今日のぶん
湊 マチ
第1話 落ちてきた糸巻き
放課後の教室は、ざらざらした沈黙で満たされていた。
最後のチャイムが鳴ってから5分。誰もいないはずなのに、机の中の紙が、かすかに揺れる音がした。
「……やっぱ、入ってる」
黒板の前で、御影マコが笑った。
ユナの机の中から引き抜かれたのは、折り畳まれたノート。ページの端が、濡れたみたいにしわしわだ。
マコの後ろに、数人の女子がいる。笑い声が、窓の外の曇天に吸い込まれていく。
「これ、あの子の宿題でしょ? 休んでる子に写してあげてんだ〜、河合ユナさん」
茶化す声。
「うわ、優等生ぶってんじゃん」
さらに一言。
ユナは反論しない。机に視線を落とし、膝の上で指を握る。言い返したところで、何倍にもして返されるのは目に見えている。
「だんまり? あー、そういうとこ、キモい」
マコがノートを机に叩きつける。紙がひらりと床に舞った。
誰も拾わない。ユナも、拾わない。
背中が熱くなり、耳が遠くなる。呼吸が浅くなって、胸の奥がざわざわと揺れた。
——このまま消えたい。
その瞬間、教室の天井裏から“コトン”と何かが落ちる音がした。
次の瞬間、黒板の上に、丸い影がぽすりと現れた。
「……あれ?」
マコたちが一斉に首を上げる。
黒い瞳が2つ、丸い糸巻きの胴にくっついている。細い手足がふるふる震えながら、ロープのような糸をするすると垂らした。
「はじめまして。見習い繕い手(つくろいて)のイトコです」
その声は、はっきりユナの耳に届いた。
だが、他の子たちは首を傾げている。
「なにあれ? ぬいぐるみ?」
「キモ……」
イトコは糸を床まで降ろすと、軽く跳び下りた。ユナの机の横に立ち、針のような腕を差し出す。
「この結び目、固すぎますね。少し、ほどきます」
「やめ——」
声が漏れた。ユナ自身、驚いた。昨日まで何をされても黙っていたのに。
「はい、これで1つ目の結び目が緩みました」
イトコは微笑む。
マコが眉をひそめた。
「……アンタ、何してんの?」
返事をせず、ユナは机から立ち上がる。
ノートを拾い、無言でカバンに押し込んだ。
「ちょっと待ちなよ」
腕を掴まれる。痛みが走る。
その瞬間、イトコの糸がするりと伸び、マコの手首に触れた。
「これは、ほどくための糸です。痛みは残さない。でも、縛ることもできない」
マコは一瞬たじろぎ、手を離した。
「……変なの。もう行けば?」
ユナは逃げるように廊下へ出た。
夕方の光が窓から差し込み、埃が金色に舞っている。
足音が後ろから追ってきた。
「河合ユナさん。あなたの“ほころび”は深刻です」
「……放っといて」
「放っておけません。あなたは近いうちに、屋上から落ちるから」
足が止まる。
「……何それ」
「未来の断片です。ぼくは糸で、すこしだけ先を見ることができる」
心臓が早鐘を打つ。
イトコの目は、曇り空を映していた。
「でも、大丈夫。戻せる。10日以内なら」
「……戻す?」
「時間です。糸を逆に回せば、過去に戻れる。ただし、巻き戻すたびにぼくの糸は減ります。0になれば、ぼくはほどけて消える」
ユナは笑い飛ばそうとしたが、喉の奥で声が詰まった。
笑えない。冗談にできない。
自分が、このままいけば本当に——と、心のどこかで感じてしまったから。
「……もし、戻ったら、何をすればいいの」
「まず、1つ。あなたを屋上に行かせない」
「……それだけで変わる?」
「それが始まりです」
窓の外で、グラウンドの風が唸った。
遠くでマコたちの笑い声が、また響く。
「明日から、やり直しましょう」
イトコの糸が、ユナの指先にそっと結ばれた。
——だが、やり直しの糸は、思ったよりも簡単に、別の場所でほどけていくことになる。
朝の教室は、窓ガラスの水滴みたいなざわめきで満ちていた。
