バールのようなものの恩返し

春雷

第1話

 休日の昼下がり、部屋でゴロゴロしていると、ピンポーンとインターホンが鳴った。玄関を開けると、見知らぬ男が立っていた。男は満面の笑みである。理由はわからない。

「どうも!」と、その男は大きな声で挨拶した。

 三十代後半くらいの男だ。ガタイがいい。肌はほどよく日焼けしている。学生時代、ラグビーをやってました、といったような雰囲気だ。服装は、白いタンクトップにジーパンという、往年のファッションスタイルだった。

「返しに来ました!」と男が言った。

「ええっと、何を、ですか?」心当たりがない。人に何かを貸した記憶はない。

「恩を、です!」

「恩?」

「ええ。実は私、バールなんです」

「実は私、バールなんです?」何だ、それ。そんな日本語、聞いたことがない。

 男は白い歯を見せてニコッと笑った。

「私、実は、昔助けていただいたバールなんです。今日は恩を返しに来ました!」

 何を言っているのか、全然わからない。バールが恩を返しに来た? どういう意味だ。頭がおかしくなったのか、俺。いや、おかしいのはこの男の方か。

「あなた昔、空き巣やってましたよね?」

「いや、やってないけど」ドキッとして、俺はそう答える。何故それを知っている・・・。

「家に侵入する際に使っていただいたのが、私なんです。ニュースでは、バールのようなものと呼ばれていました」

「あの、ええっと・・・」

「私、ずっとホームセンターの隅の方でほこりをかぶっていたんです。私はこのまま、実力を発揮することもないまま、一生を終えてしまうのか・・・。私は毎晩泣いていました。友達だったネジや角材は誰かに買われていくのに、私だけ、ずっと取り残されていたのです。毎日、焦りだけがありました。しかし、どうすることもできませんでした。そうして、何年もの時間が無為に過ぎ去っていきました・・・」

 男はその頃のことを思い出したのか、辛そうな顔をして俯いた。

「しかし!」と男は顔を上げ、俺の顔を見た。「とうとう私の目の前に、あなたが現れたのです! あなたは、私に付いていたほこりを払い、レジへと持っていったのです。私は突然起きたその出来事に、最初混乱していましたが、やがて嬉しさが込み上げて来ました。ずっと待っていた、待ち焦がれていた瞬間が、ついに私に訪れたのです!」

 男は両手を広げ、天を仰いだ。天を仰いだと言っても、ここはマンションの廊下なので、実際に男の目に天が見えていたわけではなかった。そこには薄汚れた天井があるだけだ。

「あなたはお仲間とともに、何度も私を使いました。家の扉をこじ開け、中へ侵入していきました。ああ、そうだ、これだ、と思いました。私の実力が十二分に発揮されている。ああ、そうそう! これだ!」

 男は顔を真っ赤にしていた。興奮しているようだ。唾を飛ばしながら、熱弁している。

「しかし! その日はついに訪れました。あなたは警察に追われて、山へ逃げ込みました。あなたは、私だけでも逃げてくれ、という気持ちからなんでしょう、私を山に捨てました。あなたは、山の斜面に私を放り投げました。私は深い森の中へ落ちていきました。そして、誰にも見つけられないような、日の当たらない暗い場所へと転がっていきました。私は十年近く、そこにいたのです」

 男は暗い顔をして俯いた。感情の激しい男だ。目が潤んでいる。

「辛い、お別れでした」

 男は涙を拭った。涙を拭うと顔を上げ、「しかし!」と言った。また「しかし!」だ。

「私の意思が天に通じたのでしょう。あなたに会いたいという思いが実を結び、私はついに人となったのです。私は驚きました。まさか、あなたと同じ人間になれるなんて。私は決心しました。あなたに会いに行く、と。そして森を出て、街へ行きました。全裸だったため、警察に捕まりそうになったりもしましたが、空き巣に入って服を貰い、街であなたを探し続けました。聞き込みを行い、街中走り回りました。十年以上、探し続けました。そして、ついに!」

 男は熱い涙を流して、両の拳をぐっと握った。

「あなたを見つけ出したのです!」と男が叫んだ。「いつも通り、街で聞き込みをしている時でした。一人の女性が足を止めてくれました。その女性に、拙いながらも私が描いたあなたの似顔絵を見せました」

「ちなみにこの絵です」と、男がポケットから一枚の紙を広げて、俺に見せた。よく描けている絵だった。十年描いている内に上達したのだろう。非常に写実的な絵だった。俺の顔の特徴を、よく捉えている。

 男は、再び話し始めた。

「するとその方、あなたが昔働いていた職場の、同僚だったのです! 事情を説明し、あなたへの思いを熱く語ると、信用してくれたのか、ここの住所を教えてくださいました。あなたとは、年賀状のやりとりをしているそうですね」

 やれやれ、と俺は思った。余計なことをしてくれたものだ。

「ついに、ついにあなたに会えました・・・!」

 男が俺の手を握ろうとしてきたので、俺はその手を弾いた。

「え・・・?」と男は目を丸くしている。

「余計なことしやがって・・・」と俺は呟いた。そして男に向かってこう言った。「そいつはたぶん、元同僚の女性なんかじゃねえ。元カノだ。クソッ・・・、何の腹いせだよ、こんな妙な男、寄越しやがって・・・。俺が昔空き巣をやってたって、その女から聞いたのか? 何のドッキリだよこれ、動画回してねえだろうな? 俺はよお、警察に世話になってから、きっぱり空き巣やめたんだよ。足洗ったんだ。更生したんだ。今更、過去を蒸し返すようなこと、するんじゃねえよ。面白半分で来たんだろうけどな。もう、いいから。帰ってくれ」

 バタン、と俺はドアを閉めて、鍵をかけた。まったく気分が悪い。思い出したくもない過去のことを・・・。あの元カノは空き巣時代の彼女だった。当時からそうだったが、さらに悪趣味な女になっているようだ。ああ、もういい。

 俺は冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出した。まだ昼だが、飲まないとイライラが収まりそうにない。飲まなきゃやってられない。

 缶を開ける、プシュ、という音が鳴った時だった。玄関の方から、バキバキ・・・、という音がし始めた。

「え?」

 バキ・・・、バキバキ・・・、バキィ!

 玄関のドアが、こじ開けられた。

 男は、腕に力を込めると、ドアを容易く引き剥がし、廊下に捨てた。

「実力を発揮できるというのは、実に気持ちいいものです!」男は綺麗に並んだ歯を見せて、ニッコリ笑った。「今日は恩を返しに来たのです! 恩を返すまでは帰れません!」

 手から滑り落ちた缶ビールが、中身を床にぶち撒けながら、男の足元に転がっていった。男はその空き缶を拾い上げると、手で握り潰し、こねくり回して、缶を小さな球体にしてしまった。

「あなたは私を歓迎していないようだ」と男が言った。

 ああ、それはきちんと伝わっていたのか。なら、さっさと帰ってくれないかな・・・。俺は、男が俺の気持ちを正しく汲み取り、帰ってくれることを期待したのだが、男の口から発せられたのは、もっとも聞きたくない言葉だった。

「しかし!」と男は力強く言った。「私は、何かをこじ開けることが得意なのです。ああ! 私の実力が十二分に発揮される状況です! まずは、あなたの心の扉をこじ開けるところから、始めましょう!」

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バールのようなものの恩返し 春雷 @syunrai3333

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