第4話 逃げた僕と君の悲しみ

居場所を探すようにして、彼は毎日、中学校の屋上に通った。誰にも見つからぬように、忍び込み、静かにタバコをくゆらせては、熱を孕んだ風に吹かれて寝そべる。

 かつて通っていた中学。あの頃にはもう戻れないと思いながら、けれどなぜか、ここにいると少しだけ呼吸が楽になる気がした。


その日も、いつものように屋上に腰を下ろしていた秀の耳に、靴音が近づいてきた。

 ザッ、ザッ……コンクリートに響く軽やかな足音。


体を起こして振り返ると、そこには見知らぬ──いや、どこかで見覚えのある若い女性が立っていた。


栗色のショートヘア。花模様のワンピース。背筋の伸びた、清潔感のある佇まい。

 風に髪を揺らしながら、彼女はじっと秀を見つめている。

……ああ!

 その目を見た瞬間、秀は思い出した。


「朝日奈……麻由子……?」


それは、秀の中学時代の同級生。一時期、短いながらも付き合っていたことのある少女だった。

 あの頃の記憶が、遠くで光るフィルムのように再生されていく。

 無邪気な笑い声。白い校舎。手を繋いだ放課後──

 しかし、その記憶はやがて、別れと痛みの匂いに変わっていく。


今、目の前の彼女は、何を思って秀の前に現れたのだろうか。

 沈黙の中、二人の視線が交差する。


一方その頃、スナックつばさでは、店主のつばさが酒を出しながらも、階上にいる月島母娘のことが気がかりで仕方なかった。

 客の笑い声の裏で、つばさの意識は常に、2階にある一室へと向いていた。


ここ数日、愛里の顔は曇りっぱなしだった。無表情の奥に潜むものは、ただの機嫌の悪さではない。絶望。諦め。幼い少女には不釣り合いな影が、その瞳に確かに宿っていた。食事もほとんど摂らず、うつむきがちで、ふとした拍子に涙ぐむことすらあった。


「愛里、ご飯、どうして食べないの?」

 母・千鶴は、苦しげに娘を見つめながら問いかける。「お医者さまに診てもらったけど、体はどこも悪くないって言われたのよ。ねぇ、何かお母さんに隠してる事無い?」


だが、千鶴の中には既にひとつの“答え”が出来上がっていた。

 愛里のこの変化──それは、隣に越してきた青年に、なにか“された”からに違いない。先日、秀と直接対峙した時のあの冷たく突き放すような態度。あの人間は信用できない。口は悪く、無遠慮で、何よりも娘の心を惑わせる存在。

 彼女の中では、誤解が事実として固まりつつあった。


「……なんでもないよ。ほっといて」

 愛里は目を伏せ、蚊の鳴くような声で言った。


「……あっそう」

 千鶴はそれ以上追及するのをやめた。そして、硬い声で言い放つ。

「じゃあ、今晩はここに泊まりなさい」


その言葉に、愛里がハッと顔を上げた。


「ヤダ!家に帰る!」

 途端に、声が大きくなる。「今日は……いるかもしれないし……」


「誰が?」

 千鶴の声は低い。愛里は言葉を詰まらせた。


「…………」


「愛里!」千鶴は声を荒げた。「お隣の男の人と、もう口をきいちゃいけません!」


「え……? なんで……? なんでお母さんがそんなこと……」


「お母さん、知ってるんだから!」千鶴の言葉には憎しみが込められていた。「どこか触られたの? 警察に突き出すこともできるのよ、あんな男──」


「お母さんのバカッ!!」

 愛里が叫んだ。その声は怒りに満ち、初めて見る彼女の激情に、千鶴は一瞬、目を見開いた。


「お母さん、お兄ちゃんに何か言ったんでしょ! だから、ずっと部屋にいないし、窓も……」


「いい加減にしなさい!!」千鶴も叫び返した。「あなたは騙されてるのよ! あの人はねぇ、悪い人なの! 最低な──」

「お母さん、何にも分かってない!」

 愛里の声が震える。「何も知らないくせに……勝手なこと言わないで!!」


──その言葉は、まさに数日前、千鶴が秀に吐き捨てた言葉そのものだった。

 “何も知らないくせに──勝手なこと言わないで”


「ちょっとぉ~……?」

 階下から、つばさの声が上がった。「店まで聞こえてるんだけど~?」


トントンと階段を上がってくる音の後、つばさが姿を現す。

 部屋では、愛里がベッドに突っ伏して泣きじゃくっていた。枕に顔を埋め、何度も何度も、唇を震わせながら言葉を繰り返している。


「お母さんの……バカ……バカ……」


つばさは千鶴に視線を送り、小さく首を横に振ると、低い声でささやいた。


「……あんた、もう帰んな」


その一言に、千鶴は一瞬反論しかけたが、すぐに視線を逸らし、逃げるようにして店を出ていった。


店の扉が閉まる音が、やけに重たく響いた。

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