第5話 過去からの使者

つばさは、愛里の背中を優しく擦りながら、階下のざわめきとは無縁の静けさの中にいた。愛里の肩はまだ小刻みに震え、嗚咽が布団の奥から漏れてくる。つばさは無言のまま、あの青年の顔を思い浮かべていた。


(やってくれたわね……ハンサムくん。この責任は取ってもらうわよ)



乾いた風がコンクリートの地面を撫で、少しずつ雲を流してゆく。そこに、二人の人影が向き合っていた。


麻由子の肩が小さく震えていた。栗色の髪が風に揺れるたび、彼女の横顔が一瞬、陽に透けて見えた。


「秀……良かった……やっと……会えた」


その言葉に、秀は何も返せなかった。ただ、黙って立っている。視線は逸らしたまま、麻由子の顔を見ようとしない。


「……探してたの。ずっと……。ここに来れば、いつか会えるんじゃないかって……。退院したって聞いてから、何回も来てた。でも、ずっと空振りで……」


麻由子の言葉は、ゆっくりと、まるで傷口をなぞるように続いていった。


秀の胸の奥に、かすかにざわめきが走る。


「……秀……やっぱり、ユタくんが死んだのは、自分のせいだって……思ってる?」


その瞬間、秀の体がピクリと反応した。目を見開いたまま、動かなくなる。


ユタ──堀田那由多。その名前を聞くだけで、心臓を針で突かれたような痛みが走る。

那由多は、幼少からの幼なじみだった。

 素朴で、平凡で、少しだけ天然な、ごく普通の少年。幼い頃は、いつでも秀の後を追いかけ、無邪気に遊んでいた。そんな那由多を、秀は弟のように感じていた。

 だが、彼はいつも“先”にいた。成績、真面目さ、そして人の好意を自然に集めるその性格。対する自分は、美貌と家柄、要領の良さを武器に、常に表面的な評価を手に入れてきた。


いつでも、那由多には勝てなかった。どんなに努力しても、追いつけなかった。人間性も、成績も。


秀の心に、那由多に対する黒い感情が芽生える。


中学に入る頃には、その感情ははっきりと“嫉妬”に変わっていた。自分の方が上でなければいけないのに、なぜ、いつもアイツがトップなんだ?焦燥と不安が入り混じり


彼は、許されない選択をしてしまう


秀は常に那由多の視線を感じるようになる。特に授業中は、まるで監視されているようだった。しかし、それは自分に向けられたものでは無く、隣の席の女生徒である事に気付く。


朝日奈麻由子

整った顔立ちに、優しく落ち着いた物腰。そんな彼女を、那由多は執拗に目で追っていた。

(ふーん…アイツも色気づく事あるんだな)

秀が横から麻由子の顔を眺めると、少し怯えたように麻由子が視線を返す。

咄嗟に、ニコリと微笑んで見せると、麻由子は真っ赤になり俯いた。

(しょうもねぇ…女なんて、みんな同じなのによ)


ふと、秀は思った。

 成績で勝てないなら、アイツから大事なものを奪えばいいと。幼さ故の浅はかな企み。

(へへ…後で冗談だよ!って言ってやりゃあ良いや)


「朝日奈、俺と付き合わない?」

麻由子は嬉し涙まで流して、簡単に秀の腕の中に転がり込んだ。

秀は毎日、見せつけるように麻由子の手を握り、肩を抱き、那由多を無視し続けた。

悲しそうに俯き、那由多自ら、秀たちから遠ざかるようになった。

(バカなヤツ…。どうせ麻由子も、俺の顔しか見てねぇのに。女なんてみんなこんなもんだっての…でも、これで俺の方が上なのが分かっただろ。そろそろ言ってやるか)


だが、秀がそれを言える日は訪れなかった。


──那由多は、屋上から身を投げたのだ。


彼を道連れにして。


昏睡状態からの覚醒後、警察から那由多の死を知らされ、秀の胸には、焼き付くような後悔だけが残った。自分は、取り返しのつかないことをしたのだと。あまりにも遅すぎた後悔だった。


「秀……?」


麻由子の声が、過去から現在へと秀を引き戻す。


彼女の顔が目の前にあった。悲しげに、それでも真っ直ぐに、秀を見つめていた。


そして、次の麻由子の言葉が、秀の全身を撃ち抜いた。


「秀……私、あの時、屋上でユタくんと一緒だったの──」

「……え?」


言葉にならない声が漏れる。秀の心臓が、強く、重く、跳ねた。


「私は……最後の瞬間を、見たの。……だから、私、ずっとあなたに会いたかった」


「どういう……ことだ……?」


秀の声はかすれていた。呼吸が浅くなり、鼓動が耳の奥で爆ぜるように響いている。理解が追いつかない。否、理解したくない現実が今、目の前にある。


麻由子は、静かに口を開いた。

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