第2話 屋上の朝と、最初の代償
7:40。校門の影はまだ長く、朝顔の葉に水の粒が残っている。
ユナは少し早足で昇降口を抜け、階段を上がった。踊り場の窓を開けると、湿った風と一緒に、遠くの環状道路の音が入り込む。
「8:00、屋上」
昨夜の通知の文字が頭の裏側に貼りついている。御影マコ。短く、命令みたいで、断る余地がない。
「来ない、という選択肢はあります」
隣で、イトコが軽く首を傾げた。糸巻きみたいな体の表面が、朝の光で薄く光る。
「来なかったら」
「別の場所で、別の形に変わります。たぶん、もっと汚く」
ユナはうなずく。足が、いつもより少し重い。
3階から4階へ。4階から屋上へ続く階段は、いつも金網で閉じられている。
今日は——開いていた。南京錠は外され、鉄の扉は半分だけ開いて、風にかすかに揺れている。
扉を押すと、屋上の空気に全身がさらされる。金属の匂い、タールの熱、遠くの鳩の羽音。
手すりの近くに、ひとり。
御影マコ。セーラーの襟を風が揺らし、髪を片方で束ねている。足元には、白いチョークが1本。
「早いじゃん」
マコが振り返り、笑う。
「昨日の『おはよう』、ちっさかったね。聞こえなかった子、いっぱいいたよ」
ユナは答えない。
マコはチョークを指で転がす。
「ここなら消せないでしょ。黒板、先生が余計なこと言うからさ。——あんた、誰の味方?」
「……味方?」
「そう。自分の味方? それとも、あの休んでる子の味方? それとも、新田の?」
矢継ぎ早に飛んでくる名前。
ユナの胸の中で、合図糸がぴんと張る。イトコが近くにいる合図。
「動画、撮るから。もう1回、言ってよ——『おはよう』」
マコがスマホを上げる。
「やめて」
「なんで?」
「撮らないで」
「じゃあ、代わり。ここで、ひとこと。『黒板のは自分で書きました。注目されたいからです』」
ユナは息を飲む。
喉の奥に、粉っぽい何かが詰まっている。
「……書いてない」
「へえ」
マコは笑って、スマホを少し引く。
「じゃ、もう1つ選択肢。『御影マコは、わたしをいじめています』って言って。動画で。送る先は、あのグループと先生」
風が強くなる。屋上の端の旗の棒が、からん、と鳴った。
「言える?」
沈黙。
言えないのを、相手は知っている。
ユナの手汗で、スマホの角がちょっと白くなって見えた。
「……何がしたいの」
「うーん、正しい形が見たいの。『嘘』ってさ、形だけ合ってても、中身が腐ってると臭いがするでしょ。あんたの『おはよう』、臭うんだよね」
「わたしが臭うなら、放っといてよ」
「放っとけないの。クラスって、冷蔵庫みたいなもんだから。1個腐ってると、全部にうつる」
マコは言いながら、柵の近くに寄った。
風で髪が頬に当たり、口紅のない唇が乾いていく。
「御影さん」
聞こえるのは、ユナにだけのはずの声。イトコが前へ出て、糸を指先でほどく。
「その喩えは、壊すほうの喩えです。直す喩えは、別にある」
マコが首を傾げる。
「ねえ、河合。あんた、ひとりで来たんだ。偉いね。——わたしも、ひとりで来たよ」
その言葉に、ユナは目を上げる。
屋上の扉の影には誰もいない。見張りも、取り巻きも。
マコはスマホを下ろし、柵に背を預けた。
「家のほう、どう?」
「……どうって」
「昨日、帰り道で見かけた。お父さんと歩いてたじゃん。遠くからでもわかる。あれ、怒る歩き方」
胃のあたりが冷える。
「別に」
「別にって便利だよね」
マコの笑いは短い。
「うちさ、前はうるさかった。今は静か。静かすぎて、逆に、なにか流れてる音がする。冷蔵庫の音とか、時計とか。そういうの、むかつくほど聞こえる」
言い終えると、マコは柵の上に片手を置いた。爪は短く切られている。
「河合。さっきの2択、やめ。もう1個足す。——この動画、撮らない。代わりに、あんたからひとこと。『放っておいて』って、ちゃんと言ってよ。わたしに。目見て」
目を見て。
それは、いちばん難しい。
「……放っておいて」
ユナは、言った。か細く、でも届く距離で。
マコは笑って、柵を軽く叩く。
「はい、合格。今日のぶんは」
「今日のぶん」
「うん。明日は、明日のぶんあるけどね」
スマホをポケットにしまい、マコは柵から離れた。
床に置いていた白いチョークが、風で転がる。マコがそれを追って、前へ1歩。
チョークは排水溝のグレーチングの隙間へ吸い込まれる。
「わ、」
マコの足が、その格子に少しかかる。
靴底が滑る音。
体が前へ。
反射的に伸ばした手が、柵の上を滑った。
——落ちる。
「戻す」
イトコの声が、電線に触れたみたいに鋭くなる。
