第4話 箱と餌
朝の昇降口は、湿った布みたいに重かった。
ユナは階段を上がりながら、パーカーのポケットに入れたUSBを指でなぞる。角の丸み、透明キャップの段差、薄い金属の冷たさ。触るたびに、気持ちが少しだけ縫い止められる。
下駄箱の前で新田ハルトに会う。彼は靴紐を結び直しながら、目線だけ上げた。
「入れる?」
「音は箱に入れない。説明の紙だけ入れる。再生は先生の前で」
「了解。こっちにもコピーあるから、どっちか消されても平気」
会話は短い。短さは、逃げ腰ではなく、準備の姿勢だ。
教室の前には白い紙で覆われた思い出箱が出ていた。紙には太い文字で「光」。
御影マコがふたを半分だけ開け、底の方を覗き込む。
「朝いちで入れてる勇者、ゼロ。まあ、そうだよね」
ユナは黒板の隅を見た。昨日の空白は空白のまま。だけど、空白にも匂いはある。
マコが振り向く。
「河合。見えるとこがいちばん強い。言葉は逃げるけど、物は残る」
「……御影は、何入れるの」
「これ」
ポケットから出したのは、白いチョーク。根元が少し欠けて、粉が指につく。
「屋上で落としたやつ。今日のぶん、守った印」
からん、と箱の底で音が鳴った。軽いのに、教室の空気が一瞬だけ重くなる。
1限が終わると、ユナは保健室でスマホの写真を1枚だけ印刷した。去年の夏、ハルが鳴き砂の上で目を細めている写真。背中の毛が陽を拾って金色に見える。
写真の裏に、細い字で書く。
「散歩の時間を変える。首輪を替える。」
戻る途中、踊り場でイトコがひょいと肩の高さに現れる。
「裏面の2行、いいですね。手順は記憶より強い」
「忘れないように」
「忘れても、紙が覚えてる」
箱の前に立ち、ユナは周囲を1度見る。マコは窓の外を眺め、新田はプリントを三つ折りにしてノートへ入れている。
ふたを開け、写真を落とす。紙が紙に触れる柔らかい音。
箱は光を飲む器で、同時に光っぽさを演出する器でもある——担任が昨日言っていた言葉が、紙の擦れる音に重なった。
3限の終わり、スクールカウンセラーが教室の後ろに来て、黒板と生徒の間を静かに見渡した。
終わりの会で担任が言う。
「箱は金曜に開ける。証拠の箱じゃない。光の箱だ。でも、光はときどき闇も照らす。どっちにせよ、見えるところに出したものは、責任から逃げない」
マコが小さく笑って、箱に指先をトンと置いた。脈がある人間みたいに箱が一瞬だけ揺れる。
放課後。
ユナと新田は空き教室でUSBの中身を確認した。
スピーカーから、朝の駅の音が広がる。アナウンス、靴音、遠くの工事の打撃音。単体では全部薄いのに、重ねると人間の朝になる。
「気持ち悪い。でも、生きてる音」
新田が言う。
「箱には説明だけ。『音は先生の前で再生』って」
「うん」
ユナはA6の紙に短く書く。
「駅の朝の音。残すための録音。」
USBはポケットへ、紙は箱へ。見えるものと見えないものを分離して持つと、背筋が少し伸びた。
帰り道、空は薄いオレンジを透かして灰が混じる。
マンションのエレベーターで鏡に映る自分は、昨日より少しだけ目の下が明るい。
玄関のチェーンは銀のまぶしさを残したまま。
ハルが走ってきて、前脚で床を踏む。爪の音が、家の空気をやわらかくする。
「行こっか」
首輪の金具を見る。金属の端が欠けているのは知ってる。二重結びで補う。
合図糸が指をひく。「よし」の意味。
階段を降りると、外の風が首筋の汗を冷やす。
住宅街の角では必ず立ち止まる。川沿いに出ると湿った匂い。
ハルはいつもの電柱で長く嗅ぎ、次の電柱では短く嗅ぐ。嗅ぐ時間に違いがあるのが、犬の地図だと、だれかに聞いた。
イトコは肩の高さで滑空するみたいに並ぶ。
「交差点では1メートル前で止まる。横断歩道は1回座る。習慣の縫い目は、命に効く」