ユナが扉を開けた瞬間、チョークの粉の匂いが強くなる。黒板の右下に、白い字が1行。
「河合の『おはよう』は嘘。」
足が止まる。
昨日、言うと約束した2音が、喉の奥で石になる。
「——おはよ」
言えてしまった。かすれた声だったが、確かに出た。
返事が、いくつか、ばらばらに返ってくる。
「おはよー」「……おはよ」
そして、笑い。
「ほらね、嘘」
黒板の前には御影マコがいて、チョークを指先で転がしていた。
ユナは視線を落とす。机の中のプリントが重く感じる。
窓際のカーテンの陰で、小さな影が手を振った。
イトコだ。目だけで「大丈夫」と言って、指先で空中に輪を作る。合図糸が、ユナの指にそっと絡む。
担任が入ってきたのは8時25分。
黒板の文字を見て、眉をひそめる。
「誰だ、こんないたずらをしたのは。授業が始まる前に消しなさい」
言葉は正しい。でも、誰も動かない。
担任は続ける。
「名指しで人を傷つけるのはやめろ。書いた者は、放課後、職員室に来なさい。……河合、気にするな」
気にするな、は魔法ではない。むしろ“気にしている”と皆に知らせる呪文だ。
マコがわざとらしく手を挙げる。
「先生、これ、本人が書いた可能性は?」
「御影、そういう言い方は——」
「だって、注目されたい人、いるじゃん。『河合の“おはよう”は嘘』って、自虐ネタ。かわいい」
笑いが、黒板消しの粉みたいに広がる。
ユナは合図糸を指でつまむ。
イトコが小声で囁く。
「この場面、30秒だけ巻き戻します。先生が入ってくる直前に戻して、ぼくが先に文字を消す」
「……そんなこと、できるの」
「できます。ただし代償として、ぼくの糸が**3%**減る。使いすぎると、ぼくはほどける」
ユナは、頷く代わりに、糸を軽く引いた。
教室の音が、いっせいに遠のく。時計の針が逆に揺れ、空気が薄い氷を割るみたいにきしむ。
——戻った。
扉の外で担任の足音が近づいてくる。
イトコが黒板の下をすべるように走り、濡れ雑巾で文字をこすった。
白が灰になり、消える。
扉が開く。
「席につけ。出席を取る」
先生は黒板を一瞥し、何も言わずに出席簿をめくった。
ユナは少しだけ息がしやすくなる。
——が、その安堵はすぐに崩れた。
「先生」
マコが、机の中からスマホを取り出す。
「朝いちで、写真撮っといた。消えると思って」
画面には、消される前の黒板。
「ホラ、証拠。消したの、誰?」
クラスの視線が、ゆっくりユナに向く。
“河合に都合の悪いものを、河合が消した”という筋書きが、何もしなくても組み上がっていく。
先生は眉間を押さえて、ため息をつく。
「スマホはしまえ。放課後、話を聞く」
言葉はまた正しい。けれど、正しさだけでは止まらない。
1時間目。
ユナはノートに文字を書こうとして、ペン先が空中で止まる。
「河合、読む番だ」
先生の声。
ページの段落が、黒板の白字に見えてしまう。喉がまた固まる。
「……すみません」
周りの小さな笑い声。
イトコは机の下で、糸を少しだけ張る。
「大丈夫。ここは巻き戻さない。練習の痛みは必要」
2時間目、3時間目。
黒板の文字は消えているのに、ユナの頭の中では濃くなる。
休み時間、マコが近づいてきた。
「ねえ河合。『おはよう』、さっきの小さい声のやつさ。かわいかったよ。今度は、もうちょい大きい声でさ。皆にも聞こえるように」
笑っているのか、怒っているのか、わからない声。
ユナは、返事をしない。「無視」もまた、燃料になることを知りながら。
昼休み。
購買で買った焼きそばパンを、ユナは校舎裏で齧った。パサパサのパンと、冷めた麺の油。
「味がしない」
「緊張で、舌がほどけてません」
イトコが隣に座り、麺の端っこをじっと見つめる。
「こういうとき、食べるのをやめるのは危険。生きるほうの結び目が弱くなる」
