第9話 母たちは見ていた
愛里の部屋のドアは、ほんの少しだけ開いていた。
廊下の暗がりから、その隙間を見つめていた千鶴は、震える手で口元を覆っていた。声を漏らさぬように。涙がこぼれぬように。
だがその肩は、小刻みに揺れていた。
「……ね? 乗り込んで行かなくて正解だったでしょ?」
つばさが囁くように言った。千鶴は何度も部屋に入ろうとして、身を乗り出していたのだ。
千鶴は何も言わずに頷いた。
廊下の薄明かりの中で、まるで愛里の小さな背中を見守る母鳥のように──その目は優しく、そして深く潤んでいた。
「……愛里、大きくなったわね……」
つばさが、もう一度そっと部屋の隙間から覗く。
その先では、ベッドの上に並んで座る二人の姿が見えた。互いに顔を見つめ合いながら、ぎこちなくも穏やかな空気が流れている。
声は聴こえない。けれど、それ以上のものが伝わってくる。
つばさは、ふっと満足げに頷いた。
「……ふっふっふ、よしよし」
今日のすべては、つばさの周到な計画だった。偶然を装い、秀に愛里の足を見せ、千鶴を家の中で待機させ、秀がどう動くか確かめたのだ。
「……あの子、いろんなことを受け入れた……あのハンサムくんも、ね」
つばさのその言葉に、千鶴はようやく少しだけ口を開いた。
「……私は……母親なのに……。愛里の足を、ずっと私の“罪”だと思ってた。あの子の人生を、勝手に悲劇にしてたのね…」
つばさは、そんな千鶴の肩をそっと抱く。
「罪じゃないよ。それを“背負いすぎる”のが、あんたの悪い癖」
千鶴は小さく笑った。
「ふふ……でも、少し……救われた気がするわ」
つばさは声を出さずに、「うん」とだけ頷いた。
母としてではなく、一人の女として、そして人間として、ようやく許されたような気がしたのだろう。
廊下の薄明かりの中で、二人の母が静かに寄り添っていた。
部屋の中からは、くすぐったそうな、愛里の小さな笑い声がこぼれていた。
「はいはいはいっ! お邪魔するわよ~!」
遠慮という言葉を知らぬような、つばさの明るい声が響いた。
突如、愛里の部屋の扉が勢いよく開け放たれ、秀の身体がビクンッと大きく跳ねた。
「つ、つばさママ……?帰ったんじゃ……」
愛里が驚きに目を見開いたとき、その背後に静かに立つもう一人の人物に気づいた。
「……お母さん……」
千鶴が、静かに部屋の中へ入ってくる。目の前の二人を、穏やかなまなざしでゆっくりと見つめた。
緊張で体がこわばる愛里。そして、覚悟を決めたように千鶴を見つめ返す秀。
一瞬の沈黙の後、千鶴はふう、と小さく息を吐いた。
「宮下……秀くん?」
「は、はいっ!」
思わず声が裏返り、大きくなってしまう。秀は自分でも分かるほど顔が真っ赤だった。
「……今度からは、ちゃんと玄関から入りなさいね?」
ぽかん、とする秀。けれど、その隣で
「お母さん……!」
愛里が、ぱっと笑顔を咲かせた。緊張がほどけたように。
つばさは待ってましたとばかりに、秀の背中をバンッと叩く。
「よしっ! アンタ気に入った! うちで働きな!」
「へっ……は、働く?」
「バーテンよ、バーテン! ちょうど若い男手が欲しかったのよ~」
「ば、バーテン!? でも、こんな顔で客商売なんて……」
つばさはすかさず前髪を指でかき上げようとするそぶりを見せ、秀は慌てて身を引く。
「見えてるとこはハンサムだし、前髪でうまく隠せてんじゃん?なんならカッコイイバンダナでも買ってあげるから!ね?」
「……………」
「それにさ、2人ともウチにいれば、ヘンなこともしづらいでしょ~? ね?千鶴?」
「なっ……なに言ってるんですか、お、俺は別に……っ!」
赤面しながら反論する秀を、つばさはニヤニヤと見つめる。
千鶴は愛里をそっと抱きしめていた。
「秀くん、諦めて? つばさはこうと決めたら絶対曲げない女なの」
「……っ、う……」
愛里は、千鶴の腕の中から顔を上げ、少し不安そうに秀を見つめた。
「……嫌なの? お兄ちゃん……?」
その声に、秀の肩がぴくりと動いた。もう抵抗できる空気ではない。
「……あああ……もうっ!わかった、わかりました! バーテンでもなんでもやってやるよっ!」
「いよっ! 色男!」
つばさが声を上げ、千鶴も笑い、愛里が嬉しそうに微笑んだ。
蒸し暑い夏の夕暮れ。小さな少女の部屋で、未来の一歩が踏み出された。
不器用な4人の、不思議な家族の形が、今ゆっくりと始まろうとしていた。
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