第10話 日常は不穏の始まり

夜の帳が街を包み込み、蝉の声も静まった頃


月明かりだけが、中学校の屋上を淡く照らしていた。


風が吹き抜ける。誰もいないはずのその場所に、ひとり、黒い影が立っている。


足音はない。気配すらもない。けれど確かに、そこに「何者か」がいた。


その者は、無言のまま屋上の柵へと歩み寄る。


そこには、小さな花束──那由多の命日に、麻由子が供えた献花があった。


月の光に照らされ、白い菊の花が静かに揺れている。


……グシャッ


その者は、無言で足を上げ──花束を踏みにじった。


乾いた音が夜風に混じる。


崩れ落ちた花の上に、汚れたブーツの裏が沈み込む。


そして、かすかに呟く。


「……必ず………」


その声は男か女かさえ判別しづらく、感情の欠けた響きだけが残された。


やがて、影は屋上の縁に立ち、暗闇の中へと溶けていくように消えていった。


月だけが、何も語らず、静かにその一部始終を見ていた──。




「秀? しゅーう!」


誰かに名前を呼ばれ、微睡の中で秀はうっすらと目を開けた。


「……いつまで寝てんの?」


耳に馴染んだ声だった。まぶたを持ち上げると、覗き込む顔があった。那由多だ。笑っている。


「……良いじゃん、別に……眠いんだって……ん?」


気づけば、那由多は秀のすぐ隣に横たわっていた。

いつの間に……? そんな疑問が脳裏を掠める。


「何だよ? お前も寝んの? つか、近くね?」


秀が眉をひそめると、那由多はニコリと微笑んで、さらに顔を寄せてきた。


「ねぇ、秀。もし僕が女の子だったら、可愛いかなぁ?」


少し上目遣いで、秀の顔をチラッと覗き見る。


「はぁ?…見当もつかんな。それで? お前が女だったら何だっつーの?」


那由多は返事の代わりに、さらに顔を近づける。鼻先が触れるほどの距離。

その真剣な視線に、秀は耐えきれず、ふっと吹き出した。


「なんだよ、もう〜! ちけぇって、やめろよ〜!」


「いいだろ? 僕は、秀を愛してるんだ!」

「うへぇ〜〜、気持ち悪ぃ!」


二人の笑い声が、重なる。


「ハハハッ」


「ハハハッ」


「ハ……ハ……」


笑い声が掠れ、次の瞬間、世界が凍りついたように静かになった。

秀は目を開いた。夢だった。


そこは、自分の部屋。床に敷かれた布団の上だった。

薄暗い天井をしばらく見つめたまま、ゆっくりと上体を起こす。

外はすでに朝を過ぎ、陽の光がカーテン越しにぼんやりと差し込んでいた。


眠気と重たさが残る頭を掻きながら、傍らのちゃぶ台に目をやる。

そこには、古びた写真立てが置かれていた。


写真の中では、まだ幼かった秀と那由多が肩を組み、満面の笑みでVサインを決めていた。

子どもらしい無邪気さが、まっすぐに封じ込められていた。


秀はその写真に目をやったまま、小さく、呟いた。


「……おはよ、那由多。」



スナックつばさ二階の居住スペースに呼び出された秀は、着くなり新品の服を渡された。渋々袖を通してみせると、それを見てつばさは思わず息を飲んだ。


「……な、なにこれ……完璧じゃない……」


発注しておいたバーテン用の衣装に身を包んだ秀は、まるで仕立てられたマネキンのようだった。黒いベストに白のシャツ、シンプルながらも洗練された出で立ち。さらに黒いバンダナで右目の傷を上手く隠しており、露出した顔立ちは持ち前の整った造形美が際立っていた。


「……あんた、一体……何者よ?」


唸るように尋ねたつばさに、秀は眉をひそめた。


「ああ? 何が?」


態度はいつも通り、ぞんざいで悪い。


「お兄ちゃん……かっこいい……」


愛里が、キラキラと目を輝かせて呟いた。その目は、まるでアイドルに恋をする少女そのものだった。


「普通じゃ、そんな着こなしできないわ……なんかやってたでしょ?」


つばさは秀を上から下までジロジロと見回す。


「……別に。昔、モデル?……みたいなことはやってたけど」


「モデル……!?」


つばさと愛里が、まるで台本があるかのように声を揃えた。


「モデルって、あのファッションショーに出るアレ? 雑誌とかでポーズ取るやつ? え、マジで? マジのやつ!?」


つばさは興奮し、両手をブンブン振っている。愛里もぽかんと口を開けたまま、秀を見つめ続けていた。


「いや、ショーには出てない。子どもの頃に少しだけ…」


「きゃー……すごぉい……」


二人の目は、今や完全に憧れと尊敬の眼差しだった。


「……まぁ、今はこの顔だし、もう遠い昔の話だけどな」


秀がバンダナの下に隠した傷に触れかけるように呟くと、その言葉に、愛里がピシャリと切り返した。


「そんなことない!」


その声に、二人とも驚いて振り返る。


「お兄ちゃんは……今でも、かっこいいもん!」


真剣な瞳でそう言った愛里に、秀は一瞬、驚いたような顔を浮かべた。だがすぐに静かに微笑み、彼女の前に歩み寄ると、そっとその頭に手を置いた。


「……そろそろ、俺のこと、ちゃんと名前で呼べ」


顔が近づいた瞬間、愛里の頬はたちまち真っ赤に染まった。


「あ………えと………しゅ、秀……くん……」


「あーーーーあ! 今日も暑くなりそうねっ!」


つばさが、手うちわをしながら、わざとらしく大声で叫んだ。


愛里は、顔を隠して蹲る。


「はぅぅ~…恥ずかしいよぅ…」

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