第11話 過去からの使者再び
秀は、慣れないながらも日々、バーテンダーとしての仕事をこなしていた。
グラスの磨き方ひとつ取っても最初は手間取っていたが、手際は次第に板についてきた。
無口な彼が、カウンターに立つだけで店内に程よい緊張感が生まれ、
つばさはその様子を見て満足げに笑っていた。
「秀ちゃん」と、店主らしからぬ砕けた呼び方で呼び、
客にもそれを定着させようとしていたが、
秀はといえば、その度に眉をひそめては「宮下です」と小さく訂正していた。
それでも、「スナックつばさ」は少しずつ評判を集めていた。
噂はすぐに広まり、いつしか若い女性客の姿も増えていった。
理由は明白だった。――カウンターに立つ、ハンサムな青年の存在。
黒いバンダナで傷跡を隠したその顔立ちは、どこか物憂げで、どこか危うく、
それがまた女たちの心を刺激した。
だが、客の中に、ただならぬ視線を向ける一人の女がいた。
艶やかな黒髪、涼しげな目元――その目は、鋭く、冷たく、そして執念深い。
女は何度も来店し、ほとんど言葉を発することなく酒を注文し、
その間中、じっと秀を目で追い続けていた。
つばさはすぐに異変に気づいた。
(あの女……何者?)
愛想笑いを浮かべながらも、カウンターの奥で密かに女の行動を観察していた。
しかし、女はいつも酒を一杯か二杯飲んだだけで、何事も起こさずにふらりと店を後にする。
その背中を、つばさは見送りながらつぶやいた。
「……狐か蛇か、どっちかね」
女の名前も、素性も、誰一人知らなかった。
ただ、その瞳に宿る“何か”だけが、強く、つばさの本能を刺激していた。
――それは、静かなる火薬だった。
シャツの袖をまくりながら、秀は自動販売機の前で足を止めた。日差しが強い。今日は、スナックつばさは休業日である。冷たい缶コーヒーでも買ってから、商店街まで歩こうか――そう思って歩き出したその時だった。
「気づいてもくれないんだね、宮下くん!」
後ろから、少し笑みを含んだ、しかしどこか刺すような声がした。
秀は足を止め、ゆっくりと振り向く。そこには、見知らぬ女が立っていた。すらりとした長身、きちんと手入れされたロングヘア、濃すぎないメイク。それでも、どこか人を拒むような眼差し。
「……誰?」
そう尋ねる秀の眉がわずかに寄る。女はその反応に、口の端を少し吊り上げた。
「私のこと、マルコって呼んで、ずっとからかってたくせに……忘れた?」
その言葉に、秀の目が見開かれた。
「マル……結城、璃子……?」
返ってきたのは、うっすらとした笑みと、片眉だけを上げるしぐさ。あまりにも変わっていた。昔の彼女を知る者なら、誰もが二度見するだろう。
「ご名答。ふふ、驚いた? 私のこと“ブタ子”だの“マルコ”だの呼んで、イジメてくれたよね〜。」
「そんな……うそだろ……」
「うそじゃない。正真正銘のリコです。まぁ、変わったのは、私だけじゃないけどね。」
璃子の目は、真っ直ぐ秀を射抜いていた。あの頃、目を合わせるのも苦手だったはずの少女が、今は一歩も退かない。
秀の胸の奥に、ざらりとした何かが残った。
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