第3話 断絶の雨 僕を呼ばないで

朝から横殴りの雨が町を叩き続けていた。空は鉄のように重く、どこまでも灰色だった。


秀の住む古びたアパートでは、詰まった雨樋から雨水が噴き出し、地面に濁った水たまりができていた。しとしとではない、ゴウゴウと唸るような音が、部屋の中まで響いてくる。


そんな中、不意に玄関のチャイムが鳴った。


ドアを開けると、そこに立っていたのは愛里の母――千鶴だった。


やはり。言われる事は想像がついている。


濡れた傘を閉じもせず、彼女は一言も発さずに、濃い茶色の封筒を差し出した。まるで、それだけを伝えるためにここまで来たのだと言わんばかりに。


秀は、受け取ることもせず、その封筒をじっと見つめた。


「これを頭金に使って、引っ越していただくか……。ここに住み続けるつもりなら、カーテンを買って、窓はもう開けないと約束してください」


その声は、かろうじて震えていなかった。だが、抑え込んだ激情の気配が言葉の奥に滲んでいた。

秀は無言を貫いた。封筒に目をやれば、厚みと重みで「かなりの額」が入っていることが分かる。


だが、動かない彼に痺れを切らしたように、千鶴は玄関から見える台所へ視線を向け、封筒をコンロの上に無造作に置いた。


「それでは……」


踵を返し、去ろうとしたその瞬間。


「ふん…あいつはお人形かよ」


低く、静かに漏れた秀の言葉に、千鶴の足が止まった。


そのまま、雷に打たれたようにゆっくりと振り返る。



スナック「つばさ」の2階。そこにある居住スペースで、愛里はテーブルにもたれ、ぼんやりと窓の雨を眺めながらプリッツをタバコのように咥えていた。


コリコリ……小さな音が静かな部屋に響き、ユラユラとプリッツが揺れる。


「こらっ!お行儀の悪い食べ方しないの!」


つばさの声が背後から飛んできた。バスタオル一枚、風呂上がりの姿だ。


「は、は〜い……えへへ」


愛里は慌ててプリッツを口の中に押し込み、笑って誤魔化す。


「ぼんやりするか、お菓子食べるか、どっちかにしな?」


「うん……」


つばさはタオルで髪を拭きながら、鏡台の前に座る。そしてしばらく黙っていたが、ふと、愛里の質問が飛んできた。


「ねぇ、つばさママ。今日、どうしてお母さんお仕事お休みしたのかな? それに、『ママのところに居なさい!』って、ちょっと怒ってたの」


手の動きを止め、つばさは鏡の中の自分を見つめる。ゆっくりとタオルを置き、愛里の隣に座った。

「そうね……それはね、お母さんが愛里を愛してるからよ」


そう言って、そっと頭を撫でる。母親のように、姉のように。


愛里は一瞬、首を傾げ、つばさの顔を見た。どうにも腑に落ちない、と言いたげに。


アパートの玄関先では、千鶴が小刻みに肩を震わせていた。秀の言葉が、胸の奥をえぐっていた。


「どういう意味よ……」


「……あんたの娘、俺みたいな得体の知れない男に平気で絡んで来てさ、登校拒否?引き篭もり?なんか知んねぇけど、親の居ぬ間に無防備過ぎじゃねぇか?」


千鶴の目が見開かれ、息が詰まる。


「あんたのお説教も、俺の部屋まで聞こえてんだよ。散々娘放置しといて、教育ママが聞いて呆れるぜ」


秀はタバコをふかし、天井に向かって煙を吐き出した。白い煙が、淀んだ空気の中に溶けてゆく。


「…とにかく、俺は檻の中のお人形ちゃんの話し相手になってやったんだ、こんな金なんかで……」

その言葉が終わるより早く、


パシンッ!


鋭い音とともに、千鶴の平手が秀の頬を打った。


「勝手なこと言わないで!!……何も知らないくせに!!!」


涙を浮かべたまま、千鶴は玄関から駆け出していった。


秀は視線を封筒に落とし、握りしめる。


「……知るわけねぇだろ……」


ガンッ!と、ドアを拳で叩く。


雨の音が、ただ黙って、すべてを見ていた。



翌日秀は、自分の貯金でカーテンを買った。引っ越し先のあてなど無い。

 色褪せた薄緑の布地は、安物特有のペラペラとした手触りで、日光を遮る力もなく、差し込む夏の光を受けて室内を蒸し風呂のように変えていた。蒸し暑さに滲む汗が背を伝い、シャツに染み込んでゆく。


ふいに、窓の向こうから、掠れた声がした。


「お兄ちゃん……お兄ちゃん……いるの? どうしてずっと窓、閉めてるの……?」


その声は、まるで彷徨う迷子のように、細く、脆く、壁越しに揺れてきた。

 秀は息を呑み、足音を殺して窓に近づいた。カーテンの向こうからは、小さなすすり泣きが混じる愛里の声。どれ程寂しいだろう?俺の裏切りに、どれ程傷ついただろう?でも、どうする事も出来ない。

堪えきれず、秀はその場に膝をついた。顔を覆った掌の下から、滲み出す汗と涙がぐしゃぐしゃに混ざり合って、畳の上にポタポタと落ちていく。

 片目しかない彼の涙は、片方の頬を濡らしながら、静かに床に染み込んでいった。


余りにも無力で、不器用な己自身を悔やみながら、ただひたすらに泣いた。


その夜から、秀は眠るとき以外、部屋に居つかなくなった。

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