戻ってくるかはわからない。

 ハルが、玄関の隙間の匂いを嗅ぎに行こうとする。

「だめ」

 首輪の背中を押さえる。

 金具が、ごく小さく、音を立てた。


 その晩、ユナは枕元にリードを置いて寝た。

 イトコは、窓際で座ったまま、外の暗さをじっと見ている。

「糸は、まだ**89%**ある。……目安だけど」

「足りる?」

「足りるうちに、選ぶ。足りなくなってからでは、選べない」


 目を閉じると、屋上の風と、管理人の足音と、ハルの呼吸と、鍵の音が同じ層に乗って、交互に前に出てきた。

 眠りは浅く、朝は固かった。


 翌朝、学校の廊下で、用務員の白髪の男性が南京錠を持って歩いていた。

 担任が一緒にいて、管理簿に何かを書き込んでいる。

 ユナは、遠くからその筆圧を見て、「埋まる音」を想像した。紙に穴を開けるほどではないけれど、確かに埋まる音。


 1限が始まる前、マコがユナの机の横に立った。

「箱、なに入れる?」

「まだ」

「写真、どう? 証拠とか」

 マコの声は平板で、表情は読みづらい。

「証拠は、箱に入れとくと安心だよ。みんなの前で出せるから。勝手に消せないし」

 ユナは、胸の奥で何かがざわつくのを感じた。

 証拠。箱。安心。言葉だけ見れば、正しい。

 でも、箱は——開けられる。いつか誰かに。

 その「いつか」の顔が浮かばないところが怖い。


「音、録った」

 新田が小さくUSBを見せる。

 透明のキャップの中で、金属が朝の光を返す。

「放課後、コピーしよう」

 ユナは頷いた。

 箱に入れる前に、外へ。外にあるものは、消えても、外にもう1つある。


 放課後、職員室の前の小さな机で、ユナと新田はUSBをコピーした。

 コピーのバーが、青から緑に変わる。

 その横を、マコが通り過ぎる。

「なにそれ」

「駅の音」

「ふうん」

 マコは一度だけ振り返って、ユナとUSBを見て、何も言わずに相談室のほうへ曲がった。呼ばれているのだろう。

 ユナは、USBをパーカーのポケットに滑り込ませた。

 小さな重さが、意外と重い。


 帰り道、空は薄いオレンジにほどけていく。

 マンションの前で、同じ階の女性が買い物袋を抱えて歩いていた。

「ワンちゃん、かわいいわね」

 エレベーターで一度会ったことのある人だ。

「……ありがとうございます」

「うち、昔、首輪が外れてね。怖かった。金具は定期的に替えたほうがいいわよ」

 ユナの肩が、わずかに強張る。

「はい」

「じゃあね」


 玄関の鍵を開ける前に、合図糸が指を引いた。

 イトコが小さく言う。

「リードは先に」

 玄関の中に入ると、ハルが飛び出してこようとする。

「待て」

 普段より強い声が出た。

 ハルは止まる。目がこちらを見る。言葉の意味ではなく、空気の重さで止まったのだ。


 餌と水を用意して、散歩に出る。

 エントランスのガラス扉の向こうで、夕焼けが反射する。

 リードの手応えは、今日は少し軽い。

 角を曲がるたびに、イトコが「ここから」「ここはゆっくり」と短く言葉を置く。

 帰り道、マンションの前で、ハルが突然何かの匂いを追って走ろうとした。

 リードがぴんと張る。

 金具が、きしむ。

 ユナは両手でリードを持ち替えて、体重を後ろにかけて止めた。

 ハルがこちらを見上げる。舌が少し出ている。

「だめ」

 声が震えた。

 ハルはしょんぼりして、すぐに歩幅を合わせた。


 夜。

 冷蔵庫の音。時計の秒針。遠くの国道の低い唸り。

 19:03、エレベーターの音。

 鍵の回る音。

 チェーンが鳴る音。


「開けろ。話をしよう。今すぐだ」


 ドアの向こうに、今日は誰も来ない。

 管理人室は、もう閉まっている時刻。

 ユナは、スマホの画面を見た。

 母からのメッセージは来ていない。

 父からは、1通。


「犬の餌は俺が買ってある。玄関の前に置く。取りに来い」


 しばらくして、本当に、外でビニール袋のこすれる音がした。

 ドアスコープを覗くと、廊下に白い袋。中にドッグフードの箱。

 父の影は見えない。

 ハルが、ドアの下の隙間を鼻で押す。

 ユナの手が、無意識にチェーンに伸びそうになる。

 合図糸が、強く引かれた。

「待つ」

 イトコの声が、低く短い。

「時間は、こちらにも味方する。今は、開けない」


 10分、15分、20分。

 外の気配が薄くなる。

 ドアを少しだけ開けて、袋を内側に引き入れる。

 チェーンは外さない。

 袋の口から、紙の匂いとドッグフードの粒の匂いがする。

 ハルが、袋に鼻を突っ込もうとして、ユナに止められる。

「落ち着け」

 自分に言ったのか、ハルに言ったのか、わからない声。


 袋をキッチンに運び、棚の奥に入れる。

 玄関に戻ると、ドアの外で誰かの足音が一瞬止まり、また遠ざかった。

 怖い、というより、薄い。

 音が、薄い。

 薄い音のほうが、後で濃くなることを、ユナはいつかどこかで学んだ気がした。


 夜が更ける。

 ハルはソファで丸くなり、時々夢を見て小さく足を動かす。

 ユナは、机の引き出しからUSBを出し、ポケットに入れ直した。

 小さな重さが、体の真ん中に移動する感じがした。


「明日」

 イトコが窓際で言う。

「明日、箱に音を入れる。その前に、コピーをもう1つ。外に置く場所を作る」


「外」

「河川敷でも、橋桁でもいい。見つかりにくく、思い出せる場所」


 ユナは頷いた。

 眠りに落ちる直前、合図糸が指で小さく鳴った。

 それは、針が布に最初に刺さるときの小さな音に似ていた。


 翌朝。

 7:31、スマホが震える。

 御影マコから、短いメッセージ。


「箱、今日入れな。証拠は、見えるところに置くと強い」


 続けて、もう1行。


「——今日のぶん、守れ」


 ユナは、返信を打たないで、画面を閉じた。

 玄関のドアに手をかける。

 ハルが尻尾を振る。

 チェーンを外し、少しだけ扉を開く。

 廊下の匂い、朝の音。

 そのすべての手前で、ハルのリードを二重に結んだ。


——この日が、箱と餌の始まりになる。

 まだ、誰も知らない。

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