糸が空中で逆回転し、音も光も少し鈍る。
ユナの髪が、逆風で頬に戻る。マコの身体が、ほんの少しだけ、落ちる前へ巻き取られる。足首の角度、重心、腰のひねり——数値にできない微小な差分が、丁寧に配置され直される。
世界が、元の速度に戻る。
マコの手が、柵の縁に掛かる。
爪が金属を引っかく音。
体は前へ出たまま、辛うじて止まった。
「っ……!」
しゃがみ込む。呼吸が乱れている。
ユナの膝も、同時に崩れた。足が震える。
自分が、何もできなかったことの重さ。
何かをする前に終わってしまったことの、救いと空虚。
マコは、しばらく黙っていた。やがて立ち上がり、何も言わず扉のほうへ歩く。
扉の前で振り返り、短く言った。
「——今日のぶんは、ここまで」
そして、去った。
残ったのは、風と、鉄の匂いと、足の震え。
ユナは柵から離れ、空を見上げた。高く、浅い色。
「……ありがとう」
やっと出た言葉は、小さく震えた。
イトコは、返事をしなかった。
振り向くと、イトコの表面が、少し色を失っていた。綿のような地肌に、かすかなほつれが見える。
「イトコ?」
しばらくして、声が戻る。
「——無事で、よかった」
音の端が欠けている。言葉の継ぎ目に、糸のほこりが挟まっているみたいだ。
「いまの、どれくらい」
「8%」
間髪入れずに答えが返る。
「思ったより、かかりました。重心の置き換えは、時間の局所修復より負担が大きい。残りは89%」
ユナは、胸の中で計算する。昨日は3%。今日で8%。
「残り、……」
「89%。目安ですが」
「わたしのせい」
「違います」
イトコの黒目が、はっきりとこちらを向く。
「選んだ結果です。『撮られる humiliations(屈辱)』から『落ちる事故』に分岐した。前者は広く長く残る。後者は短いけれど、命に関わる。巻き戻しは、命寄りに最優先で使う。——ぼくの基準」
命寄り。
その単語が、胸の奥で固くなる。
チャイムが鳴る。8:10。
ユナは屋上を出て、階段を降りた。
教室に戻る途中、踊り場で新田ハルトが立っていた。
「……おはよ」
彼は、ユナを見ると軽く手を上げた。
「屋上、行ってた?」
驚く。
「どうして」
「御影、早く来てたから。なんか、そうかなって」
彼はそれ以上、聞かなかった。
「大丈夫?」
ユナは、すぐには答えられなかった。
「——今日のぶんは、大丈夫」
「そっか」
新田は頷いて、先に降りていった。
1時間目が始まる前、担任がユナの席に来た。
「河合、昨日の黒板の件な。放課後、時間あるか」
ユナは合図糸を軽く引く。
イトコが机の下から、微かに糸を張る。
「……あります」
「よし。御影にも声をかける。——大人が入るの、嫌かもしれんが、見届ける役が必要だ」
先生の声は疲れていたけれど、空回りの音は少なかった。
午前の授業は、妙に静かに進んだ。
グループのタイムラインは、今日は更新が少ない。朝の屋上で何かがあったことを、誰も知らないからかもしれない。
ユナの体は軽かったが、心は重かった。
あそこで落ちていれば——という恐怖と、落ちなかったことへの安堵と、巻き戻しの代償の重さが、同じ皿の上で滑っていた。
昼休み、渡り廊下で御影マコとすれ違った。
マコはユナを見て、特に何も言わない。ただ、目が一瞬だけ、逃げる。
その一瞬で、ユナは気づいた。
あの子も、怖かったのだ。
そして、怖かったことを、知られたくないのだ。
放課後。
職員室の手前の相談室に、先生、ユナ、マコが入る。
机の上には何もない。窓の外の運動場から、野球部の掛け声が遠く聞こえる。
「座ってくれ」
先生は、ゆっくり言葉を選んでいる。
「きのうの黒板の件。『誰が書いたか』をいま決めなくてもいい。だが、『書かれた側がどう感じたか』と、『クラスで何が起きたか』は、共有したい」
マコが先に口を開く。
「……注目集めたい子がいるのかなって思った。だから、書いた人が誰かは、あんま重要じゃない」
先生が眉を寄せる。
「御影、君はそう思った、と。河合は?」
ユナは、糸を探す。
イトコの糸は、薄く、でも確かに指にいた。
「怖かった。あと……自分が自分じゃないみたいで、気持ち悪かった」
「“気持ち悪い”」
先生が反芻する。
「“気持ち悪い”という言葉、覚えておいてくれ。誰かが“気持ち悪い”と言っているときは、何かが壊れているサインだ」
沈黙。
先生は次に言う。
「グループの件はどうだ」
マコが少しだけ首を傾げる。
「朝の写真、上がってたろ」
「……上げたの、わたしじゃない」
「上げたのが誰かを特定するのは、時間がかかる。だが、回すのを止めるのは、いますぐできる。——御影、君は止められる立場だ」
