第13話 修羅の女
錆びついた鉄柵の向こう、暮れかけた空が赤く染まっている。
校舎の屋上に立つのは、かつて青春の日々をここで過ごした二人――秀と璃子。
秀は、足取りが重くなった。この場所は、彼にとって断頭台のような物だったから。だが、璃子が何故ここに来ようと誘ったのか――その理由だけは、まだ分からなかった。
そんな秀の迷いを見透かしたように、璃子がぽつりと口を開いた。
「宮下くんってさ……よくここに来てるんでしょ?」
「……」
「私もね、来てたの。何度も。あの頃から、何回も、ここに」
風が吹いた。璃子の髪がふわりと舞う。
「……不思議だよね? なんで、会えなかったんだろ? 朝日奈さんとは……会えたのに、ね」
その名を聞いた瞬間、秀の背筋が凍った。
「……麻由子……」
璃子は笑った。だけど、その笑みには色も熱もなかった。まるで絵に描いたような笑顔だった。
「宮下くん……私ねぇ……全部……ぜ~~んぶ、知ってるんだ〜」
そう言って、彼女は空を見上げる。
「よくさ〜、ほんと、よく生きていられるよね〜、平気な顔してさぁ、ちゃんと働いて、真っ当な人間のフリしてさぁ、あと、なあに?あの小さな女の子、あんなのにも手ぇ出してんの?まだ女をオモチャだと思ってんだね〜?」
その言葉には、嘲笑とも羨望ともつかない感情がにじんでいた。
「すごいよ〜、本当にすごい。やっぱり芸能界を生きた人は違うよね〜。人をひとり、壊しておいても……楽しそうに生きていけるんだもんねぇ…まぁ、生きていてくれて、こっちは都合が良かったけどねぇ…」
璃子の声は、あくまで穏やかだった。けれど、彼女が見ているのは秀ではない――かつての「那由多」であり、あの“日”の真実であり、そして壊れてしまった自分自身なのだ。
璃子は笑っていた。けれど、その笑顔の奥にある感情は、悲しみとも怒りとも呼べない、もっと深く、もっと濁ったものだった。
「……ねぇ、宮下くん、知ってた?」
璃子の声は、まるで夢を見るように優しかった。
「私みたいな見た目でもね、堀田くんは優しかったんだよ?
“そんなに泣かないで”って、ハンカチくれたこともあったんだ。……洗わずに、今でも持ってる」
目の奥が揺れている。けれど涙は流れない。
「わかってたよ。自分なんか釣り合わないって。
でも、堀田くんが笑っていれば、それで良かった。
あの人の幸せを願うことが……私の人生の全てだったの」
風が吹き、Tシャツの袖が揺れる。璃子は秀に視線を戻した。
「それを――あんたが壊した」
瞬間、言葉の色が変わった。
「朝日奈さんを利用して、堀田くんの心をズタズタにして、それで勝ったつもりだった?満足だった?」
秀は何も言えない。何も、言い返せなかった。
「私は、あの瞬間から、毎日毎日…あんたを憎み続けた。壊れながら、消えながら、でも、決して忘れなかった」
璃子は一歩、秀に近づく。目の奥は、かつての彼女とは別人のように冷えていた。
そのときだった。
秀の身体に、異変が訪れる。
「……っ……くっ……身体が……」
足元から痺れが這い上がってくる。指が動かない。何か飲まされた?今日、口にした物と言えば
「……タバコ、か……?」
璃子は、ふふっと息を漏らして笑った。
「やっと気づいた?ダメよ?トイレ行くとき、油断して置いてったら……。」
液体の入った小瓶を夕日に照らしながら見せつける。
そして、ゆっくりと、璃子の手がポケットから何かを取り出す。
光を受けて反射する、細身のナイフ。
「安心して、痛みはちゃんと感じるように調合してあるから!この日のために、調剤師になったんだから。どんな薬がどう効くか、ちゃんと自分の身体で試して。
お肉屋さんのバックヤードでもバイトしてたの。切り方とか、解剖とか……練習、頑張ったんだよ?」
その言葉に、ぞわりと背筋が粟立つ。
「あんたを殺して、私の時間を終わらせるの。これで私も、堀田くんのところに――」
ナイフの先端が、ゆっくりと秀の頬へと向かっていく――
「ゾクリ……」
愛里が身をすくめる。
どこか遠くで誰かに名前を呼ばれているような感覚。
「……あいり……」
耳元で、風のように小さな声がした。
「愛里? 愛里、どうしたの?」
ふと横を見ると、心配そうに母・千鶴が顔を覗き込んでいた。
「お母さん……」
「なによ、ぼーっとして。お薬、もうすぐ呼ばれるわよ?」
「う、うん……ねぇ、お母さん……今日、秀くん、どうしてるかな……?」
「秀くん? 今日はお店もお休みだし、アパートに居るんじゃないかしら? どうかしたの?」
愛里はゆっくりと首を横に振った。
「分かんない……でも、なんだか……秀くんに、会わなきゃいけない気がして……」
千鶴は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに優しく笑った。
「はいはい。じゃあ今日はお夕飯の買い物は後にして、まっすぐ帰りましょうか」
「うん!」
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