「わかってる」
ユナはリードの繊維を握り直す。掌に残る微かな痛みは、今の自分に必要な針山。
川沿いで、小学生の兄妹がキャッチボールをしていた。落ちたボールを拾って渡すと、妹が「ありがとう」と言い、兄は帽子のつばをさわって会釈だけした。
そのささやかな礼の形が、ユナには少し羨ましい。言える人は、世界に細い橋を何本も持っている。
スーパーで犬用の新しい首輪を見たけれど、種類が多すぎてどれがいいか分からず、棚の前で時間だけが経つ。
「明日、母と選ぶ」——喉の奥まで出かかったその言葉が、現実に触れた途端に消える。母は、今日は帰らない。
マンションに戻ると、エントランスのガラスの外側を黒猫が横切った。
ハルの耳が立つ。
「待て」
ユナの声は、昨日より1段大きい。
ハルの肩に力が入り、リードがぴんと張る。
金具がきしむ。
ユナは体重を後ろに移し、二重結びの位置を確認する。猫はもういない。
ハルは鼻を鳴らし、歩幅を戻した。
玄関前に小さな紙袋があった。白い紙にマジックで「ドッグフード」。
合図糸が指を強く引く。
「触れない。管理人に連絡→注意喚起。中身は後で確認。今は家の境界を優先」
「うん」
チェーンをかけたまま、袋を内側に引き入れ、さらに透明袋に入れて口を縛る。
管理人室への電話は2コールで繋がった。
「掲示板で注意出します。夜間巡回で見ておきます」
事務的な声。それでも、名前を呼んでもらえるだけで、世界に番地が打たれる。
ハルの餌はいつものメーカー、いつもの90グラム。水皿を満たし、時計を見ると19:02。
テレビはつけない。音のない部屋は、冷蔵庫の唸りとハルの咀嚼音だけを大きくする。
食べ終えたハルがソファに前脚をかけ、上目遣いでこちらを見る。
「もうちょっと待って」
USBを机の引き出しに入れ直し、窓の鍵を確かめ、ベランダのサンダルを内側に寄せる。点検を終えると、胸の中の糸が少し緩む。
そのとき、廊下で声がした。
遠く。階段の踊り場あたり。
「……おい、開けろ」「話をしよう」
父の声ではない。若い、荒い。
ハルがぴくりと耳を立て、玄関の隙間に鼻を押しつける。
「待って」
言い終える前に、インターホンが1回だけ鳴った。
ピンポーン。
合図糸が指を引く。
「出ない」
イトコの声は短いが、継ぎ目がない。
ピンポンは続かなかった。代わりに階段を降りる足音。笑い声が1つ。
ユナの心拍が上がって、少し下がる。
ハルは玄関の隙間の匂いを嗅いでから、戻ってユナのリードに歯を当てた。遊びの噛みではない。緊張の逃がし。
「だめ」
リードを取り上げる。その瞬間、金具が軽く回った。
嫌な感触。繋ぎ目のピンがほんの少し浮く。
——明日。絶対に替える。
夜は長く、箸より細い眠りが何度も切れた。0:53、2:20、4:01。
夢の中で、箱に手を入れると底がなくて、指先が冷たいものに触れる。それは氷ではなく、濡れた紙の感触。破るのは簡単、でも戻せない。
5:40、アラームより先に目が開いた。
窓を少し開け、薄い朝の風を入れる。
ハルが伸びをして、あくび。舌が丸まって、喉の奥で小さな音。
「今日は早めに」
首輪の金具を触る。昨日より渋い気がする。二重結びを確認。
イトコは窓枠に腰かけ、小さく頷く。
「交差点で1メートル前、横断歩道で1回座る。戻る手順は——」
「言わないで。戻らないために、今やる」
エントランスを出ると、朝の空気は水っぽい。
角では止まり、左右を見る。
横断歩道ではハルを座らせ、車が遠くなるのを数える。「1、2、3」。
歩きながら、USBの隠し場所のシミュレーションを続けた。学校の机は危ない。ロッカーも危ない。放課後、新田と橋の下に埋める——橋脚の影、排水のコンクリ目地、測量用のピンの位置。目印はさりげないものがいい。