そのとき、スマホが震えた。
知らないアカウントからのグループ招待。
タイトルは「おはようの会」。メンバーはクラスの大半。
タイムラインの一番上に、朝の黒板写真。
下に、1行コメント。
『本人が消すの草』
画面の文字が、指の温度で滲む。
「——戻して」
ユナが囁く。
「あの朝の前に」
イトコは首を振る。
「戻せます。だけど、写真を撮る発想は、消えません。たぶん別の形で現れる。現れ方を変えるだけ」
チャイムが鳴る。
午後の授業は、頭の表面だけで受け流した。
放課後、先生に呼ばれる前に、ユナは教室を出た。合図糸が指に触れるたび、息を整える。
家の玄関。
鍵を回す音がやけに大きい。
リビングの照明はついていない。
キッチンのテーブルの上に、母のメモ。
「冷蔵庫にシチュー。温めて。父は遅い。」
鍋を開けると、白い表面に薄い皮が張っている。
電子レンジのタイマーは「3:00」。
回る皿を見ていると、朝の黒板が浮かぶ。
ドアが乱暴に開いたのは、19時を少し過ぎたころ。
父の革靴が床を叩く音。アルコールの匂い。
「ただいま」
返事をしようとして、声が出ない。
父がテーブルの鍋を見て、舌打ちを1回。
「冷めてる」
鍋を乱暴に混ぜる音が、胸の内側に突き刺さる。
「母さんは?」
「知らない」
「は?」
父の視線が、ゆっくりユナに向く。
空気の温度が、1度下がる。
「学校はどうだ」
「……ふつう」
「ふつう、って何だ。数字で言え」
返せない。
父は椅子の背を叩く。
「言葉を選ぶ時間が長すぎる。お前が黙ると、家が止まるんだよ」
ユナは、合図糸を指で探す。
隣の空気に、イトコが薄く現れる。
父の視線には見えていない。
「——出ていけ。飯いらないなら食うな」
テーブルの端が拳で鳴り、スプーンが床に跳ねた。
ユナは立ち上がり、部屋へ戻る。足音を立てない練習は、もうずっと前からうまくなった。
夜。
ベッドの上で天井を見ていると、イトコが座面の上にちょこんと座った。
「10日間です」
「……何が」
「屋上までの猶予。今日が1日目。残り9日と20時間」
数字が、部屋の暗さの中で冷たく光る。
「変えられる?」
「部分的には。完全には、むずかしい。糸で引っ張っても、別のところがほどけるから」
「じゃあ、どうしたら」
「明日、黒板の件は、先生に先手で言いましょう。『写真が回るのが怖い』と。ぼくが隣で糸を張る。声が出やすくなる」
「言えないよ」
「言える。今日、『おはよ』は言えた」
ユナは目を閉じる。
朝の白い文字、昼のグループ、夜の椅子の音。
世界のどこにも柔らかい場所がない気がする。
「河合ユナさん」
イトコの声は小さいが、はっきりとした温度があった。
「助けることと、直すことは違います。ぼくは直すのが仕事。でも、助けるには、あなたが明日、先生に言いに行く必要がある。ぼくは糸で背中を押すだけ」
「……怖い」
「怖いのは、まだ生きたいから」
しばらく沈黙が続き、やがてユナは頷いた。
「明日、行く」
「よかった」
イトコが少し笑う。
「それと、ぼくからも1つ告白。きょうの巻き戻しで糸は3%減った。残りは97%。数字は目安。でも、限界はある」
「……わかった」
「無駄撃ちはしない。あなたが選んだときだけ、巻き戻す」
スマホが微かに光る。
新しい通知。
差出人は——御影マコ。
「明日、屋上で話そ。8:00。遅れるな。」
喉がまた固まる。
イトコが合図糸を軽く引いて、ユナの指に触れた。
「行きますか?」
ユナは答えない。
ただ、通知の光が消えるまで、暗い天井を見つめていた。
——残り9日。屋上は、近づいてくる。
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