マコの口が、何か言いかけて止まる。
「……やってみる」
「“やってみる”じゃなく、やる。教師の圧だと感じたら、そう言ってくれて構わない。だが、これは圧ではなく、責任の割り当てだ」
会は、そこで一旦区切られた。
帰り際、ユナとマコは廊下で並ぶ。
マコが目を合わせないまま言う。
「今日のぶん、守ったじゃん」
「……うん」
「明日も、守りなよ」
それだけ言って、マコはエレベーターのほうへ歩いた。
ユナは階段を降りる。踊り場の窓に夕陽が差して、埃が金色になる。
駅までの道を歩きながら、ユナはスマホを見た。
グループのタイムラインの上に、「このグループは管理者によって一時停止されています」と表示が出ている。
マコだ。
胸の奥の何かが、ほんの少し緩んだ。
夕方。
スーパーで半額シールの貼られたパンを買い、家に帰る。
玄関の鍵を開けると、リビングのドアに新しいチェーンが付いていた。
銀色がまだ眩しい。
取っ手にはメモがぶらさがっている。
「鍵は替えた。相談中。今日は帰りません。夕食は各自で。—母」
ユナは、足の裏で床の冷たさを感じた。
キッチンのテーブルには、昨日のシチューの鍋がまだある。表面に、厚い皮が張っている。
父は、いない。
時計は19:12。
静かさが、耳の中に詰まる。
部屋に戻り、ランドセルを床に置く。窓から入る風でカーテンが少し動く。
そのとき、玄関のほうで鍵の回る音。
父だ。
重い靴音。
リビングのドアの前で止まり、チェーンの音が鳴る。金属が金属に当たる、短い音。
「……何だ、これ」
低い声。
ドアノブが、強く回される。チェーンがそれを拒む音。
2回、3回。
そのあと、静寂。
静寂は、怒鳴り声より怖いときがある。
ユナは、合図糸を探した。
指先に触れる手応えは——薄い。
ベッドの端にイトコが座っている。
色抜けは、朝より進んでいる。綿の間から、細い金属の芯が少しだけ見えている。
「大丈夫」
イトコは言う。
声は、少しザラついている。
「大丈夫じゃないときは?」
「そのときは、言う」
「巻き戻す?」
「今日は、巻き戻さない。家のドアの鍵は、巻き戻しても、意味がない。戻す前から歪んでる」
廊下で、父が電話をかける声がする。
「——おい。勝手に何やってんだ。相談? 誰に? 弁護士? ふざけるな」
言葉の端々が、壁を通って届く。意味はつながるのに、音はところどころ欠けている。
『弁護士』という単語だけ、やけに鮮明に聞こえた。
夜が深くなるにつれ、家の空気が重くなる。
やがて父の靴音が玄関へ戻り、ドアの閉まる音がした。
そのあと、静寂。
静寂には、2種類ある。休むための静寂と、壊れる前の静寂。
これは、後者だ。
「ユナ」
イトコが呼ぶ。
「今日のぶん、よくやりました。明日は、家のほうが動く。ぼくは、できるだけ糸を張る。だけど——」
「だけど?」
「たぶん、明日は、巻き戻さないほうがいい」
「どうして」
「巻き戻すと、争いは長く、薄くなる。巻き戻さないと、短く、濃くなる。どちらがいいかは、選べない。だが、ぼくの糸が短くなると、君の選べる回数も減る」
窓の外で、遠くに救急車のサイレン。
ユナは、目を閉じた。
屋上の風、マコの手の震え、先生の言葉、相談室の空気、母のメモ、父の声。
全部が重なって、明日の予感になる。
「——明日、わたしたちは家で会うことになる」
イトコの声は、いつもより低かった。
「扉の向こうの“交渉”に、君は私服で立ち会う。言葉は少なく、数字は少し。沈黙は長め。その沈黙の間に、壊れる音がする」
ユナはうなずいた。
怖さは、まだ消えない。
でも、どこかに、手触りのある綱がある。
それは、合図糸の感触に似ていた。
スマホが震える。
新しい通知。
送り主は——御影マコ。
「明日、先生に呼ばれた。グループ止めたこと、言ってないから、あんたも言うなよ。」
1行だけ。
その下に、もう1行。
「——今日のぶんは、守った。明日は、明日のぶん。」
ユナは、短く返事を打つ。
「うん。」
送信してから、しばらく画面を見ていた。
返事は来ない。
それでいい、と思った。
天井の角に、街灯の光が浅く反射している。
ユナは窓を少しだけ開け、夜の空気を入れた。
合図糸を指にかけ、軽く引く。
イトコが、かすかに手を振る。
振る手の先で、糸の端がぱちんと小さく鳴った。
それは多分、今日の代償の音。
——残り8日と17時間。
屋上は、遠のいた。代わりに、リビングのドアが近づいてくる。
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