マンションの敷地に戻る。
エントランスの横、ゴミ集積所の影を、黒猫がまた縫うように歩いた。
ハルの耳が立つ。
ユナは反射でリードを短く持ち替え、1メートル手前で止まる。
その瞬間、細い金属音。
——ピン。
金具のピンが、ほんのわずか外へ跳ねた。
世界の密度が、急に薄くなる。
ハルの肩が前へ。爪がアスファルトを蹴る。
リードが、手の中で空気になる。
「だめ!」
声は出た。けれど、届く先に壁があったみたいに、音がそこでほどける。
ハルはガラスの向こうの黒猫を追い、駐輪場の隙間をすり抜け、敷地の外へ。
敷地の外の道は、朝の車が連続している。
クラクション。短い悲鳴。ブレーキの擦れる金属の泣き。
何かがぶつかる鈍い音が、骨の中に入ってくる。
ユナの足は凍る。凍った足で、走る。膝の皮が焼けるみたいに熱いのに、感覚がない。
白いワゴン車の前で、人が2人、立ちすくんでいた。
アスファルトに、茶色が横たわる。
尻尾が、1回、微かに動く。
ユナの視界から先に音が消え、次に色が消えた。
残っているのは、呼吸を忘れる感覚。
膝をつく。地面のざらつき。掌に小石。
「布——タオル——!」
誰かが言う。
誰かの手が、ユナの肩に触れる。遠い。
ハルの目は、ユナを見ているようで、どこも見ていない。
口が少し開いて、舌が乾き、歯の白が不自然にきれいだった。
「ごめん、ごめん、ごめん」
言葉が糸巻きからほどけるみたいに連続して出る。
イトコは後ろで固まっている。黒目が揺れない。
「——戻す」
ユナは顔を上げ、糸を掴む。
「10日。戻して。全部。首輪も、箱も、朝の猫も、グループも。ぜんぶやり直す」
イトコは、頷かない。代わりに数字を言う。
「大巻き戻しは、推定15%。残り74%。戻すほど、別の場所がほどける」
「いい。ほどけたら、また縫う。命寄りで」
自分でも驚くほど、声が濁りきらずに出た。濁りは涙に行き、声は前に出た。
救急車のサイレンが近づく。音が空気を押し分ける。
人の輪が少し広がる。
ハルの体温が、手の中で下がる。
ハルの目が、閉じない。閉じないことが、こんなに残酷だと、今初めて知る。
ユナは泣きながら、合図糸を引いた。
イトコが、針を上げる。
「合図」
世界の縫い目が1つ、外れる音がした。
辺りの色が、いったん薄い白に溶け、音が遠くなり、風が逆に流れる。
逆行する埃、逆行するハト、逆行するサイレン。
ユナの髪が頬に戻り、足跡が消え、箱に落とした写真が白い紙から剥がれ、保健室のプリンターに吸い込まれていく映像が、頭の奥で同時に再生される。
10日前の朝が、ぎゅっと縮まって近づいてくる。
目の裏で数字がカウントダウンする。
10、9、8、7——
指に巻いた糸が、きつくなる。
糸の摩擦熱が、皮膚の内側で灯のように点る。
イトコの体の表面が、ひと刷毛分、色を失う。
ユナは、最後にもう1度だけ、ハルの額に唇を当てた。
冷たくなる直前の温度。さよならを言い切る前の温度。
その温度ごと、世界が巻き取られる。
視界が暗転する直前、ユナは思った。
——戻すことは、救うことじゃない。
——でも今は、救えなかった世界より、救えるかもしれない世界を選ぶ。
——代償は、あとで払う。
暗がりの向こうで、チャイムが鳴った。
遠くの教室のベル、8:25。
ユナは目を開ける。
黒板の右下に、白い粉の気配。
箱はまだ空。
ハルは、まだ家の中で眠っているはずの時間。
ポケットには、USBがある。
指には、合図糸が、きつくきつく、赤くなるほど食い込んでいる。
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